烙印の紋章たそがれの星に竜は吠える

一章 鉄と血 ⑥

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「ここにいたのか、オルバ」


 ロアンがとうとつに顔を出した。

 夜空を見上げていたオルバは、ぷいと視線を背けた。遊びにかまけて家畜の世話をサボったばつに、母に夕食を取り上げられてしまったため、ひとりふてくされての外にいたところだった。顔も、その顔を埋めた両ひざも、り傷だらけになっていた。


「またけんか」

「別に」


 気の短いオルバは、近所にいる年長の子供たちとよくけんをした。ぼつけんひと振り引っさげて、となりむらにまで喧嘩しにいくこともあるくらいで、村のあぜ道を前のめりで突っ走る彼の姿を見かけた村人たちは、


「やあ、またオルバががらを挙げにいくぞ」


 と、じようだん半分に手を振って、彼のいく手を見守るのだった。

 喧嘩をやったあとには、当然、母にこっぴどくしかられた。「にいさんを見習いなさい」と何べんも同じことを言われた。兄は何でもできた。昔、父がみやこから何かの気まぐれで持ち帰ったという一冊の本に何べんもくり返し目を通し、それだけで文字の読み書きを覚えるほど頭がよかった。数の計算も幼いときからできた。一〇さいになるときには、都の商人にわれて、下働きに出ていたほどで、貧しい一家の暮らしを支えてもくれたのだ。

 一方のオルバは、その兄に文字の読み書きくらいは教わったものの、数の計算はだったし、何より、彼自身が、熱い血のたぎりを持て余し気味だった。

 毎夜のごとく、てんじようをにらみ上げて眠れない時間を過ごした。血はいつも暗くざわめいていた。なぐり合いのあとなど、ひりひり傷んだきずぐちのさらにもっと奥のほうから、もっと熱く、もっと痛みをともなう黒い血のりがあふれてくるようで、いつか開いた口から飛び出してしまうような気さえした。

 そんなときには飛び起きて、外に出た。に立てかけておいた木剣を手に取る。何度ははに取り上げられようとも、その彼は同じものをつくり上げるのだ。夜が明けるまで、ただただその剣を振り回していることも珍しくなかった。


「喧嘩くらいはいいけど」ロアンが、オルバのとなりに腰掛けながら言った。「ちゃんとかあさんの手伝いをしてからだ。女手ひとつじゃ大変なことくらい、オルバにもわかるだろう」


 メフィウスていちよう、南の国境沿いにあるつうしようみずれ谷」。川のほしがった谷などメフィウスではごく当たり前の地形だが、要するに名前さえ地図上に記されていない、せた土地のかんそんが、オルバの生まれきようだ。

 オルバに父の思い出はほとんどない。彼がふたつか三つのときに亡くなった。村の南、国境をしゆするアプターとりでぞうちく工事にじゆうしていたとき、がけを掘り進めていた父は運悪くほうらく事故にったらしい。谷のがんぺきを掘って、住居や建物の代わりにするのはメフィウスではよくあることで、父はそうしたぼく作業員であった。


「父さんは、暗いあなぐらを掘るためだけに生まれてきたような人だった」


 いつか、ともなげきともつかない調ちようで母がそう言っていたのを覚えている。それを言うなら、母もまた、毎日を朝から晩まで何の楽しみもなく働きずくめの人であった。瘦せた畑をたがやし、毎月一回アプターの都に売りにいく民族しようがらを利用したぬぐいをこさえて、ほとんど味のしないシチューを幼い兄弟のために毎日きもせずにつくった。

 オルバ自身、変化もいろどりもない生活を過ごす中、ただ楽しみだったのが、こうして、月に二、三度の休みを取って兄が家に帰ってくるとき、持ち帰ってくれる本の数々だった。

 かつて人類が巣立ったというきゆう世界について書かれた本、ほうおうゾディアスの書、そして何より、色彩ゆたかなさしに彩られた歴史ものがたり、英雄物語にこそ、オルバはちゆうでのめり込んだ。剣ひと振りで国のなんを救うゆうかんな戦士、高いとうとらわれた薄い衣の、古代のせきからよみがえったじやあくりゆう──一生れることのないだろう、そんな世界の目くるめく冒険の数々が、オルバを夢中にさせ、そして本を閉じたとき、自分を取り囲むのがちっぽけでしみったれた現実でしかないことが彼を絶望させた。

