烙印の紋章たそがれの星に竜は吠える

一章 鉄と血 ③

 じゆうげきで一瞬の逸れたソゾスの背後から駆け上がったのだ、とわかっても、にわかには信じられないことだった。

 オルバの、一見ほその、しかしふしぶしに筋肉をはがねのように浮き立たせた腕が、竜の首もとに深く喰い込んだ。両足でさらに首を挟み込みながら、もう片方の腕で剣を頭部へと撃ち下ろす。

 長い尾を振り乱し、地面を揺らしながらあしみし、と、竜はそれでも剣闘士を振り落とさんともがいたが、げき、三撃目が振り落とされるにつれて、鉄のかつちゆうにも等しいうろこが裂け、肉が血のりとともに飛び散った。四撃目となると剣のほうが先に折れてしまったが、そのときには他のけんとうたちもさつとうしていた。


「オルバ!」


 しやくどういろはだをしたけんの放り投げる剣を受け取って、オルバがさらにと振り上げた五げきが、先ほどとまったく同じけい辿たどって、りゆうのうてんへととうしんなかばまでめり込む。

 おうごんいろだまがぎょろりと天を仰いだ。きよたいが首とともに沈み込む直前に、剣士はすたりと客席のほうへ舞い降りていた。

 少女は、その姿を見上げるかつこうとなっていた。まるで物語に出てくる、悪いじゆつに捕らえられたプリンセスのような気分で、どきどきとして見つめていたのだが、あろうことか英雄ヒーローたる剣闘士はまったく彼女を無視して歩みを運び、仕切りからひらりと剣闘場のほうへと飛び降りた。

 まだざつぜんとした恐怖がきりのごとく立ちこめる中、立ち去っていく背中は、勝者のふうかくが漂うというよりも、集められた視線そのものがうっとうしそうに見えるほど、どくなもののように感じられた。


「だ、だいじようか?」


 息せき切って駆けてきた連れの青年に目を当て、少女は、ふとおかしな感覚におちいった。先ほど、去り際に見えた、あのめんの剣士の目もとと、青年のそれとがよく似ている気がしたのだ。

 そしてもうひとり、


「まさか、生きていたとは」


 オルバの背中に、別の意味でがくぜんとした視線を当てている男がいた。ややたるんだあごから汗がしたたるのを手のこうぬぐう。青年の背後、やはり特等せきにいた男だったが、独特のけつしゆうが漂う中、彼はひとり言のようになことを口にしていた。


「オルバといったな。二年か。そうか……二年もな」


    2



(二年)


 剣闘士オルバは、低い位置にわだかまるやみをにらみ上げながら、ふと口の中だけでつぶやいていた。

 ひと言に「二年」といっても、その道は、なんと、血と、そしてしかばねに満ちていた。何度となく命を奪い合い、それが終われば両足をくさりでつながれて、れい小屋で一夜を過ごし、朝となればけんとして生きていくために必要なくんれんを行う。そしてまた次の戦いだ。

 オルバ以外の誰も、彼が五戦以上を生き抜くことができるなどとは思ってもいなかったはずだ。二年前、はじめてとうじように足を踏み入れたときのオルバはまだ一四さい身体からだもいまよりずっと細く、ほとんどの武器が手に余るほどだったからだ。

 だが、実際、彼は生き抜いてきた。手にすることのできる武器、つまり自分自身が振り回されずにすむ数少ない武器を選び抜いて、力の限りに振るった。戦い方などただがむしゃらに突っ込んでいくことしか知らなかった。経験を積んで、骨が、そして筋肉のせん一本一本が太くなるごと、新たな武器を手にし、敵のがいを踏み越えるごとに戦い方の引き出しもひとつずつ増えていった。

 そして過ぎ去った二年。長いのか短いのかもオルバにはわからない。ときおり、自分が相当な年寄りだと思うこともあれば、まだまだ戦いの何たるかも知らないわかぞうのようにも思えた。

