「儀式の途中で居眠りして、おまけに怖い夢を見たんだか知らないけれど大声出して」くすりと笑う女子生徒の臣下。「正巳くんの精神集中が解けたせいで、菊理媛さまはいったん〝歪み〟を排除せねばならなかった。外法士のリーダーといえど、定められた掟によってひと月に〝歪み〟を降ろせる回数は決まっているわ。菊理媛さまの顔にも泥を塗って、さぞかしいい気分でしょうね?」
一馬は無言だ。背が低く、そのくせ熊のようにごつい体格をした男のほうはともかく、嫌味な笑顔の女子生徒はスリーサイズまで暗記済みだった。あんたは乳首まで撮ってやる、と内心、彼なりに前向きな敵愾心を燃やしていると、
「まあまあ、そういう嫌味な言い方はよせ」と、新之助はどことなく楽しそうに二人の臣下を制した。「浅生一馬とて、好きで〝歪み〟を怖がったわけではあるまい。何しろ、彼はその生涯の中で二度も〝歪み〟に吞まれそうになったのだからな」
通り過ぎていく生徒たちは、彼らのやり取りに一応は無関心をよそおっている。一族同士の、それとわかる会話は本来禁じられているからだ。
「そうでしたわねえ。迦具羅家の次期当主は、他の一族より早くに一度目の儀式を行うもの。だけれど一馬さんの場合は八歳のそのときも失敗、一三歳の二度目も失敗。わたくしはいま、一族の長い歴史書を紐解いて、こういう前例が果たして本当になかったのかどうか、調べさせている最中ですわ。長い長い歴史の中、数億単位で一族の人間がいる中、まさか彼ひとりだけがそうであるはずがありませんからねえ。だって、もしそうだとしたら、本当に救いようがないんですもの」
「そりゃいい。よかったな、一馬。おまえのような能無しがひょっとしたらひとりくらい……」
「能天気で楽しそうだな、土留、纏」
廊下の向こう側から歩いてきた女子生徒がやにわに言った。どこかで聞いたようなその台詞に名字を呼ばれた男女が「何」と振り返る。
スポーツバッグを肩に引っかけて、どこか粋なたたずまいなその女子生徒は群雲壬琴だった。
「うちのクラスの前でさ、おかしな話で盛り上がってるんじゃないよ。そろそろホームルームもはじまるし、さっさと自分のクラスに戻ったら?」
濃い目の眉毛を吊り上げて、きりりと言い放つ。二人は一瞬気を吞まれかけたが、土留のほうが先に我を取り戻してせせら笑った。
「ふン。おかしな話がどうした? 夕べの儀式には、おまえが迦具羅代表として参加していたんだろうが。群雲家もとんだ恥を搔かされたものだな。そこの男に対し、誰よりも腸が煮えくり返っているのはむしろおまえのほうじゃないのか?」
「お兄ちゃんにひどいこと言わないで!」
そう叫んだのは、壬琴の長身に隠れるようにして立っていた美亜だ。胸の位置まで持ち上げた二つの拳に、八の字に配置してやや内股気味になった足。あれは確か──一馬は息を吞む──鏡の前で猛練習していた『抗議のぽおず』だ。ご丁寧に目はうるっとしていて、頰もうっすら上気している。その手には可愛い柄のハンカチに包まれた弁当箱がぶら下がっていた。
「お兄ちゃんにお弁当を届けに来たのに──ひどい、お兄ちゃんを虐めているなんて」
破壊力は抜群だった。うるうるとした目線に当てられ、うっ、と、土留は口ごもる。周囲の視線も痛い。あっという間に可憐な少女を泣かす悪者に仕立てられた土留のいかつい顔が真っ赤になっていた。
「壬琴くんの言うとおりだ。そろそろホームルームの時間だな。さあ、いつまでも遊んでいないでいくぞ」
新之助はとっとと二人を置いて立ち去っていった。二人の臣下があわててついていく。
