烙印の紋章たそがれの星に竜は吠える

一章 鉄と血 ④

 くちびるんだのは、オルバや客の身を案じたためではあるまい。中型りゆうバイアンのくびすじでている少女の姿をかいはしに留めつつ、オルバは自分の用件を済ませるとりゆうしやをあとにした。動物たちの世話や掃除が終わると、次は武器の手入れだ。自分の命を預けるものだけに、ひとりひとりがたんねんにやる。武器を扱うときには、そうを固めたえいへい十数名がかんとくに当たった。当然、けんたちのほんけいかいしてのことだ。

 それから申し訳ていのパンとスープで食事を済ませ──昨日のけんとう試合に出て生き残った者、すなわち勝者には、昼間から肉や果物が振る舞われることもある──、昼を過ぎるころあいおのおのたんれんをはじめる。武器を手入れするときと同様、そうへいが目を光らせている中、このときばかりは両足をつないでいるくさりを外された。

 オルバのように二年以上を生き抜く剣奴は非常にまれだ。次から次に命を落とし、そしてよくじつにはまた新しい顔があらわれる。ゴーウェンはきることなく彼らに剣の握り方からステップワーク、銃のち方、こころがまえのひとつに至るまで、こんせつていねいに教育する。

 オルバも何人か新人の相手をした。実戦さながらに剣を撃ち合うこともあって、このくんれんなかに手足が使いものにならなくなったり、命を落としたりすることとて珍しくはない。今日は死人こそ出なかった。だがそれが幸運とも限らない。よくじつにはもっとさんな運命が、そしてもっといんさんな死に方が待ち受けているかもしれない、それが彼ら剣闘である。

 汗でれたはだすなぼこりがまとわりつき、すべての剣奴の顔が黒ずみかけた頃、オルバは訓練場からさくひとつへだてた向こうの通路に、タルカスの姿を見かけた。「休め」と新人に言い置いて、オルバは彼のほうへと駆け寄った。

 タルカスもめん男に気づいて足を止める。垂れ下がったほおに不信の感情がのぞいていた。


「何だ、鉄のとら。……ああ、昨日は見事だったな」飼い犬にえさをあげ損なっていたことを思い出したかのような顔になった。「バーンはに名の知れた剣闘士だ。おまえと当たらせると言い出したのは向こうの剣奴商会でな。『有り金ぜんをバーンにつぎ込んだほうがかせげるのではないかな?』なんていやを言いやがって。まあ、少しはおれもりゆういんが下がる思いがしたよ。ソゾスを殺したのも──」

「タルカス、あとどれくらい、おれは勝ちつづければいい」

「何だと?」

「もう二年だぜ。おれは、勝ちつづけてきた。昨日みたいな主要演目メインイベントだって何度となくやった。もうそろそろ、この足の鎖を外してくれてもいい頃じゃねえのか」


 剣奴は、皆、商人に買われたときにそれぞれせいやくしよを交わしている。タルカスは適当にあしらおうとしたようだったが、


「字が読めないなんて思うなよ。奴隷にだって誓約書をあらためる権利くらいあるはずだ。ここへ持ってこいよ、タルカス。おれはもうとっくに解放されていいはずだ」


 オルバが正面から言うと、タルカスはしや気味の視線に力を込めた。


「それで、どこへいくつもりだ? 確かにおれの手からは解放されるかもしれんがな、おまえはぜん犯罪者のままだ。残りのけい全部を買えるほどの金はないぜ。それとも西の国境沿いにあるツァーガこうざんで働くか。毒のきりに、せいの人喰いじゆう、ゲブリンのひとり族に、もちろんさん極まりないほどにこくな労働。同じごくなら、こちらのほうがまだしもだとおまえが思うのなら、とっととくんれんに戻れ。もっともっと一人前にかせげる剣士になってから対等な口を利くんだな」


 太い指をオルバの面前へ突きつけると、タルカスは足早に事務室のほうへと立ち去っていった。そのあとをれない顔がぞろぞろとついていく。くさりで足をつながれているところからすると、また新しく仕入れられたれいたちだろう。

