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「ここにいたのか、オルバ」
ロアンが唐突に顔を出した。
夜空を見上げていたオルバは、ぷいと視線を背けた。遊びにかまけて家畜の世話をサボった罰に、母に夕食を取り上げられてしまったため、ひとりふてくされて納屋の外にいたところだった。顔も、その顔を埋めた両膝も、擦り傷だらけになっていた。
「また喧嘩か」
「別に」
気の短いオルバは、近所にいる年長の子供たちとよく喧嘩をした。木剣ひと振り引っさげて、隣村にまで喧嘩しにいくこともあるくらいで、村のあぜ道を前のめりで突っ走る彼の姿を見かけた村人たちは、
「やあ、またオルバが手柄を挙げにいくぞ」
と、冗談半分に手を振って、彼のいく手を見守るのだった。
喧嘩をやったあとには、当然、母にこっぴどく叱られた。「兄さんを見習いなさい」と何べんも同じことを言われた。兄は何でもできた。昔、父が都から何かの気まぐれで持ち帰ったという一冊の本に何べんもくり返し目を通し、それだけで文字の読み書きを覚えるほど頭がよかった。数の計算も幼いときからできた。一〇歳になるときには、都の商人に乞われて、下働きに出ていたほどで、貧しい一家の暮らしを支えてもくれたのだ。
一方のオルバは、その兄に文字の読み書きくらいは教わったものの、数の計算は不得手だったし、何より、彼自身が、熱い血のたぎりを持て余し気味だった。
毎夜のごとく、天井をにらみ上げて眠れない時間を過ごした。血はいつも暗くざわめいていた。殴り合いのあとなど、ひりひり傷んだ傷口のさらにもっと奥のほうから、もっと熱く、もっと痛みをともなう黒い血のりがあふれてくるようで、いつか開いた口から飛び出してしまうような気さえした。
そんなときには飛び起きて、外に出た。納屋に立てかけておいた木剣を手に取る。何度母に取り上げられようとも、その都度彼は同じものをつくり上げるのだ。夜が明けるまで、ただただその剣を振り回していることも珍しくなかった。
「喧嘩くらいはいいけど」ロアンが、オルバの隣に腰掛けながら言った。「ちゃんと母さんの手伝いをしてからだ。女手ひとつじゃ大変なことくらい、オルバにもわかるだろう」
メフィウス帝朝、南の国境沿いにある通称「水涸れ谷」。川の干上がった谷などメフィウスではごく当たり前の地形だが、要するに名前さえ地図上に記されていない、瘦せた土地の寒村が、オルバの生まれ故郷だ。
オルバに父の思い出はほとんどない。彼がふたつか三つのときに亡くなった。村の南、国境を守護するアプター砦の増築工事に従事していたとき、崖を掘り進めていた父は運悪く崩落事故に遭ったらしい。谷の岸壁を掘って、住居や建物の代わりにするのはメフィウスではよくあることで、父はそうした土木作業員であった。
「父さんは、暗い穴倉を掘るためだけに生まれてきたような人だった」
いつか、愚痴とも嘆きともつかない口調で母がそう言っていたのを覚えている。それを言うなら、母もまた、毎日を朝から晩まで何の楽しみもなく働きずくめの人であった。瘦せた畑を耕し、毎月一回アプターの都に売りにいく民族衣装の柄を利用した手拭いをこさえて、ほとんど味のしないシチューを幼い兄弟のために毎日飽きもせずにつくった。
オルバ自身、変化も彩りもない生活を過ごす中、ただ楽しみだったのが、こうして、月に二、三度の休みを取って兄が家に帰ってくるとき、持ち帰ってくれる本の数々だった。
かつて人類が巣立ったという旧世界について書かれた本、魔法王ゾディアスの書、そして何より、色彩豊かな挿絵に彩られた歴史物語、英雄物語にこそ、オルバは夢中でのめり込んだ。剣ひと振りで国の危難を救う勇敢な戦士、高い塔に囚われた薄い衣の美姫、古代の遺跡からよみがえった邪悪な竜──一生触れることのないだろう、そんな世界の目くるめく冒険の数々が、オルバを夢中にさせ、そして本を閉じたとき、自分を取り囲むのがちっぽけでしみったれた現実でしかないことが彼を絶望させた。