 ちようけんひと振りでばんじんが王になれた時代などはるか昔の時代。生まれ落ちた時点でオルバはどろみずすするような生き方を定められているのであり、未来に多くを望むことなど、死者を生き返らせることよりよほど困難なのが現実だった。


「おれはね、あに」両の手で抱えたひざに、頭を埋めながらオルバは言った。「自分が、何だかもう、ずっと年寄りなような気がするんだよ」

「おまえはまだ一〇さいじゃないか。そうやって思い悩むのもわないくらいだよ」

「本気で言っているんだ。ここにいる大人おとなたちを見ろよ。おれだって、あと何年もしないうちにになるんだ。毎日毎日、働いて、働いて、でもぜんぜん生活は楽にならない。そのうち誰かと結婚して、子供が生まれて、その子供がおれみたいな『利かんぼう』でさ、おれ、いつかきっとみやこに出て、メフィウスの戦士か、ガーベラのくうてい乗りになる、なんて言って、ああ、とうさんも昔はそんな夢を持っていたなあ、って、きっと、茶でも飲みながら他の大人たちと笑い合うんだ」

「皆、そうさ」


 青白い月の光にれながらロアンは笑った。あぜ道の向こう、お向かいの家からは、この時間帯になるといつも聞こえてくる歌声がある。ぱらった男のじようげんなその声を聞くともなしに聞きながら、


「誰も、自分が何者であるかなどわからない。一日のたいはんを労働に従事せねば生きていけない人たちも、あらぶる波を船で乗り越えてきた人たちも、一〇〇〇を超える書物に埋もれた老てつがく者も、たくさんの信者にしんを説くだろうバーダインの僧たち、りゆうせき船で空をも駆ける名の知れた将軍の数々、そして多くのはんを足もとに従えた一国のあるじでさえも。過ごす一日の内容はおそろしく違う彼らだろうけど、それでも剣を血でらし、文字におぼれて、神の名を唱えたとしても、彼らはその答えに辿たどり着くことなどないんじゃないかな」

「おれたちの基準で考えてもだよ。王さまなんてのは、おれが一生かかっても手にできないくらいのお金をかけたぜいたく品に囲まれて、毎晩おいしい食べ物をおなかいっぱい口にしているんだ。時には大軍をつれてえんせいにいって、時には裏切りにおびえながら、毎日を生きている。そんな生活なんておれにはそうぞうできない。できっこない。王やぞくがおれたちの生活なんてきっと夢の中でだってそうぞうもできないように。そんなやつらが、そう、たとえばいまみたいな夜、おれと同じ月を見上げてるなんてこと、あるとは思えないな」

「そうかな。ひょっとして、そんな毎日を過ごす王だからこそ、時にはせいの生活にあこがれを抱くこととてあるのかもしれない。きゆうていまりするような生活から抜け出して、時にはすえたにおいのする酒場で馬鹿げた話に耳を傾けながらやすざけおぼれたいと思うこともあるかもしれないし、けつえん者にさえ完全に心を許せない毎日になどいやがさして、ああ、命をねらわれる心配もなく、あせみず流して生きていくだけなら何て楽なんだろう、なんてことも考えるかもしれない。満たされた生活を送っているしんそうのお姫さまだって、ひとりごうなベッドにもぐり込むとき、けつぞくの義務なんてものはほっぽり出して、街に住む普通の娘みたいに、普通の恋をして、普通の家庭を持ちたいと──そんなそうをすることだってあるかもしれない」

「そんなのは、ただのもうそうだ。おれたちみたいな生活に憧れだって? こんな生活の苦しさも、不安も知らないからこそ、気まぐれみたいにそう思うだけだろ」

「そうさ。だから言ったじゃないか。全部をわかっている、自分が本当に何を望んで、何者であるのかを知る人間なんてどこにもいないのさ。誰もが自分の知らない、自分の経験したことのない何かに憧れるし、そこにこそ自分の本当の生き方があるかもしれない、とがれるほどに思いもする。そういう意味では、ぼくらと何も変わりはしないよ」

「わからねえな。じゃあ、たとえ、王さまでも、偉いおぼうさまでも、何もかも満たされた人間なんていないってこと?」


 兄が何か答えかけたとき、


「何をそんなに難しいことを話しているの?」