「まあ、気難しがり屋さん! そんなら、いいわ。いつまでもひとりでふて腐れてればいいんだわ。何よ、少しは気晴らしになるだろうって思って誘ってあげたのに。わかった、わかりましたわ、イネーリといっしょにいるのも嫌なのね。それでしたら、もう二度とお誘いしませんので、ご安心を!」
つんと少女が顔を背けると、青年はあわてて頰杖をやめた。
「ま、待て。悪かったよ。おれがあの仮面剣士に賭ける。それでいいんだろう?」
「いいえ。イネーリのほうがあの剣士に賭けますわ。お義兄さまは鉄球バーンになさって」
「へえ? なぜだい」
「気に入ったのよ」
顔も見えないのにか?──そう言いかけて、青年は危うく口ごもった。これ以上機嫌を損ねることもない。
「さあ、あの女性を解放する英雄役を担うのはオルバかバーンか。はたまた、両雄の健闘空しく、檻を破られて、あわれ美女は竜の胃袋に収まってしまうのか」
口上役がさらに声を張る。これからふたりの剣士が戦い、勝ったほうが、竜の魔手からあの女性──司会者言うところの「とある亡国の王女」──を救い出し、ひと夜の愛をも勝ち取ることができる、と、そういったシチュエーションらしかった。
両者がともに前へと進み出た。近づくと、オルバの体格不足がより強調される。バーンが最前席の客席に聞こえるような声で言った。
「貴様が虎とやらか。名前は聞いている。が、噂ほど当てにならないものもないな。顔を隠しても、その合間から見える肌でわかる。おまえはまだ若い、それもガキだ」鉄球バーンは、体格同様、太い唇をひん曲げて笑う。「大方、その仮面は舐められないためのこけおどしだろう。貴様は虎なんかじゃない、ただの犬畜生だ。このおれが本物の男との戦いがどういうものなのかとくと教えてやる」
肩で大きく笑うバーンに対し、オルバは答えない。それを臆病風に吹かれたとみなしてか、バーンは嘲りの眼差しをくれながら鉄球を肩の上で身構えた。
「はじめ!」
鋭く投げかけられた合図の声も、なおいっそう高まる歓声に半ば搔き消えた。瞬間、バーンが動いた。
鉄球を力の限りに振り回す。最初、やはり踏み込んでいくかに見えた仮面の剣士が、その勢いにあわてたようにあとずさった。ちっ、と小さな火花を立てて仮面と鉄球とがこすれ合う。それだけでよろめいたオルバめがけてバーンが追撃をかけた。人間の頭よりよほど巨大な鉄の球が風の唸りとともに迫り来るのを、オルバは後退して避けつづける。
地面を転がって、大げさに飛び退き、しまいには逃げるような仕草でどたどたと駆け回り──客たちの笑いを誘った。
「おやおや、おまえお気に入りの剣士はどうにも旗色が悪いな」例の青年が言った。「というか、まともに戦いにもならないじゃないか」
「そうかしら?」
まっすぐに前を向いた少女は、ぽってりと血色のいい唇に指をあてがいながら言った。
「だったら、どうしてあっさり勝負がつかないの?」
「それは、相手が惨めに逃げ回っているからだろ」
「バーンには、無様に逃げる相手を追い詰めることもできない、ってことかしら?」
青年は何か言い返そうとしてふと口をつぐんだ。見ると、オルバはまっすぐ後退するのではなく、相手から等距離を保ったまま円運動をしていて、バーンもすぐには追い討ちをかけられない様子なのだ。
業を煮やしてか、バーンが渾身の力を込めた一撃を放り投げる。肩の上にやり過ごしたオルバは──はた目にも、これは彼にとって好機と見えたが──、手にした剣でちょいと突つく真似をしただけで、またも距離を取ろうとする。
「真面目にやれ」
「ふざけるな!」
客も笑うのをやめて、罵声を浴びせはじめた。オルバに対してのみならず、逃げ回る相手を仕留めきれないバーンに対してのものもある。「貴様!」とバーンが吠えた。オルバめがけて斜めに飛び込んでいこうとする。あっ──と声をあげたのは少女だった。
