当然、生まれ故郷を痛罵されて笑える者もなかなかいない。が、レオは一時はアッティールの姓を捨てることすら考えていた身なのだ。このときレオはほかの誰にも打ち明けぬまま裏で意気込んできたこと、励んできたこと、そのときの心地よさすべてを否定されたような気持ちになっていた。
(おまえはアッティールなのだ、どうしようもなく)
と、例の黒いよどみが囁いてきたかのようだ。
対するヘイデンも、半ば腰をあげて応戦の構えを見せた。クロードが双方のあいだに割って入ろうとしたとき、
「まあ。……いったい、なんの騒ぎですの?」
着飾ったフロリー・アングラットが広間に姿を見せた。
準備に手間取った、とフロリーは遅れた言い訳を口にした。
が、早くも息が乱れがちな様子や、薔薇のように赤く染まった頰を見るまでもなく、客人の前で歌を披露する踏ん切りがなかなかつかなかったのだろう。ずっとつき添っていた母の手で強引に背を押されて、ようやく入場にいたったようだ。
ともあれ、クロード・アングラットはそんな娘を責めるでもなく、むしろ心底ほっとした様子で娘をヘイデンに引きあわせると、丁重な挨拶をさせた。
ヘイデン・スウィフトも礼節をもって返した。いったんそれで毒気が抜けたのか、先ほどの青ざめた顔もどこへやら、けろりとした顔で、
「レオどの。いささか言葉が過ぎたようだ。わたしは酒の席での失敗をとがめられることが多い。無作法者のあきれた悪癖だと笑ってくださらぬか」
そうまでいう。
レオも矛を収めるしかない。むっつりとした顔で自分の席へ戻った。
フロリーは緊張の面持ちで一礼した。右の手で、人差し指と親指で輪っかを形づくると、それを顎の先に当てる。これは、バーダイン教徒がよくやるおまじないの一つだ。緊張を取り払う効果があるという。フロリーの母は、アリオン領内には珍しくバーダイン教徒の多い集落で育った。夫や子供たちに戒律を強制することはなく、また、彼女自身、それほど厳格な信者というわけでもなかったものの、こういったおまじないはフロリーが面白がったので、母から娘にいくつも教えている。
歌がはじまった。精霊へ捧げる感謝の歌だ。精霊信仰盛んなアリオンにおいては、王族貴族たちのみならず、土を耕す百姓にしても、獣を狩る狩人にしても、身の回りの暮らしに精霊が密着していると信じており、こういう歌などは、場末の飲み屋でも酔っ払いたちが調子っぱずれの声で歌いあげていたりする。
要するに、ありきたりな歌だ。
その後、歓迎の宴は何事もなく終了したが、
(妙ななりゆきになった)
クロードは頭を抱える羽目になった。
まず率直にいって、フロリーの歌は成功したとはいいがたかった。昔は家にやってきた当初のレオにさえあかるく声をかけていたフロリーだったが、歳を重ねるにつれて人見知りの面が高じてきた。客人が来るとなると、自分の部屋に『籠城』して一歩も外に出たがらない、というようなことが多々あった。
そうした面を多少は矯正してやらねばならない、と思うからこそ、ヘイデン歓迎の宴席にも娘を引き出したのだが、やはり緊張は隠しとおせなかった。家族の前でだと、兄二人に手拍子をさせ、口笛を吹かせながら実にのびのび歌うというのに、あの晩は、本来ふくよかな声は震えてかすれがちになり、自由な抑揚も失われて、所々音も外してしまった。
フロリーも自覚があってか、歌い終えるとすぐに退室した。娘には気の毒をさせた、と思っていたクロードだが、案に相違して、ヘイデンはこの出しものに満足した。
──どころの話ではなかった。
レオに当てこすりをいっていたときを除いて、何事にも無感動、無感情を貫いていたヘイデンだったが、フロリーが懸命に歌いあげるその様に、目を大きくみはり、口をぽかんと開けて、熱にうなされたかの様子で見惚れた。
要するに、ひと目惚れをした。
ヘイデンにはすでに妻がある。由緒正しい血筋の妻で、子も二人儲けていた。だというのに、翌日、ヘイデンはクロードの部屋を一人きりで訪ねると、打診した。
「フロリーどのに王都の教育を受けさせてはいかがであろう」
という。
「フロリーどのの素質、才能が花開くよう、無論わたしが責任を持ってお預かりする」
側室にくれ、とはいわない。が、結局は同じことだ。教育を受けさせるという名目で近くに置きながら、宮廷で名のある貴婦人の側仕えにでもして箔をつけさせたのち、やがては自分のものにするつもりでいる。
