先生、今日から同い年ですね?
実験六『心理学を使ってみましょう!』 ②
そう言って悟の手を取る。本当は腕を組んだり恋人繫ぎにしたいところだけど、今の自分は〝ツン〟モードなのだ。普通に手を繫ぐだけで我慢する。
一方の悟は明らかに困惑気味だった。
(よしよし戸惑ってる戸惑ってる……! これはきっと急にツンツンされて焦ってるってこと……!)
そしてそれからも、くすりのツンデレ作戦は着々と進行していった。
例えば昼休み、悟に手作りのお弁当を持ってきて。
「お弁当作ってきたのは冷蔵庫に食材が余ってただけですからっ! 勘違いしないでくださいね!」
「どう見てもめちゃくちゃ手が込んでるが……とりあえずありがとう」
例えば帰り道、悟に腕を絡ませながら。
「くっついてるのは寒いからです! それ以上でもそれ以下でもないですからねっ!」
「むしろ今日は汗ばむぐらいだと思うが……」
そうやってくすりは(本人的には)悟に素っ気ない態度に徹する。
(……ふふふ、先生が私のこと、気になって仕方なくなる日もそう遠くないはず……!)
自分の言動に悟が困惑する様子に、確かな手応えと高揚感が膨らんでいく。
作戦は順調。くすりはそう信じていた。
だが──くすりの(頭の中では)完璧な作戦は、思わぬ方向へ転がっていくのだった。
†
(……そうか。ようやく教師と生徒の正しい距離感を理解してくれたんだな)
自室でコーヒーをすすりながら、悟は窓の外をぼんやりと見つめる。
今日のくすりはいつもとは明らかに様子が違っていた。
普段なら腕を絡めて胸を押し付けてくるくらいに距離が近くて、こちらがいくらたしなめてもやめない。むしろ距離を取ろうとすると意地になってますますくっついてきた。
けれど今日は──手を繫ぐだけで止まった。
……いや、そもそも手を繫いで登校する時点でどうなんだという話ではあるが、それはそれ。
挨拶も妙にぶっきらぼうで「別に先生と一緒に登校したいとか、そういうわけじゃないんですからねっ!」などと、よくわからないがおそらくは距離を取ろうとするような言動を繰り返していた。
正直戸惑いはあった。だがきっとあれは──
(言葉に出して自分を律しようとしているのだろう)
くすりは頭がいい子だ。流石に今までの言動が教師と生徒の距離感として不適切だと気付いてくれたのだろう。
君子は豹変す。賢い者ほど自分が間違っていたと気付いた時、正しい方向へ舵を切るのが早い。
くすりほど賢い子なら、自分の暴走に気付いてブレーキをかけようとするのも自然なことだ。
(……少し寂しいが、あの子が俺から巣立とうとしているのなら引き止めるわけにはいかないな)
若さゆえの暴走が落ち着いて、ちゃんと立場をわきまえた行動ができるようになったのならそれは教師として喜ぶべき成長だ。
ふとスマホを手に取り、写真フォルダを開く。
そこには小学生の頃からつい最近まで、くすりと一緒に撮った写真が並んでいる。
最初はぎこちない表情ばかりだった彼女が、日を追うごとに柔らかく笑うようになっていくのが分かる。
それを見ていると、自然と目頭が熱くなっていた。
(娘が親離れしていくのを見ている気分だな……)
可愛くて、手がかかって、放っておけなくて。
その子がようやく一人で歩きはじめたのなら……大人として、教師として、応援してやるべきだろう。
(思えば今まで、あの子に構いすぎていたのかもしれないな……)
風邪を引いたと聞けば看病するために家まで行ったし、悩みがあれば深夜でも構わず電話していいと言っていた。最近は放課後にデートまで。
そうやって振り返ると、むしろ距離感が近すぎたのは自分の方かもしれない。
そんな過保護があの子の暴走を加速させたのだとしたら、反省すべきは自分の方だ。
(よし。これからはもっとちゃんと、教師と生徒の立場を意識して行動しよう)
†
