先生、今日から同い年ですね?

実験六『心理学を使ってみましょう!』 ③

「もうすぐ日が暮れる。一人暮らしの男の家に女子生徒が上がり込むものじゃない」


 優しく、でもそれ以上は踏み込ませないというような声音だった。


「えっ……あの……」

「そのカレーも持って帰りなさい。小分けして保存すればそれなりに日持ちもするだろう」

「そ、そうじゃなくて……わ、私は先生と一緒に……」

「それじゃあ、気をつけて帰りなさい」


 ──バタン。

 静かに扉が閉じられる。鍋を持ったまま立ち尽くす。


(……なに、これ……どうして……?)


 嫌われたわけじゃない。けれど、まるで他人みたいだった。

 夕焼けに染まる帰り道。足取りは重く、気分が落ち込む。泣くほどじゃないけど、不安で胸が締め付けられる。


(……先生……なんか、素っ気ない……)


 カレー鍋を抱えてとぼとぼ歩く。

 そのとき、スマホがペコン♪と音を立てた。


(……もしかして、先生……?)


 期待を込めて画面をのぞき込む。

 けれど通知は悟ではなく、こころからのメッセージだった。


『その後、調子どう〜?』


 ……文面はそれだけ。何日もメッセージに気付かず放置しておいてやはりずいぶんなマイペースっぷりだ。

 だが溺れる者は藁をも摑む。それを見た瞬間もういても立ってもいられず、くすりは通話ボタンを押した。幸い今回はすぐに反応があった。


『くすりちゃん? 急に電話なんてどうし──』

「こころちゃん助けてください!」


 切羽詰まった声に、流石のこころも戸惑ったような声を出した。


『え? ど、どうしたの? 冬月くんと喧嘩でもした?』

「とにかく今から会えませんか!? 聞いてほしいことがあるんです!」



 黎明学園女子寮のすぐ近く。小さな喫茶店の片隅で、くすりとこころがテーブルを挟んで向かい合っていた。

 ……くすりの隣の席にはなぜか大きなカレー鍋。香ばしい匂いが店内に漂い周囲の視線を集めているが、本人はそれどころじゃない。

 こころはふわふわの猫っ毛を揺らしながらくすりの話に「うんうん」と相づちを打っている。いつも眠たげな瞳も、今日はどこか楽しげだった。


「ほら見てくださいここ! 『ゲインロス効果。ツン→デレで印象アップ! 意中の男の子もあなたが気になること確実!』って書いてあるのに!」


 そう言って恋愛心理学の本を開いて見せる。するとこころは苦笑いを浮かべた。


「あー、それね。たぶん逆効果だったと思うよ」

「えぇっ!? で、でもでも、本には──!」


 震える指で本を示すくすりに、こころは小さく苦笑しながら続ける。


「たしかに理屈は合ってるけど、そういう本って鵜吞みにしない方がいいよ? くすりちゃんだって、お薬が飲み方や人によって効き方違うの知ってるでしょ? それと一緒」

「うぐっ……」


 ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。くすりは言葉を詰まらせる。

 薬学の世界では服用タイミングや体質、ほかの薬との飲み合わせまで考慮するのが基本中の基本。そんな例を出されては黙るしかない。


「人ってね、自分に都合のいいように物事を解釈しちゃうものなの。今回の場合は──」


 こころはくすりが持っていた心理学の本をパラパラとめくり、あるページを開いた。


「解釈バイアス。先生が『生徒はいずれ自分から巣立っていくべきだ』って考えてたら、くすりちゃんのそっけない態度を見て勝手に『ああ、この子は成長して親離れしようとしてるんだな』って解釈しちゃうの」

