烙印の紋章たそがれの星に竜は吠える

一章 鉄と血 ⑦

 ぴょんとちやかつしよくかみを揺らし、いきなりあらわれたのはアリスだ。気がつけば、お向かいの歌声はすっかりやんでいる。娘である彼女がようやくのことで寝かしつけたらしい。

 少しの間立ち聞きしていたようで、アリスはえくぼを見せながら、


「何だか意味のないことばっかり。世界だとか自分が何者かより、まずはオルバ、おかあさんを大切にして、に働いて、明日食べるものを手に入れることからはじめなくっちゃ」

「これだよ、あに。女ってのは、自分にきようがない話だと、すぐに難しい、下らない、もっと大事なことがある──だ」

「それもまた真理さ」


 ロアンはほがらかに笑った。アリスは兄よりふたつ年下で、オルバより三つ年上だ。オルバがもっと小さいときには、三人で、アリスを挟んで本当の兄妹のように遊んでいた。

 やがて、その頃の思い出話に花が咲いた。アリスの提案で川に魚りにいったら、いわに足を滑らせて当のアリスがおぼれそうになったこと、村にやってきた隊商キヤラバンの馬を見に行ったとき、オルバがこっそりまたがろうとしたら馬がおおあばれして大変な目にったこと、「せいりゆうを見た」ととなりむらの少年が言うので、三人でそのもくげき場所に向かったが、入り組んだきようこくの道にすっかり迷ってしまって、遅くなってからようやく帰り着いたものの、三人そろっておおだまを喰ったこと……。


「どうせとなりむらのダグにだまされたんでしょ? あの頃からなかわるかったものね。今日のけんの相手だって……」

「うるせえ」


 ぼしを指されてオルバは顔を背けた。ダグとのいんねんには他ならないアリスも絡んでいるのだが、決して口には出さなかった。

 そうして思い出話に笑い合った一夜が、兄とゆっくり話せた最後の時間だった。

 ──当時、メフィウスていちようとガーベラ王国とはすでに戦争状態にあった。国境せんを先に越えたのはガーベラのへいたいだという話だが、そもそもその国境線のていを巡って、二国はかねてから対立をくり返してきたという歴史があった。オルバたちの村にほど近い南方のアプターとりでも、いくとなくガーベラのぐんの攻撃を受けていたのである。

 やがて、いったんガーベラは南方のアプター砦のこうりやくをあきらめ、別のルートを辿たどっての切り崩しをねらった。そしてそれが誘いのわなだった。アプターにちゆうとんしていた兵力のたいはんていへ引き上げたころあいを狙い、一気にほうせんを仕掛けてきた。

 当然、アプター砦は必死のぼうえい戦を強いられた。帝都からえんぐんが来るまでどんなことをしてでも持ちこたえねばならず、メフィウス軍は、きんりんの村々からなかごういんに兵をちようようした。そしてその中にオルバの兄ロアンの姿もあったのである。

 当然、母は泣き叫んだ。いろどりのほとんどない生活の中、ただひとつ母の生きる希望があったとするなら、兄そのものであっただろう。兄を連れていこうとする軍人にすがりつかんばかりだったが、その肩に優しく手を置いてロアンは「だいじようだよ」と言った。


「すぐに帝都から助けが来るから、それまでのしんぼうだよ」


 それに、商人の手伝いなんかよりよほど給金がいい、と兄は笑っていた。村の若者数名といわだたみを越えていくその背中を、オルバは、アリスと並んで見送っていた。自分がもう少し大きかったら、とオルバは思っていた。兄の代わりに自分が砦へいくのに。そうすればかあさんも悲しまずにすむし、おれも、がらをあげて軍人に取り立ててもらえるかもしれないのに。

 兄がいなくなってから、あれほど働きずくめだった母が、まるで糸が切れたように、ほとんど日がな一日、お祈りだけして過ごすようになった。たまに思い出したようにちゆうぼうに立って食事の準備をするのだが、そのとき用意するこんだては大体あにロアンがみやこから帰ってくるときに振る舞う、兄の好物ばかりのもので、結局その日のしよくたくに兄がいないことを思い出すと、母はそれを残さず裏庭に捨てた。

