ぴょんと茶褐色の髪を揺らし、いきなりあらわれたのはアリスだ。気がつけば、お向かいの歌声はすっかりやんでいる。娘である彼女がようやくのことで寝かしつけたらしい。
少しの間立ち聞きしていたようで、アリスはえくぼを見せながら、
「何だか意味のないことばっかり。世界だとか自分が何者かより、まずはオルバ、お母さんを大切にして、真面目に働いて、明日食べるものを手に入れることからはじめなくっちゃ」
「これだよ、兄貴。女ってのは、自分に興味がない話だと、すぐに難しい、下らない、もっと大事なことがある──だ」
「それもまた真理さ」
ロアンは朗らかに笑った。アリスは兄よりふたつ年下で、オルバより三つ年上だ。オルバがもっと小さいときには、三人で、アリスを挟んで本当の兄妹のように遊んでいた。
やがて、その頃の思い出話に花が咲いた。アリスの提案で川に魚釣りにいったら、岩場に足を滑らせて当のアリスが溺れそうになったこと、村にやってきた隊商の馬を見に行ったとき、オルバがこっそり跨ろうとしたら馬が大暴れして大変な目に遭ったこと、「野生の竜を見た」と隣村の少年が言うので、三人でその目撃場所に向かったが、入り組んだ峡谷の道にすっかり迷ってしまって、遅くなってからようやく帰り着いたものの、三人揃って大目玉を喰ったこと……。
「どうせ隣村のダグに騙されたんでしょ? あの頃から仲悪かったものね。今日の喧嘩の相手だって……」
「うるせえ」
図星を指されてオルバは顔を背けた。ダグとの因縁には他ならないアリスも絡んでいるのだが、決して口には出さなかった。
そうして思い出話に笑い合った一夜が、兄とゆっくり話せた最後の時間だった。
──当時、メフィウス帝朝とガーベラ王国とはすでに戦争状態にあった。国境線を先に越えたのはガーベラの騎兵隊だという話だが、そもそもその国境線の定義を巡って、二国はかねてから対立をくり返してきたという歴史があった。オルバたちの村にほど近い南方のアプター砦も、幾度となくガーベラの騎馬軍の攻撃を受けていたのである。
やがて、いったんガーベラは南方のアプター砦の攻略をあきらめ、別のルートを辿っての切り崩しを狙った。そしてそれが誘いの罠だった。アプターに駐屯していた兵力の大半が帝都へ引き上げた頃合を狙い、一気に包囲戦を仕掛けてきた。
当然、アプター砦は必死の防衛戦を強いられた。帝都から援軍が来るまでどんなことをしてでも持ちこたえねばならず、メフィウス軍は、近隣の村々から半ば強引に兵を徴用した。そしてその中にオルバの兄ロアンの姿もあったのである。
当然、母は泣き叫んだ。彩りのほとんどない生活の中、ただひとつ母の生きる希望があったとするなら、兄そのものであっただろう。兄を連れていこうとする軍人にすがりつかんばかりだったが、その肩に優しく手を置いてロアンは「大丈夫だよ」と言った。
「すぐに帝都から助けが来るから、それまでの辛抱だよ」
それに、商人の手伝いなんかよりよほど給金がいい、と兄は笑っていた。村の若者数名と岩畳を越えていくその背中を、オルバは、アリスと並んで見送っていた。自分がもう少し大きかったら、とオルバは思っていた。兄の代わりに自分が砦へいくのに。そうすれば母さんも悲しまずにすむし、おれも、手柄をあげて軍人に取り立ててもらえるかもしれないのに。
兄がいなくなってから、あれほど働きずくめだった母が、まるで糸が切れたように、ほとんど日がな一日、お祈りだけして過ごすようになった。たまに思い出したように厨房に立って食事の準備をするのだが、そのとき用意する献立は大体兄ロアンが都から帰ってくるときに振る舞う、兄の好物ばかりのもので、結局その日の食卓に兄がいないことを思い出すと、母はそれを残さず裏庭に捨てた。
