「財政長官のウォーレスとな。あ奴、前々からわしの愛馬を欲しがっていたからな。王宮に勤めておきながら、おまえがスカートを着て出場するなんて情報はわしに教えてもくれなかった。知っていれば、倅を叱りつけてでもおまえに公平なレースをさせたものを」
「それで、お爺さまはウォーレス長官の何を欲しがってらしたのです?」
「はは、いや、なに」
「長官はお酒のコレクションで有名ですものね」
「それもあるが。うむ、あ奴は女性の趣味もいい」
「はい?」
「ウォーレスの別荘に遊びにいったことがあるが、そこで働いていた侍従の娘が──娘といっても、出戻りの三〇女だが──なかなかの美形でな。ああいう娘にこの離宮に勤めてもらったら、わしももう少し生きる甲斐が出てきそうだと思ったのだよ」
「お爺さまったら」
ガーベラ国第三王女ビリーナはぷっと頰を膨らませ、祖父をにらむようにしたが、すぐに噴き出し、ふたりして大笑いした。
月の光を孕んで青ざめるカーテンの裾を、あるかなきかの風が柔らかくそよがせる。
突然、ビリーナはベッドの近くにしゃがみ込み、祖父の手をはっしと摑んだ。その手に顔を押しつけ、小さく肩を震わせる。
「ビリーナ、これ、どうした。幼子のように」
「いいえ──」
いいえ、いいえ、とくり返すビリーナの瞼はしっかりと閉ざされ、その奥からこみ上げてきそうなものを必死に喰い止めている。
(小さくなられた)
細く、頼りないその手に顔を預けながらビリーナはそう思う。 若かりし頃は剛勇で知られた祖父だ。地方の豪族たちを次々と従え、ガーベラという国を他の列強に負けぬところまで押し上げた。メフィウスにエンデという、歴史の古い大国に何度となく領土を切り取られては、流浪の憂き目を味わってきた領民たちは、皆、ジオルグ・アウエルの勇名を称え、歴史は浅いながらも他国に決して劣らぬ団結をも生み出した。
ビリーナは幼い頃からこの祖父に懐いていた。国王の座を退いてからも影響力は依然強く、息子、すなわちビリーナの父にとっては、口やかましいけれど頼らざるを得ない厄介な存在だったのだが、ビリーナにとっては優しい祖父以外の何者でもなかった。
この離宮に何度となく遊びに来ては、川に魚釣りに出かけ、いっしょに泳いで、そして陽が暮れると戦争をシミュレートしたボード盤にひと晩中興じた。
祖父は、ビリーナが木製の剣や盾を振り回しても父のように怒らなかったし、年頃がいっしょの子供たちと取っ組み合いの遊びをしても、馬に跨っても、飛空艇に興味を持って近づいても、叱るどころか、ひとつひとつ、丁寧に指南もしてくれた。
何より、冬、暖炉の側で祖父の膝の上に抱き上げられながら、聞かせてくれる戦争や他国との駆け引きの話、そしていくつもの豪族を抱えたガーベラにおいて、内部に孕んだいつ勃発するとも知れぬ紛争の火種をいかに回避してきたか──そんな話にビリーナは夢中になった。
そして話を聞いた晩、寝床についたビリーナは、必ず夢を見た。ぴかぴかの鎧兜を着て、飛空艇の上に突っ立ち、見下ろす先に居並ぶ勇猛な騎士たちに、命令を下している自分の姿。いつか自分も戦場に立って、祖父とともに戦うのだと、幼い心を興奮に染めていた。
だが、壮健そのものであった祖父がある冬以来、身体を壊し、床に伏せるようになってしまった。ビリーナが訪ねたときは以前と変わらない笑顔を振りまいてくれたが、いっしょに乗馬をしたり、飛空艇に乗ったりということはできなくなった。そして五年前、そんな祖父に追い討ちをかけるような出来事が起こったのだ──。
「顔をお上げ」
祖父に促され、はっとビリーナはそれに従った。すんでのところでこらえた涙が、瞳にうっすらとした月光の輝きを宿らせている。ジオルグの相好が崩れた。
