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〈異形〉を具体的にどういいあらわすかは、目の当たりにした人間によってそれぞれ異なるにちがいない。
たとえば膨らんだ水死体を見たことのある人間には、それが息を吹きかえしてあらわれたように見えた。ある人間には、自分が先ほど店の片隅で吐き出した汚物が人の姿になったように見えたし、ある人間には、黒い煤が寄り集まっているように見えた。
目にした姿は様々であっても、反応は一致していた。
「ランドールの魔獣だあっ」
「奴らがまた来たぞ!」
絶叫、悲鳴をとどろかせながら、テーブルや椅子すべてひっくりかえす勢いで、店の入り口から遠ざかろうとする。『ギュネイ』は人波に揉まれて立ちあがることができずにいたのだが、そこを〈異形〉──彼らいうところのランドールの魔獣──に狙われた。
魔獣はその背中に翼らしきものを有していた。ただし体格の割におそろしく小さくて、おまけに見る者を不快にさせるほどねじくれており、それで飛べるとも見えないのに息を吞むほどの速度で床すれすれを滑空。
黒っぽく、いびつに膨らんだ腕が甲冑の足を摑む。『ギュネイ』が「ぎゃっ」と声をあげた。甲冑は白銀色をしていたのだが、摑まれた部分が黒く変色していた。水ぶくれを起こした皮膚そっくりに鉄がぼこりと泡だち、次いで黒く煮立って、魔獣の手のなかで溶けていく。
「野郎っ!」
とこのときロブが、壁に立てかけてあったモップを手に取るなり、魔獣の背中に殴りかかった。しかし魔獣の皮膚に触れた瞬間からモップも黒い色に侵食されてぼろぼろに溶け崩れて、勢いを持て余したロブはつんのめって倒れてしまった。
人々の悲鳴が店内でいびつな渦を巻いた。つい先ごろまでの浮かれ気分などその渦に吞まれて搔き消えていた。暗黒の時代に逆戻りだ。家族で身を寄せあって彼らの注意を引かないよう、赤子の口さえ手で押さえながら、揃って息を殺しつづけたあの時代に。
このとき──、『ギュネイ』のおつきとして店にあらわれた例の吟遊詩人は、テーブルの下に隠れひそんでいた。
彼は自称していたような「英雄に同行した騎士見習い」などではなく、大戦がはじまる前から、今宵と同じく酒場を巡って酔いどれを気分よくさせるだけの歌を歌っては日銭を稼いでいる身分だった。いくさが終わったあとになって、やはり酒場で歌っているところを『ギュネイ』に拾われた。『ギュネイ』はいわゆる豪商の息子であり、こうして特別に仕立てた甲冑を身にまとっては、夜中に闊歩して英雄ごっこを楽しむのが趣味だった。ただし、都会で派手にやったのでは正体がばれやすいので、こうした田舎村で楽しむのがせいぜいだ。
最初、『ギュネイ』を護衛するようにあらわれた武装兵たちも、金で雇われた村人に過ぎないから、いまはあっさり主人を見捨てて裏口から外に逃げている。吟遊詩人はテーブルの下に身を忍ばせたはいいが、身動きできず、骨ごと震えるような思いをしながら、
(なにが六英雄だ。なにが邪神を討った伝説の戦いだ。悪夢はまだ終わっちゃいなかったんだ。おれたちは悪魔に弄ばれて、一生血反吐を吐いてのた打ちまわる運命なんだ)
そう毒づくしかなかったが、のちに彼は、この一夜で見た光景すべてを歌にして、ザッハ各地で歌いあげることとなる。歌い出しはこうだ。
(われらに希望を抱かせた六英雄とはなんであったか。世界中の人々を歓喜させ、小躍りさせた邪神討伐の報とはなんであったか。すべてはただ夢、幻に過ぎなかったか)
(否である。そう、皆声を揃えよう。否である、と)
黒い魔獣が『ギュネイ』の身体を引き寄せにかかった。これ以上はないと思われていた悲鳴がさらに大きくなった。仰向けにさせられた『ギュネイ』に魔獣の爪が迫る。
(否、否、否。なぜならばそう──われらには)
吟遊詩人の眼前を、暗緑色の突風が吹いた。
瞬間、そこにあらわれたのは全身に甲冑をまとった武人。面頰をおろし、素顔はおろか、外気に触れている部分などひとかけらもないのではないかというほど全身をよろったその姿は、吟遊詩人が見慣れていた『ギュネイ』のものとはだいぶ様子がちがっていた。
兜は、絵巻物などに登場する竜の顔そっくりで、上下左右、四つに割れた口の中央に顔が位置しているようだが、これがぴったり前面で閉ざされているため素顔はまるで見えない。甲冑には、ひとつずつ丁寧なつくりの小ざねが無数に折り重なっており、こちらはまるで鱗のようだ。〈竜戦士〉と呼ばれるゆえんだ。
(われらには、そう、〈竜戦士〉ギュネイがいる。邪な神など恐るるに足らず)
甲冑には竜に似た長い尾もついていたが、無数に棘を生やしつつ先端が鋭く尖ったそれがひとりでに垂直近くまでそそり立つと、根もとからあっさりと断ち切れた。床に落下する寸前に甲冑の主が右手で受け取る。誰もがこの瞬間ひとつの単語を思い浮かべたことだろう。
ああ、あれぞ〈竜戦士〉の尾──邪を薙ぎ払う聖鞭にして、悪を穿つ聖槍、エル・スリーンである、と。
魔獣の咆哮は、嵐の夜、戸板越しに耳にする風の音そっくりだった。『ギュネイ』に振りかざす予定だった一撃は軌跡を変え、暗緑色の甲冑めがけて横殴りに振るわれた。
その腕が途中から寸断された。ロブの一撃を黒く溶かしたはずの体皮は、甲冑の主が振るう槍の一撃にはあっさり屈したのだ。魔獣がよろめいた。『ギュネイ』を摑んでいた腕が離れて翼がはためく。いったん浮きあがって距離を取ろうという試みは、しかし無造作に一歩を踏み込みつつ甲冑の主が放った追撃の槍によって阻まれた。
空中でいびつな形の胴体が真っ二つになった。
だが、〈異形〉は一体だけではなかった。すでに、二、三の影が店内にあらわれつつある。
(刮目せよ。〈竜戦士〉ギュネイは邪神の眷属を恐れぬ。〈賢者〉ケイオロスは邪なる魔術の産物を蔑みの目で見る。聞けや聞け聞け、ギュネイの槍が巻き起こす風の咆哮、ケイオロスがかざした手から放たれる火球の轟きを)
たったいま槍を振るった甲冑の主とは、ギュネイその人だ。ついさっきまでは甲冑など身につけていなかったはずだが、ケイオロスが「来るぞ」と叫んだ瞬間、左手首にはめてあった腕輪が輝いたかに見えると、次の刹那には、ギュネイの姿は暗緑色の甲冑に覆われていたのだ。
つづいての二体目は、ケイオロスがいったん退けた。彼もいつしかその手に杖を握っている。伝説に語られる英雄の振るう杖は、その先端から灼熱の炎を生み出し、それは球状の形を維持しながら放たれた。