いまのいままで腰の引けていたオルバが、突如前のめりになったのだ。足を止めた相手にバーンもここぞとばかりに一撃を放つ。
そのときオルバは右へと大きく身体を傾けるや、鉄球を避け、そのまま左爪先を回転軸として剣を斜め上へとひらめかせた。鎖の断ち切れる、妙に澄んだ音が響いたその瞬間、体をふたたびひねったオルバは、落雷のごとき勢いで剣を振り下ろす。
バーンの頭頂部はふたつに割れ、それから間もなく巨体が崩れ落ちた。
「み、見事!」
司会者が叫んだが、しかしあまりに突然、そしてあまりに意外な結末が訪れたため、観衆たちはむしろぽかんとしている。ふさわしからぬ静寂が辺りを包む中、当の勝者は意に介した風もなく、杭のほうに歩み寄っていくと、奴隷数名の手を借りてそれを地面から外し、女性を縛りつけていたロープを剣で切った。
歓喜の叫びとともに首っ玉にかじりついてこようとする女性を乱雑に押しのけると、オルバはさっさと自分のゲートのほうへ戻っていってしまった。
特等席の少女が──彼女も、ついいままで呆気ない幕切れにぽかんとしていた口だったが──くすりと唇をほころばせた。オルバというあの剣闘士、まるで客を意識していない。ただ今日も言われるがままに戦った、そして殺した、それだけだ──と言わんばかり。
「あいつ、バーンをやったぞ」
「それも一撃だ」
いっときの静寂から、やがてオルバを称える声がぽつぽつと洩れはじめる。白けかけていた客たちも、手を叩き、たどたどしく足を踏み鳴らして、勝者にふさわしい声援を送りかけた。ようやくのことで場内があるべき姿に戻りかけたその瞬間、びりっと大気が震えた。
竜ソゾスの咆哮だった。
薬が切れてか、それとも血の臭いに本能を刺激されてか、突如その巨体を右から左へと大きく振るうと、檻の一部を叩き壊した。檻を片づけようとしかけていた奴隷ひとりが、頭から竜の手に摑み上げられる。抵抗する間もなく、その上半身がソゾスの口へと消えた。
骨の砕ける音がした。水分を含んだ、嫌な咀嚼音が聞こえたのも一瞬、つんざくような悲鳴が闘技場内に満ちた。恐怖とパニックがたちまち辺りを席巻していく中にあって、ソゾスはむしろ悠然と、壊れた檻の合間からさらにその腕を伸ばしていく。
我先にと逃げ出す群衆に揉まれ、例の青年は転倒しそうになった。その手を横合いからぐいと引かれる。
「こちらです。急いで!」
特等席の警護をしていた兵士たちである。剣と銃とで辺りを威嚇しながら、青年を奥へ逃がそうとする。
「ま、待て。イネーリが──」
抗おうにも、逃げようとする人波に揉まれて自由に動けない。すると、ひときわ甲高い悲鳴が聞こえた。ソゾスが前肢をかけた仕切りのすぐ向こう、他ならないイネーリの姿があった。桟敷から転げ落ちた少女の顔は色を失い、いまにも気を失いそうに見えた。
竜の長い鼻っ面が上下に裂けた。鋭い剣先にも似た牙の列が、涎の糸を引きながら露わになる。思わず青年が目を逸らしかけたとき、ソゾスの首もとから細い血の筋が噴き上がった。剣闘場お抱えの衛兵たちが銃を持って駆けつけてきたのだ。しかし客席が近いために、至近距離でしか撃つことができず、彼らの身構える姿はいかにもへっぴり腰だ。近づこうかどうしようかまごまごしている隙に、ソゾスがすばやく振り向きざまに尻尾の一撃を放って、数名がまとめて吹き飛んでいった。
へたり込んでいた少女は、目を限界近くにまで瞠っていた。
そしてその目で、見た。
ソゾスの横合いを突風のごとく駆け抜けた影があった。影は客席の仕切り壁にぶち当たる寸前、その壁を蹴って高く舞い上がった。虎を模した鉄仮面が少女の目に飛び込んできたとき、剣闘士オルバの姿はソゾスの首もとにあった。