全身を鎧兜で覆っている。外気に触れている部分などわずかばかりもないのではないかというほどの徹底ぶりだ。人々の困惑はじょじょに憶測から生じるざわめきへと変わり、ざわめきはやがて期待と予兆からの喧騒へと転じた。
「そう、この方こそ〈竜戦士〉ギュネイさまその人であられる!」
詩人の声は魔術師が唱える呪文のひと声のようだった。
店内が爆発したかと思うような歓喜と歓呼の声、声、声。
「ザッハ出身のギュネイさまは、皆さまの、現在の生活をお知りになりたいと常々おっしゃっており、こうして時折りお忍びで下町を訪ねておられるのだ。かくいうわたしも、なにを隠そう、ギュネイさまにお仕えして邪神討伐に同行した騎士見習い──」
あれほどうっとりと耳を楽しませてくれた詩人の声だったが、もう誰も聞いている者はなかった。大勢の人が鎧姿のギュネイに群がって、平和をもたらしてくれたことへの感謝と、あなたにこうしてお目にかかれていかに感激しているかという言葉、邪神討伐のお話をひと言でも聞かせてはくださらないかといった懇願などが、もう引きもきらない波のようにあふれている。
ギュネイは片手をあげて皆の騒ぎを鷹揚に受け止めつつ、
「どうぞ皆さん、席にお戻りください。ああ、騒がしくさせるつもりなどなかったのに。ただ皆さんが平和に過ごしているところを遠くから見守りたかっただけなのです。店主どの、すまない。ここでの支払いはわたしがするのでどうぞ許してほしい」
飛ぶようにしてあらわれた店主も、いつもの不機嫌な顔はどこへやら、貴人相手にするような態度で深々と腰を折っている。
ギュネイは店の一角に腰を落ち着け、やがて彼に請われる形で詩人の歌が再開された。
皆、ちらちらと偉大な英雄の姿に注意を奪われつつも、しかし実際に英雄その人を間近にしながら聞く物語はより真に迫って聞こえてきて、まるで彼らは自分たちも英雄の旅に同行しているような気持ちになった。英雄たち一行は〈純潔の聖女〉エリシスの導きのまま、『ミルド人の墓所』から南のダスケス国に渡って、邪神軍四天王の一角とされた〈竜人〉ゴドイと戦い、なんとか勝利をおさめた。店内は拍手喝采に包まれた。しかしその直後に、アルギア国の王都が陥落したとの知らせを受けて、今度は深い絶望に閉ざされた。
「大陸全土はランドールの悪しき手に落ちてしまうのか。われわれはひとり残らず邪神の供物になるしかないのか」
詩人が問いかけると、「否!」と酔漢のひとりがジョッキをテーブルに打ちつけた。さっきまでジャックに絡んでいた樵のロブだ。「そうだそうだ」と店中の男たちがジョッキを上げ下げして、女たちも声を揃える。
「われわれには〈運命の勇士〉アレフがいる、〈竜戦士〉ギュネイがいる」
「邪な神など恐るるに足らず!」
「さよう!」詩人の声もますます調子が高まる。「刮目せよ。アレフ、ジューザ、ケイオロスの三人はダスケスの砦にとどまり、新たに差し向けられた四天王と真っ向から戦う覚悟だ。すべからく耳を澄まして聞くべし。エリシスとギュネイは北のエレィノアへと渡って、ランドールを背後から衝く心構えだ。英雄たちは誰ひとりとしてあきらめてはいない。その手に摑むであろう勝利を。神の加護が約束された未来を!」
聴衆たちの盛りあがりはいや増すばかり。ギュネイはそれを満足げに眺めながら、テーブルひとつひとつをまわって、皆と杯をあわせている。やがてジャックたちのいる席にまで来た。ジャックたちの酒が尽きているのを見て取ると、
「奢らせてもらいましょう」
と店員を呼んで新たな酒を持ってこさせた。
「いや、いいですよ」ジャックがあわてて手を振った。「もう帰るところだったし」
「手前」と目ざとくそれを見つけたのは大男のロブだ。「〈竜戦士〉さまの酒が飲めねえだと? 不躾にもほどってものがある。やっぱり一度は痛い目にあわせてやったほうが……」