その間、放っておかれた畑をオルバが耕し、数少ない家畜の世話も自分からした。夕方になると、オルバは崖に刻まれた細い道を登って、いつも帝都の方角を眺めるのだが、きらびやかな鎧兜の列、軍用竜が進軍時に立てるおびただしい土煙、竜石戦艦の雄姿──そんな、オルバの期待に応えるような光景はまるで見えなかった。
そして兄が去って三週間ほどが経ったとき。ここよりも砦にほど近い、谷をひとつ越えた村の住民が息せき切って飛び込んできた。
「砦が落ちた」
最悪の知らせとともに。
アプター砦はついにガーベラ軍の前に陥落したのだ。砦を守る将や主だった人員は、兵士たちを残したまま、逃走の途についたという。帝都からの援軍はアプターではなく、ここより北、峡谷が天然の要害となっているビラクへと送られていた。そう、すでにそこを南境の防衛線とする旨を帝都は決めていたのだろう。アプターはその時間稼ぎに使われたに過ぎない。
そして間も置かず、砦に陣取ったガーベラ軍が近隣の村々を荒らしはじめた。略奪、暴行行為──いわゆる乱取りである。
村の人間たちは大急ぎで数少ない荷物をまとめ、食糧の蓄えなどほとんどないから、刈り入れの近かった作物のうち持てる限りを持って、飛ぶように村から離れていった。近隣に知り合いがいる者はそちらへ駆け込み、そうでない者たちは、ガーベラの兵隊たちが村を去るまでの間、谷合に避難しようとした。
オルバも当然それに倣ったが、逃げている最中、母の姿がないことに気がついた。
はっとする思いで、オルバは村の方角に振り向いた。岩くれが小山のようにそびえ立つ向こう、夕霞に村の全景が沈んで見えた。きっと、まだあそこにいる。そこで兄の帰りを待つつもりだ。ひょっとしたら、もう二度と帰ってこないかもしれない兄を。
「オルバ、どこへいくの? オルバ!」
アリスの声を背に、人波を搔き分けて大急ぎで戻った。
そして辿り着いた先には、人っ子ひとりいない、死んだように静まり返る村があった。見慣れた風景なだけに、むしろ異世界に迷い込んだような不気味さがあった。
と、谷の向こう側から、人馬の群れが近づいてくるのが見えて、オルバはあわてて自宅のほうへと駆けた。裏口を開けると、母がいた。いつものように食事の準備をしようとしている。「ロアン?」と振り向いた母は、汗だくのオルバの姿を見つめ、不思議そうに肩をすくめた。
「まだ遊んでいたの、オルバ? ちょっと手伝いなさい、すぐに兄さんが帰ってくるから」
外で、わずかに残された家畜を追い回す兵士たちの声が聞こえた。煙が上がるのを恐れたオルバは、大急ぎで母を止めようとした。しかし、
「何だ、何もないぞ」
「しみったれた村だ。ガスコンの連中は上手くやったのに。何人も女を抱けたそうだ」
「せめて酒はないのか。探せ!」
すぐ近くで声がしたかと思うと、戸口が乱暴に蹴り倒された。
どやどやと入り込んできた三人の兵士たちは、いずれも、簡素な鎖帷子と槍、そして剣で武装していた。砂埃で黒ずんだ顔の中で、目だけが、唯一白い光を放っている。
「おっ、女がいるぞ」
「何だ、年増女じゃないか。それより酒はないか。何か喰えるものは」
母を庇うように抱きすくめたオルバの見つめる先で、彼らは好き勝手に家を荒らしはじめた。猛獣の気を惹かないよう息をひそめた草食動物のように、オルバはただただうずくまっていた。
ガーベラ兵士に戸口を破られたとき、立てかけておいた木剣が転がっているのが目に留まる。しょせん子供のおもちゃでしかなかった。そう言われるのが何より嫌で、そう言う奴らを見返そうと誰よりも必死だったのに、いまは痛いほどに理解できた。
と、棚を荒らしていた兵士が、中から粗末な陶器の食器を摑み出し、それも無造作に投げ捨てた。派手な音を立てて割れ、床に散らばる。オルバがはっとしたのは、それが兄ロアンの使っていたものであり、そして、いまのいままで大人しかった母が、オルバがひっくり返るほどの勢いで身を起こしたからだ。そのまま兵士に背後からしがみついていく。