銃撃で一瞬気の逸れたソゾスの背後から駆け上がったのだ、とわかっても、にわかには信じられないことだった。
オルバの、一見細身の、しかし節々に筋肉を鋼のように浮き立たせた腕が、竜の首もとに深く喰い込んだ。両足でさらに首を挟み込みながら、もう片方の腕で剣を頭部へと撃ち下ろす。
長い尾を振り乱し、地面を揺らしながら足踏みし、と、竜はそれでも剣闘士を振り落とさんともがいたが、二撃、三撃目が振り落とされるにつれて、鉄の甲冑にも等しい鱗が裂け、肉が血のりとともに飛び散った。四撃目となると剣のほうが先に折れてしまったが、そのときには他の剣闘士たちも殺到していた。
「オルバ!」
赤銅色の肌をした剣士の放り投げる剣を受け取って、オルバがさらにと振り上げた五撃目が、先ほどとまったく同じ経緯を辿って、竜の脳天へと刀身半ばまでめり込む。
黄金色の目玉がぎょろりと天を仰いだ。巨体が首とともに沈み込む直前に、剣士はすたりと客席のほうへ舞い降りていた。
少女は、その姿を見上げる格好となっていた。まるで物語に出てくる、悪い魔術師に捕らえられたプリンセスのような気分で、どきどきとして見つめていたのだが、あろうことか英雄たる剣闘士はまったく彼女を無視して歩みを運び、仕切りからひらりと剣闘場のほうへと飛び降りた。
まだ雑然とした恐怖が霧のごとく立ちこめる中、立ち去っていく背中は、勝者の風格が漂うというよりも、集められた視線そのものがうっとうしそうに見えるほど、孤独なもののように感じられた。
「だ、大丈夫か?」
息せき切って駆けてきた連れの青年に目を当て、少女は、ふとおかしな感覚に陥った。先ほど、去り際に見えた、あの仮面の剣士の目もとと、青年のそれとがよく似ている気がしたのだ。
そしてもうひとり、
「まさか、生きていたとは」
オルバの背中に、別の意味で愕然とした視線を当てている男がいた。やや弛んだ顎から汗が滴るのを手の甲で拭う。青年の背後、やはり特等席にいた男だったが、独特の血臭が漂う中、彼はひとり言のように不思議なことを口にしていた。
「オルバといったな。二年か。そうか……二年もな」
2
(二年)
剣闘士オルバは、低い位置にわだかまる闇をにらみ上げながら、ふと口の中だけでつぶやいていた。
ひと言に「二年」といっても、その道は、苦難と、血と、そして屍に満ちていた。何度となく命を奪い合い、それが終われば両足を鎖でつながれて、奴隷小屋で一夜を過ごし、朝となれば剣奴として生きていくために必要な訓練を行う。そしてまた次の戦いだ。
オルバ以外の誰も、彼が五戦以上を生き抜くことができるなどとは思ってもいなかったはずだ。二年前、はじめて闘技場に足を踏み入れたときのオルバはまだ一四歳。身体もいまよりずっと細く、ほとんどの武器が手に余るほどだったからだ。
だが、実際、彼は生き抜いてきた。手にすることのできる武器、つまり自分自身が振り回されずにすむ数少ない武器を選び抜いて、力の限りに振るった。戦い方などただがむしゃらに突っ込んでいくことしか知らなかった。経験を積んで、骨が、そして筋肉の繊維一本一本が太くなるごと、新たな武器を手にし、敵の死骸を踏み越えるごとに戦い方の引き出しもひとつずつ増えていった。
そして過ぎ去った二年。長いのか短いのかもオルバにはわからない。時折、自分が相当な年寄りだと思うこともあれば、まだまだ戦いの何たるかも知らない若造のようにも思えた。
何しろ自分の顔を見る機会に恵まれていないのだから、それも当然のことかもしれなかった。仰向けに寝転がっている彼は、剣闘場にいたときと同様、いまだに鉄の仮面をつけている。この二年、外したことがないので、彼の素顔など、同じタルカス剣闘会に所属している他の剣奴隷たちとて知る由がない。
「起きろ、奴隷ども! 寝覚めは最悪か? ならもっと最悪な一日にしてやるぞ!」
朝になれば、また奴隷としての一日がはじまる。剣奴養成係にして、奴隷の監督長でもあるゴーウェンに追い立てられるように寝所から出ると、手はじめに収容所の掃除をさせられる。
それが済めば、獅子や大蛇、猪、虎など、剣闘で使われる動物たちの世話が待っている。特に竜の世話は重労働だ。小型竜、中型竜ですら、人間ひとりでは手に余る生き物だが、大型竜ソゾスの世話に至っては、果たして剣で死ぬ奴隷が多いか、わざと人間に慣れないように躾けられたその竜に踏み潰される奴が多いか、といった具合だ。
奴隷たちの住処よりよほど広い──どころか、城の中庭もかくやといった具合に広大な竜舎に足を踏み入れたオルバは、すらりとした女性の後ろ姿を認めて足を止めた。
ホゥ・ランだ。他の奴隷たちに竜の給餌を命じている一方で、彼女自身は竜たちの鱗に直接手を触れている。当然、竜たちの足や首には太い鎖が巻かれてあるとはいえ、昨日の例を持ち出すまでもなく、それが絶対の保証になるとは限らない。剣闘士ですら尻込みするような距離で、彼女は次々と竜たちに声をかけては、鱗にやさしく指で触れていた。
「オルバ」
名前を呼ばれたのは、彼女が振り向くより早かった。
「よくわかったな」
「竜たちの〈声〉が教えてくれる」
ランは微笑んだ。男所帯の、しかも殺伐とした剣奴隷たちの収容所にはいかにも似つかわしくない、無防備な笑みには、オルバもなかなか慣れない。
磨き抜かれた黒檀のような肌は、青ざめて見える頭髪とともに不可思議な艶を放っている。メフィウス西方の山々を放浪する、竜神信仰の遊牧民出身で、本来閉鎖的な血族なのだが、ランは例外的に好奇心旺盛らしく、部族にやってきた隊商の馬車にこっそり乗り込んで、外界へやってきた。それからの経緯は彼女自身語ろうとしないのでわからないが、いつしかタルカスに雇われ、こうして竜たちの世話を一手に任されるようになっていた。
「こいつらがおれの名前を知っているのか?」
「〈声〉は映像とともにわたしの頭に入ってくる。皆、オルバの顔は知っている。オルバは竜に好かれている」
白痴的に見えながら、その実、どこまでも深い海底を思わせる瞳には、文明人が失ったある種の知性が宿っているようでもある。仕切りの向こうからこちらを嚙みつこうと窺っている小型竜の鼻っ面を眺め、「そうは見えないな」とオルバは薄く笑った。
二年前にオルバがやってきたときから、ホゥ・ランはこの収容所にいた。そのときは雇い主のタルカス相手ですらまともに目を合わせようとせず、口も開かなかった。オルバの素顔をその目で見るか、ランの声を耳にするのとではどちらが難しいか、娯楽の乏しい剣奴たちの間では賭けの対象になっていたほどだ。
が、あるとき、ランは収容所に来たばかりの新米剣奴数名に乱暴されかかった。そこを偶然通りかかったオルバが彼らを叩きのめして以来、ランは彼にだけは多少の口を利くようになったのだ。
「バ・ルーでは、ソゾスに襲われたそうだね」
「おれが、ソゾスを襲ったのさ。いきなり暴れ出したからな」
「薬で無理矢理心を押し込めようとしたって無駄なんだ。わたしが監督していたなら、そんなことにはきっとさせなかったのに」