「なるほど、わしも歳を取るわけだ。あの、跳ねっかえりのおてんば娘が、何と一週間後には式を挙げるというではないか。うんとちっちゃい頃、あの庭園のわしが大事にしていた花壇を滅茶苦茶に踏み荒らした悪竜の遣いのようであった娘がなあ」
「お、お爺さま」
「それに、あのときも驚かされた。国中の語り草なのでな、おまえはもう耳にたこかも知れんが。五年前、謀反者にこの離宮を乗っ取られたあのとき。病床に伏せっていたわしに代わって、おまえはあ奴らに一歩も引かず堂々と渡り合った。おまえが男であれば、と誰しもが言った。しかしわしはそうは思わぬ。おまえは立派な女性だ。ガーベラが誇る、勇ましき姫御。どの国の英雄にも、竜にも、そして黄金と引き換えになり得るどんな特産物にも引けを取らぬ、わしらの誇りだ」
顔を赤らめるビリーナの顔を、ジオルグは両手で挟み込んだ。
「そんな孫娘が結婚とはな。どのような子を産み、育てるやら。生涯に何の悔いも残さぬようつとめてきたわしであるし、またそのとおりのことをやってきた自負もある。しかしただひとつ悔いがあるとするなら、赤子を抱いたおまえの姿を、この目で見られぬということだ」
「何も、今宵限りでお別れというわけではありませぬ」
微笑んでビリーナはあかるい口調で言った。しかし彼女にもわかっている。祖父は長いこと伏せっており、もうこの離宮から出られることはないだろう。数日後には国を離れる彼女自身、これが今生の別れのつもりで来たのだ。
微笑みはすぐさま崩れ去り、ビリーナはまた顔を伏せた。眉根が寄り、怒りに美貌を曇らせる。
「お爺さま。ビリーナは、嫁になどいきたくありません。お爺さまの側を離れるなど、嫌です。それも、よりによって、メフィウスなどに!」
国中から愛されるおてんば姫が、庶民の娘が嫁ぐ前に見せるようなごくごく平凡な、それだけに切実な悲嘆にいっとき暮れたかに見えたが、
「あの野蛮人どもの国。お爺さまを傷つけた謀反人も、もとを言えばけしかけたのは他ならぬメフィウス。父上に覚悟がおありになるのなら、初夜の床で夫となるべき男の寝首を搔いてもみせましょうものを」
「おお、これ、これ」
さしもの豪胆なジオルグも思わず咳き込んでしまった。性格的には「古い」父を嘆かせるほど先鋭的でありながら、考え方のどこかに前時代的な、いかにも古めかしい部分があるのはやはり祖父と長くいた影響でもあろうか。
「何も血を見るだけが戦いではない。勝利とは、屍の向こうにのみあるのではない。心優しいおまえにならばとうにわかっていよう。庶民とて、毎日の暮らしが戦いの連続なのだ。つらく、厳しい日々にほんのわずかでも平穏なときがもたらされるならば、それもまた勝利」
「──」
「メフィウスは古い国なのでな──おまえの父なんぞより、ずっと、ずっとな──少し堅苦しい思いはするかも知れんが、おまえなら大丈夫。どこであろうと、おまえはわしのビリーナだ」
「わかりました」
ふたたび顔を上げたビリーナに、はや涙はない。月に輪郭をふんわりと縁取りされたその笑顔に祖父もまた笑みを誘われた。が、
「そう。まだ戦いは終わってはいない。剣を取り、矛を取るだけが兵士ではない。わたしもまた、ひとりの兵士なのですね」
目をきらめかせる孫娘に、何やら嫌なものを察したか、ぎくりとなる。
「わかりました。血を流さず、ガーベラの民に無理も強いず。新しきこの戦いに、わたくし、ビリーナは挑んでまいります。メフィウスの内情を探り、その弱点を見出し──、必ずややり遂げてみせますので、勝利の吉報を、どうぞお待ちください!」
すっくと立ち上がった一四の孫娘に、一瞬、ジオルグはぽかんとなってしまった。
結婚を間近に控えた乙女が、いつの間にやら戦場を前にした一騎士になっている。そのほうがいっそ興奮させるのか、頰を高潮させ、血をたぎらせている様子なのが──、ある意味でいかにもこの孫娘らしくはあった。