妙ななりゆき、とはこのことだ。
実のところ、これはクロードにとっても決して悪い話ではなかった。歴史の長いアリオンのこと、クロードのように一兵卒の身分からなりあがった男に対しては、自然と中央からの風当たりも強くなる。
いまは一城を預けられている身分ではあるが、その城とて国境に複数ある砦に毛が生えたていどのものに過ぎず、当然領地から得られる恵みなどごくわずかなものだ。また、この領地とて、アリオンが切り取ったばかりの土地なので、情勢が落ちつくまではクロードに任せているものの、謀反や山賊の跋扈などが一段落してどうやらここが国境線に定まりそうだとなれば、砦をいくつか合併させて大きな領地にまとめる算段となり、クロードなどは用済みになりかねない。
アングラットという姓に関しても同じようなもので、これは城をもらい受けたとき、歴史ある名士の姓をそのまま譲られた格好だ。つまるところ、クロードの立場はまだまだ心もとない。
一方、ヘイデン・スウィフトは中央に近い人物である。王族の庶子から連なる血族であるため、貴族としての名も将軍としての立場もほとんど名目上のものであるが、それでも血筋は強い。国王と個人的に親しい間柄であるとも聞く。クロードのようななりあがりならなおのこと、中央とのつながりを持っていて決して損はなく、ヘイデン自身、それをほのめかした。
「クロードどのほどのご器量なれば、王都において軍の一角を束ねる地位にもつけるはず」
とまでいった。
クロードの心が揺れた。なりあがりのクロードには、物語めいた立身出世を夢見る稚気がまだ残されている。中央から離れた砦の一太守で終わるつもりもなかった。
が──、ヘイデン。
レオを、正しくはアトールを罵倒した場面が記憶に色濃い。ヘイデンに関しては、王都のほうからいくつか噂を耳にすることもある。アリオン現国王に近しいのは事実で、また、国王も妙にこの男が憎めないような態度を取っているとは聞くものの、なかにはよからぬ話もいくつかあった。クロードには、立身出世を夢見る稚気と同様以上に、娘に娘らしい幸せを願う、庶民めいた親心もある。
「あれは親のわたしが手を焼くほどに引っ込み思案の娘。もう十六になろうかというのに、昨夜の歌でも十分おわかりのとおり、どうにも見知らぬ人間が苦手でならない。無論、申し出は飛びあがるほどに嬉しい心持ちのするものですが、あのフロリーに華やかなりし王都の暮らしがあいますかどうか。その話はまたのちほどに」
遠まわしに断った。
ヘイデン・スウィフトは逗留の期間を延ばしてでも交渉をつづけた。そのうち、クロードやヘイデン本人が洩らしたわけでないにせよ、そのことに関する噂がレオたちの耳にも聞こえはじめていた。
「なりませんぞ、父上」
「当然、なりませぬ」
ウォルターとジャックが声を荒らげた。時折、大人しいフロリーをからかっては泣かせることもある二人の兄だが、妹への愛情には並々ならぬものがある。
当のフロリーはというと、話を聞くなり顔を真っ赤にして、それ以来ヘイデンと同席することを避けるようになった。
ヘイデンもあきれるくらいに粘った。クロードもなるべく波風立たぬような言葉と態度を選んでいたものの、それではヘイデンの情熱に油を注ぐ一方だと思い知って、
「実は、娘にはすでに心に決めた者があるようで、その者と離れ離れになってまで王都へ赴くことを承服するかどうか」
そんな虚偽まで口にしてみせた。
それでもなかなかあきらめようとはしなかったヘイデンだが、そのうちにコンスコン寺院との会合の日が近づいてきたので、やむなくこの城をあとにせねばならなくなった。
出立の日。
クロード親子、そしてレオもともに見送りに立った。
バーレーの湖にはふたたび人だかりができている。今度は、船が飛びあがる様をひと目見ようというのだ。
ヘイデン・スウィフトは宴席のときと同様、いざとなればけろりとした表情のできる男で、如才ない態度で礼を述べたのち、颯爽とした足取りで飛空船へと乗り込んだ。
が──、
レオ・アッティールは、最後に、ヘイデンがちらりとこちらによこした視線を長いこと忘れられずにいた。
微笑みこそ浮かべていたものの、そこには、隠しきれない敵意がひそんでいるように、レオには見えたからだった。