長剣ひと振りで蛮人が王になれた時代などはるか昔の時代。生まれ落ちた時点でオルバは泥水を啜るような生き方を定められているのであり、未来に多くを望むことなど、死者を生き返らせることよりよほど困難なのが現実だった。
「おれはね、兄貴」両の手で抱えた膝に、頭を埋めながらオルバは言った。「自分が、何だかもう、ずっと年寄りなような気がするんだよ」
「おまえはまだ一〇歳じゃないか。そうやって思い悩むのも似合わないくらいだよ」
「本気で言っているんだ。ここにいる大人たちを見ろよ。おれだって、あと何年もしないうちにあんなふうになるんだ。毎日毎日、働いて、働いて、でも全然生活は楽にならない。そのうち誰かと結婚して、子供が生まれて、その子供がおれみたいな『利かん坊』でさ、おれ、いつかきっと都に出て、メフィウスの戦士か、ガーベラの飛空艇乗りになる、なんて言って、ああ、父さんも昔はそんな夢を持っていたなあ、って、きっと、茶でも飲みながら他の大人たちと笑い合うんだ」
「皆、そうさ」
青白い月の光に濡れながらロアンは笑った。あぜ道の向こう、お向かいの家からは、この時間帯になるといつも聞こえてくる歌声がある。酔っ払った男の上機嫌なその声を聞くともなしに聞きながら、
「誰も、自分が何者であるかなどわからない。一日の大半を労働に従事せねば生きていけない人たちも、あらぶる波を船で乗り越えてきた人たちも、一〇〇〇を超える書物に埋もれた老哲学者も、たくさんの信者に真理を説くだろうバーダインの僧たち、竜石船で空をも駆ける名の知れた将軍の数々、そして多くの版図を足もとに従えた一国の主でさえも。過ごす一日の内容はおそろしく違う彼らだろうけど、それでも剣を血で濡らし、文字に溺れて、神の名を唱えたとしても、彼らはその答えに辿り着くことなどないんじゃないかな」
「おれたちの基準で考えても無駄だよ。王さまなんてのは、おれが一生かかっても手にできないくらいのお金をかけた贅沢品に囲まれて、毎晩おいしい食べ物をお腹いっぱい口にしているんだ。時には大軍をつれて遠征にいって、時には裏切りに怯えながら、毎日を生きている。そんな生活なんておれには想像できない。できっこない。王や貴族がおれたちの生活なんてきっと夢の中でだって想像もできないように。そんな奴らが、そう、たとえばいまみたいな夜、おれと同じ月を見上げてるなんてこと、あるとは思えないな」
「そうかな。ひょっとして、そんな毎日を過ごす王だからこそ、時には市井の生活に憧れを抱くこととてあるのかもしれない。宮廷の気詰まりするような生活から抜け出して、時にはすえた臭いのする酒場で馬鹿げた話に耳を傾けながら安酒に溺れたいと思うこともあるかもしれないし、血縁者にさえ完全に心を許せない毎日になど嫌気がさして、ああ、命を狙われる心配もなく、汗水流して生きていくだけなら何て楽なんだろう、なんてことも考えるかもしれない。満たされた生活を送っている深窓のお姫さまだって、ひとり豪華なベッドに潜り込むとき、血族の義務なんてものはほっぽり出して、街に住む普通の娘みたいに、普通の恋をして、普通の家庭を持ちたいと──そんな夢想をすることだってあるかもしれない」
「そんなのは、ただの妄想だ。おれたちみたいな生活に憧れだって? こんな生活の苦しさも、不安も知らないからこそ、気まぐれみたいにそう思うだけだろ」
「そうさ。だから言ったじゃないか。全部をわかっている、自分が本当に何を望んで、何者であるのかを知る人間なんてどこにもいないのさ。誰もが自分の知らない、自分の経験したことのない何かに憧れるし、そこにこそ自分の本当の生き方があるかもしれない、と焦がれるほどに思いもする。そういう意味では、ぼくらと何も変わりはしないよ」
「わからねえな。じゃあ、たとえ、王さまでも、偉いお坊さまでも、何もかも満たされた人間なんていないってこと?」
兄が何か答えかけたとき、
「何をそんなに難しいことを話しているの?」