 何しろ自分の顔を見る機会に恵まれていないのだから、それも当然のことかもしれなかった。あおけにころがっている彼は、けんとうじようにいたときと同様、いまだに鉄のめんをつけている。この二年、外したことがないので、彼のがおなど、同じタルカス剣闘かいに所属している他の剣れいたちとて知るよしがない。


「起きろ、奴隷ども! めは最悪か? ならもっと最悪な一日にしてやるぞ!」


 朝になれば、また奴隷としての一日がはじまる。剣奴ようせい係にして、奴隷のかんとくちようでもあるゴーウェンに追い立てられるようにしんじよから出ると、手はじめにしゆうようじよの掃除をさせられる。

 それが済めば、だいじやいのししとらなど、剣闘で使われる動物たちの世話が待っている。特にりゆうの世話はじゆう労働だ。小型竜、中型竜ですら、人間ひとりでは手に余る生き物だが、大型竜ソゾスの世話に至っては、果たして剣で死ぬ奴隷が多いか、わざと人間に慣れないようにしつけられたその竜に踏みつぶされるやつが多いか、といった具合だ。

 奴隷たちの住処すみかよりよほど広い──どころか、城の中庭もかくやといった具合に広大なりゆうしやに足を踏み入れたオルバは、すらりとした女性の後ろ姿を認めて足を止めた。

 ホゥ・ランだ。他の奴隷たちに竜のきゆうを命じている一方で、彼女自身は竜たちのうろこに直接手を触れている。当然、竜たちの足や首には太いくさりが巻かれてあるとはいえ、昨日の例を持ち出すまでもなく、それが絶対の保証になるとは限らない。剣闘士ですらしりみするような距離で、彼女は次々と竜たちに声をかけては、鱗にやさしく指で触れていた。


「オルバ」


 名前を呼ばれたのは、彼女が振り向くより早かった。


「よくわかったな」

「竜たちの〈声〉が教えてくれる」


 ランは微笑ほほえんだ。男じよたいの、しかもさつばつとしたけん奴隷たちの収容所にはいかにも似つかわしくない、防備なみには、オルバもなかなか慣れない。



 みがき抜かれたこくたんのようなはだは、青ざめて見えるとうはつとともにつやを放っている。メフィウス西方の山々をほうろうする、りゆうじん信仰のゆうぼくみん出身で、本来へいてきけつぞくなのだが、ランは例外的にこうしんおうせいらしく、ぞくにやってきた隊商キヤラバンの馬車にこっそり乗り込んで、がいかいへやってきた。それからの経緯いきさつは彼女自身かたろうとしないのでわからないが、いつしかタルカスにやとわれ、こうしてりゆうたちの世話をいつに任されるようになっていた。


「こいつらがおれの名前を知っているのか?」

「〈声〉はえいぞうとともにわたしの頭に入ってくる。皆、オルバの顔は知っている。オルバは竜に好かれている」


 はく的に見えながら、その実、どこまでも深い海底を思わせるひとみには、文明人が失ったある種のせいが宿っているようでもある。仕切りの向こうからこちらをみつこうとうかがっている小型竜のはなつらながめ、「そうは見えないな」とオルバは薄く笑った。

 二年前にオルバがやってきたときから、ホゥ・ランはこのしゆうようじよにいた。そのときは雇い主のタルカス相手ですらまともに目を合わせようとせず、口も開かなかった。オルバのがおをその目で見るか、ランの声を耳にするのとではどちらが難しいか、らくの乏しいけんたちの間ではけのたいしようになっていたほどだ。

 が、あるとき、ランは収容所に来たばかりのしんまい剣奴すうめいらんぼうされかかった。そこを偶然通りかかったオルバが彼らをたたきのめして以来、ランは彼にだけは多少の口を利くようになったのだ。


「バ・ルーでは、ソゾスにおそわれたそうだね」

、ソゾスを襲ったのさ。いきなり暴れ出したからな」

「薬で心を押し込めようとしたってなんだ。わたしがかんとくしていたなら、そんなことにはきっとさせなかったのに」