 その間、放っておかれた畑をオルバがたがやし、数少ないちくの世話も自分からした。夕方になると、オルバはがけに刻まれた細い道を登って、いつも帝都の方角をながめるのだが、きらびやかなよろいかぶとの列、軍用りゆうが進軍に立てるおびただしいつちけむりりゆうせきせんかんゆう姿──そんな、オルバの期待に応えるような光景はまるで見えなかった。

 そして兄が去って三週間ほどがったとき。ここよりもとりでにほど近い、谷をひとつ越えた村の住民が息せき切って飛び込んできた。


「砦が落ちた」


 最悪の知らせとともに。

 アプター砦はついにガーベラ軍の前にかんらくしたのだ。砦を守るしようおもだった人員は、兵士たちを残したまま、逃走のについたという。ていからのえんぐんはアプターではなく、ここより北、きようこくが天然のようがいとなっているビラクへと送られていた。そう、すでにそこをみなみざかいの防衛せんとするむねを帝都は決めていたのだろう。アプターはその時間かせぎに使われたに過ぎない。

 そして間も置かず、砦にじんったガーベラ軍がきんりんの村々を荒らしはじめた。りやくだつぼうこう行為──いわゆるらんりである。

 村の人間たちは大急ぎで数少ない荷物をまとめ、食糧のたくわえなどほとんどないから、刈り入れの近かった作物のうち持てる限りを持って、飛ぶように村から離れていった。近隣に知り合いがいる者はそちらへ駆け込み、そうでない者たちは、ガーベラの兵隊たちが村を去るまでの間、たにあいなんしようとした。

 オルバも当然それにならったが、逃げているさいちゆう、母の姿がないことに気がついた。

 はっとする思いで、オルバは村の方角に振り向いた。岩くれが小山のようにそびえ立つ向こう、ゆうがすみに村の全景が沈んで見えた。きっと、まだあそこにいる。そこで兄の帰りを待つつもりだ。ひょっとしたら、もう二度と帰ってこないかもしれない兄を。


「オルバ、どこへいくの? オルバ!」


 アリスの声を背に、人波をき分けて大急ぎで戻った。

 そして辿たどり着いた先には、人っ子ひとりいない、死んだように静まり返る村があった。れた風景なだけに、むしろ世界に迷い込んだようなさがあった。

 と、谷の向こう側から、じんの群れが近づいてくるのが見えて、オルバはあわてて自宅のほうへと駆けた。裏口を開けると、母がいた。いつものように食事の準備をしようとしている。「ロアン?」と振り向いた母は、汗だくのオルバの姿を見つめ、そうに肩をすくめた。


「まだ遊んでいたの、オルバ? ちょっと手伝いなさい、すぐににいさんが帰ってくるから」


 外で、わずかに残されたちくを追い回す兵士たちの声が聞こえた。煙が上がるのを恐れたオルバは、大急ぎで母を止めようとした。しかし、


「何だ、何もないぞ」

「しみったれた村だ。ガスコンのれんちゆうくやったのに。何人も女を抱けたそうだ」

「せめて酒はないのか。探せ!」


 すぐ近くで声がしたかと思うと、ぐちらんぼうり倒された。

 どやどやと入り込んできた三人の兵士たちは、いずれも、かんくさり帷子かたびらやり、そして剣で武装していた。すなぼこりで黒ずんだ顔の中で、目だけが、ゆいいつ白い光を放っている。


「おっ、女がいるぞ」

「何だ、としおんなじゃないか。それより酒はないか。何か喰えるものは」


 母をかばうように抱きすくめたオルバの見つめる先で、彼らは好きかつに家を荒らしはじめた。もうじゆうの気をかないよう息をひそめたそうしよく動物のように、オルバはただただうずくまっていた。

 ガーベラ兵士にぐちを破られたとき、立てかけておいたぼつけんが転がっているのが目に留まる。しょせん子供のおもちゃでしかなかった。そう言われるのが何より嫌で、そう言うやつらを見返そうと誰よりも必死だったのに、いまは痛いほどに理解できた。

 と、たなを荒らしていた兵士が、中からまつとうの食器をつかみ出し、それもぞうに投げ捨てた。な音を立てて割れ、床に散らばる。オルバがはっとしたのは、それが兄ロアンの使っていたものであり、そして、いまのいままで大人おとなしかった母が、オルバがひっくり返るほどの勢いで身を起こしたからだ。そのまま兵士に背後からしがみついていく。