「まあまあ」ギュネイはあくまで穏やかに大男の怒気を遮ってからジャックのほうを見た。「一杯だけ。ここで知りあったのもなにかの縁ですから」
ジャックは不承不承頷いた。
また新たなテーブルに向かうギュネイの後ろ姿を眺めつつ、髭の男はジャックに、
「よいのか、酒など馳走になって。おまえも酔っているだろうから一応は教えておいてやるが、あれは偽者だぞ」
店にいる誰かひとりにでも聞かれたら凄まじいパニックになりかねないことを口にしたが、ジャックの反応は極めて大人しかった。
「いいよ、別に悪さをしているわけじゃないし。逆に、みんなに奢ってやっているんだからいい人なんだろう。放っとけばいい」
「いい人かねえ」髭の男は小馬鹿にしたように笑った。「まあ、『英雄』の話はいいさ。それよりおまえのことだ。さっきは樵から逃げまわってやがったな。だらしのねえ。剣を持たなきゃ喧嘩ひとつできねえか。男同士の喧嘩なんざ、金玉蹴りあげりゃ、それでしまいだろうがよ」
男は息巻いたが、赤い顔のジャックは酒を口にしながら「うふふ」と小さく笑った。
「なにかおかしいかよ」
「あんたが、この世のことでわからないことはない、ってくらい凄い知識があることは、おれが誰よりも知っている。でもさ、ほんの時折り、普通の人がわかっていることがあんたにはまるでわからない、ってことがあるんだ。人と長いこと接触を断ってきたから仕方ないけど」
「おれがなにをまちがえた?」
「おれには力自慢の兄貴が三人もいたから、喧嘩はしょっちゅうだった。喧嘩ってのは、殺しあいじゃないんだよ。毎日顔をあわせている相手と、命の奪いあいをしてたまるもんか。命も、最低限の信頼や尊厳も損なわないていどにやるのが喧嘩ってもんさ。金玉なんて蹴りあげた日には、おれは家を追い出されるか、毎日同じ仕返しをされて、こっちが命の危機に陥ってたはずだよ」
「戦いに信頼も尊厳もあるか」
「だから、わかってないんだって。当時の兄貴たちだって、ロブさんだって、いままでも、そしてこれからもいっしょにいる人たちなんだ。喧嘩だってつきあい方のひとつ、ってこと。上手くやらなきゃ生きていけないんだよ。簡単にいえば、ロブさんに楯突きすぎたら、おれは職を失っちゃうから、余計に守らなきゃいけない一線がある」
「ほーお。ご立派に講釈を垂れてくれたが、そういう心持ちなら、おまえだってもう少し世渡りが上手くならんとなあ。ロブという男、なぜあれほど怒っていたと思う?」
「隠者に世渡りをいわれるのかよ。ロブさんは誰にだって短気なんだ。酒が入ればますます」
「ちがうな」髭の男はあっさり断じた。「ロブというあの男、気づいたのさ。おまえが卑屈な態度を取りながらも、自分をちっとも恐れてやしない、ってことに」
一瞬ジャックは黙りこくってしまった。
「いつも腕力で周りを従わせてきた男だからこそ、そういうことには敏感なんだろうさ」
ジャックはそっぽを向いたついでに、まだテーブルをまわっている『ギュネイ』の姿を見やっていた。鎧は、角やら、色とりどりの宝石やら、竜をモチーフにした意匠やら、とにかくごてごてと余分な飾りつけが多くて、とても戦いに向いているようには見えない。それでも貴公子然とした振る舞いをつづける『ギュネイ』をなおも見やりながら、
「おれって、あんな風に見られてたのかなあ」
ジャックがぽつりとつぶやくのが聞こえて、髭の男は苦笑いを禁じ得なかった。
──あのロブという樵も、店にいる客のすべても、そして英雄物語をいまなお歌いあげる吟遊詩人も、『ギュネイ』の芝居をつづける男も、驚天動地の思いがするだろう。
いま、どぶ臭い店の隅っこで、背中を心持ち丸めて奢られた安酒をすすっている、ごくごく平凡なこの若者こそが、邪神を討ち払った六英雄のひとり、〈竜戦士〉ギュネイその人であるという事実を知ったならば。