 オルバは無言だった。激しい怒りに目もくらみそうな思いがしたのも事実だが、しかしタルカスの言葉もうそではない。メフィウスの法律において、長い刑期を命で買う方法は主にふたつ。タルカスが口にしたツァーガ鉱山のように、危険のともなう国の公共事業に従事するか、奴隷として我が身を売り飛ばすか。さくを握る手に力がこもり、いつしか指の感覚を失うほどの時間、オルバはその場に立ち尽くしていた。


「何をしている、オルバ。戻れ!」


 ゴーウェンにしつせきされてからようやく、もとの訓練に戻る。いつものように。

 それから数時間。コップいつぱい程度の水で身体からだを洗い流したあとで、一日に許された二度目の食事の時間となる。オルバは食堂のかたすみで、ねこ気味に身体を丸めつつ、ほとんどづかみで食べていた。彼のくせで、本を読みながらでないと食事が進まない。と、


「オルバ、昨日はよくやったね」


 その背中にしなだれかかってこようとするけんシークを、オルバはらんぼうに手で振り払った。


「あの鉄球バーンだもの。対戦が決まったときには、ぼくはどうしようかと思ったよ。きみが不利になるようだったら、外からげきしてやろうかとも考えてさ」

「離れろ。その自慢の顔に傷をつけたくなけりゃな」

「おお怖い。でも、きみのつけてくれるその傷が、ぼくときみとのきずなになるというのなら構わないよ」


 くすくすと笑うシークのその態度が、本気なのか単なるジョークなのか、いまだに正確な判断の材料とてないが、どちらにせよオルバにはつき合いきれない。たんせいな顔立ちをしたシークは、かみを長く伸ばし、けんとうとなるとしようさえほどこす。そうすると、退たいはい的なぼうはくしやがかかるので、女性客の人気もぜつだいだった。もっとも、当の本人は大のおんなぎらいをしようしている。


「しかし、さすがはオルバだったね。ぼくが手を下さずとも、実に見事なぎわでやってのけた。これで名実ともに、タルカス剣闘かいのトップかな?」

「見事というほどでもないさ」


 そこへけん養成係のゴーウェンが姿をあらわした。同じテーブルに着くのを、オルバはこつめいわくそうな目で見たが、彼は意にかいしたふうもなく、


「よくやったとはいえ、危なっかしかったのも事実だ。踏み込むにはまだタイミングが早すぎた。ちょっとでも追い込まれると、すぐにいちばちかのけに出たがるのは悪いくせだ。もっと時間をかけてでも、自分のゆうを確保する努力をしろ。バーンは優れたけんだが、相手の弱点を突いてくるタイプじゃない。もっと観察がんのいい相手には、おまえのその気の短さを簡単にかれ、足もとをすくわれるぞ」


 白髪しらがあたまをした、五〇代なかばほどの男だが、しやくどういろ身体からだはいまだたくましく、じろりと剣奴たちを見やる視線には迫力がある。と、


「相手はあのバーンだぜ。こいつがたい満足でいられるほうがなくらいだよ」


 また新たに声をかけてきたのは、タルカスけんとうかい一のきよかんギリアム。昨日、オルバやシークと同じとうじようにおいて、せんひとつかついで、同時に三人の剣奴を相手にしたほどのごうけつだ。長いせきかつしよくかみは乱れほうだいになっており、歯をいて笑う顔は、せいが見せるかくの表情そのものだった。


「バーンとやるって聞いたときには、正直こいつの悪運も尽きたと思ったがな。まあ、悪くない腕だ。だがよ、相変わらず剣闘の何たるかがわかってねえ。あいそうに勝ったって意味がないんだよ。客を満足させなきゃな。ひょいひょい逃げ回って、あげに一発で勝負を決めるやり方なんてのは面白くも何ともない。正面からぶち当たってみやがれ」


 剣奴というものは、ただ戦いに勝ち残っていけばいいというものでもない。人気のある、つまりひとりでも多く客の取れる剣闘にならなければならない。な剣闘士など、ひと山いくらで買われた挙句、ただ客のぎやくこうを満足させるためだけに、もうじゆうりゆうたちの前に身ひとつで放り投げられるになるからだ。