「別にこれくらい一人でもできますけどっ! でもどうしてもって言うなら悟くんが教えてくれてもいいですよっ!」
学校の教室。苦手教科の小テストで赤点を取ったくすりは、答案用紙を悟に差し出しながらそんなことを言った。
悟は差し出された答案用紙に視線を落とす。
いつもなら次は「仕方ないな」なんて苦笑いして丁寧に教えてくれるはず。……しかし返ってきたのは、思いのほか硬い声だった。
「そうか。……ならまずは自分でやってみなさい。わからなければ遠慮なく聞きに来るように」
口調は優しいし、笑顔すら浮かべている。
けれど十年近く悟と付き合いがあるくすりは、何か分厚い壁のようなものを感じた。
「さて、俺はこのあと用事があるから」
そう言って悟は教室を出て行ってしまった。くすりは目を大きく見開いてその背中を見送る。
悟はこれまで、よほどのことがない限りはくすりのことを優先してくれた。
それがあっさりと「用事がある」と言ってくすりを置いていってしまったのだ。
ポツンと教室に残されたくすりは、オロオロと視線を彷徨わせる。
(ま、まあたまたまですよね。きっと何か重大なお仕事とかあって……うん、きっとそう……)
だが、それだけで終わらなかった。
放課後。
悟は学校の空き教室の一つで、教師としての事務仕事をこなしていた。
若返り薬を飲んでから生徒として過ごしている悟だが、教師としての仕事から完全に離れたわけではない。
生徒から提出された資料や論文の整理。他国の研究者とのミーティングスケジュールの調整。実験施設の使用申請。やるべきことはいくらでもある。
ただ今は生徒ということになっているので職員室でやるわけにもいかず、こうして空き教室の一つを仕事部屋として借り受けて作業している。
……そうやって作業する悟の姿を、くすりは扉の隙間からじーっと見つめていた。
真剣な顔で仕事に集中する悟の横顔に胸をキュンキュンさせつつもスマホで時間を確認。
もうすぐ作業を開始して二時間経つ。普段通りなら悟はそろそろ小休憩に入るはずだ。
そして案の定、悟はパソコンから視線を上げて椅子の背もたれにもたれかかった。そのタイミングで扉をノックし、教室に入る。
「お、おじゃまします!」
「ああ、どうした薬師寺」
その言葉にくすりはぎくりと身体を強張らせる。
(薬師寺……? ……あれ? 名前呼び、やめたの……?)
……以前、名前で呼び合おうと約束したのに名字で呼ばれた。
だがそれでも怯まず、くすりは持参した魔法瓶を掲げる。
「じ、実はですね。たまたま! とってもいいコーヒー豆が手に入りまして……ま、まあ先生コーヒー好きですし? 少しくらい飲ませてあげようかなって!」
今までならここから休憩がてらちょっとしたお茶会みたいになるはず。
けれど悟はポットをちらと見て、穏やかに微笑んでこう言った。
「ありがとう。だが学校での教師と生徒の私物のやりとりはあまり良くない。申し訳ないが、そのコーヒーは持って帰りなさい」
「……え?」
声は優しかった。むしろ、くすりの好意を否定しないように気遣ってくれている。
けれど明らかに線を引かれている。
(なんで……そんな、他人行儀……?)
心の中にどんどん不安が積み重なっていく。
そして極めつけは学校が終わった後、夕暮れ時。
「せ、先生! 遊びに来てあげましたよ〜!」
くすりは悟のマンションを訪れた。
ピンポンとチャイムを鳴らすと、ドアが開く。
「えっとですね! カレーを作りすぎたのでおすそ分けに来ました!」
そう言って手に持った大きなカレー鍋を掲げる。明らかについ作りすぎたとかそういう量じゃない。
誰がどう見てもわかる、夕飯を一緒に食べたいというアピールだ。そしていつもの悟なら呆れたように笑いながらも「仕方ないな」と家に上げてくれて、一緒にご飯を食べてくれるはずだ。
悟の表情はいつもと変わらず穏やかだった。