「な、なんですかそれ!? 勝手にそんな解釈しないでほしいんですけどっ!?」

「でもねぇ、思い込みで勝手に解釈しちゃうのが人の心理なの」

「そんな……」


 くすりは肩を落としてがっくり俯く。そんなくすりをこころは微笑みながら見つめていた。


「元気出してねくすりちゃん。これからゆっくり時間をかけて、誤解を解いていけばいいんだよ」

「──いいえ。わかりました」


 くすりは突然、ガタンと椅子を引いて立ち上がる。


「私、いますぐデレてきます!!」

「……え? くすりちゃん?」

「相談に乗ってくれてありがとうございました! とにかく今の悟くんは私が離れようとしてるって誤解してるんですよね? なら──そんなこと、ありえないって思い知らせてきますっ!」

「ちょ、ちょっと待って!? 急すぎるのもよくないっていうか──」

「いいえ、善は急げです! 誤解は最短で解くのが合理的! では、いざ参ります!!」


 声を張り上げ、くすりは全速力で喫茶店を飛び出していった。

 残されたこころは、ぽかんとその背中を見送り──そして、くすくすと笑う。


「ふふ、やっぱりあの二人はおもしろいなぁ。……っていうか、くすりちゃん、わたしが冬月くんのこと『先生』って呼んでもスルーしてたね……これは冬月くんは冬月先生で確定かな?」


 小さく呟き、椅子からぴょんと飛び降りる。

 が、そこでくすりが椅子の上に置き去りにした存在に気づいて立ち止まった。


「……このカレー、どうしよ」


 こころはしばらく、カレー鍋を前に途方に暮れるのだった。



 カタカタと、静かな自宅の部屋にパソコンのキーボードを叩く音が響く。

 黎明学園の教師という仕事は忙しい。やることはいくらでもある。

 なのに、まったく集中できていなかった。


「……静かだな」


 そんなことを呟いて仕事の手を止める。

 くすりに若返り薬を飲まされてからしばらく賑やかな毎日だったが、いきなり静かになってしまった。


「…………」


 ふと、脳裏に夕食をことわった時のくすりの寂しそうな表情が蘇る。

 いや、もちろん女子生徒をこんな時間に家に上げるなど教師としては言語道断なので間違っていたとは思わない。

 けれどやっぱり、あんな寂しそうな顔をさせてしまったのを思い出すと心がざわつく。


 なんとなく、スマホのフォルダを開いてくすりと撮った写真を眺める。

 家族と疎遠で孤立しがちだった天才少女の家庭教師として、彼女のためになるべく親密な関係を築いてきた。

 最初こそ仕事だったけれど、次第に彼女の笑顔を見ることが心から嬉しいと思えるようになっていった。

 十年近い日々の中で、娘がいたらこんな感じなのだろうか? そんな感覚すら覚えるようになった。

 そんなくすりと距離を取るようになってみると、正直めちゃくちゃ寂しい。


「……いかんな。俺の方こそ薬師寺離れしないと」


 自嘲気味に笑った。せっかくくすりの方から親離れしようとしているのにこれでは本末転倒だ。

 そんなことを考えていたその時だった。

 ──ピンポーン。

 インターフォンが鳴った。

 こんな時間に誰だろうと思っていたその直後──

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。

 ……インターフォンの高速連打。若干恐怖を感じていると「せんせーあけて〜〜〜!」とくすりの声が聞こえてくる。


「……新手の怪異かなんかみたいだな」


 苦笑いしつつ玄関に向かい扉を開ける。


「──ちがうんですううううう!!」


 扉を開けた瞬間、目に涙を溜めたくすりが胸へ飛び込んできた。


「ちがうんですっ……! 先生から離れたいわけじゃないんです……! もっと好きになってほしくて……心理学の本にツンデレがいいって書いてあって……だからツンツンしてたら……先生がどんどん冷たくなって……うえぇぇぇんっ……!」


 ぐずぐずに泣きじゃくりながら、状況を必死に説明してくる。

 要約すると恋愛本を真に受けてツンデレ戦法に出た結果、見事にすれ違ったらしい。


「……だから、距離とらないでください……お願いします……」


 しゃくりあげながらそんなことを言うくすりに、悟は思わず苦笑いした。