美亜はいかにもほっとしたようにため息をつき、それから弁当箱を一馬に差し出した。頭の左右で結わえた長い髪を揺らめかしつつ、
「はい、お兄ちゃん。早起きして作ったんだから、残しちゃダ・メ・だ・よ」
「………………………………………………………………………………………………………」
そんな妹の笑顔を間近に眺めること数秒。額に怒りの血管が浮きはじめたので、一馬は仕方なくそれを受け取った。壬琴はすでに教室に入っている。「じゃあね」と語尾にハートマークでもつきそうな声で言い置いて、美亜も駆け去っていった。
「いい妹だなあ。おまえ、幸せもんだよ」
しみじみと早川が声をかけてくる。無論、そう思われたくて、美亜はわざわざ弁当を二つ持っていったのだ。上級生の票まで稼いで、いったい妹が何をやらかすつもりなのかは一馬にも不明だ。選挙にでも出るつもりかもしれない。
「八咫の奴、今日の身体測定で釘を差しに来たのかと思ったけど、何か様子が違ったな」
「今年は大人しくしておくよ。みづき──じゃなかった、草薙さんにも言われたしな」
二人して教室に戻りながら当り障りのない会話をする。彼の早川家ももちろん結界の民であり、昨夜の儀式には彼の父親が来ていた。が、学校ではあくまでも級友としての二人なのだ。
「生徒会長に? 朝っぱらから呼び出し喰らったのか」
「じゃなくて。昨日、草薙さん、家に泊まったからさ──」
儀式のついでに、とは説明せずにそれだけ言うと、今度は教室内がしーんと静まり返ったのに一馬は気づいた。男女の区別なく、全員がこちらを白い顔で見つめている。「馬鹿」と小さく壬琴が口にした。
「生徒会長が泊まっただと!?」
「貴様の家に!?」
「いやあああーっ! みづきさまが汚されるぅ!」
「泣かないでっ、圭子! みづきさまはそんな簡単に汚れやしないのよ。毒虫が近づいた程度で何かが変わるような、そんな安っぽい方じゃないわっ」
「そうね、そうよね、一馬だもんね。一馬相手にどうこうなんてありはしないものね!」
「一馬はああだけど、妹さんはしっかりしているわ。大丈夫、そうよ、大丈夫よ!」
「いいや、ひとつ屋根の下にいたってだけで、おれは許せん!」
「死ね! 頼むから、今日といわず明日といわず、いますぐ首を搔っ切って、死ね!」
殺気さえ渦巻く教室内を、一馬はひたすら逃げ回る羽目となった。これも、人望というやつだ。
その日の高等部は、四時限目から異様ともいえるほどの警戒態勢が敷かれていた。
中心となっているのは、無論、壬琴が副リーダーを務める女子武部連の皆さんである。五時限目からの身体測定にあわせ、保健室周辺はもちろん、そこへ通じる廊下はすべて検問が設置され、通りかかる生徒は男女の区別なく生徒手帳の提出が義務づけられた。一昨年、一馬は女装して保健室に堂々と潜りこんだ経歴があるためだ。
竹刀を携えた女子剣道部が検問を守れば、女子柔道部員が周辺のパトロールを行い、弓矢で完全武装した女子弓道部と女子アーチェリー部が、去年の二の舞を避けるため、どこぞの馬鹿たれが這い登って来れそうな壁の前に陣取る。
女子フェンシング部、女子空手部──とにかくあらゆる武道系の部が防衛陣を担っている。そして武部連ではないものの、新聞報道部が四時限目からの一馬の動きを望遠カメラでぴったりマークしているので、その辺の情報収集にも抜かりはない。そうした完璧な布陣の中、変わったところでは、最悪の事態に備えて『黒白魔術研究同好会』が一馬の呪殺に動きはじめたという噂まであった。
副リーダーの壬琴のもとへとそれらの情報は逐一届いている。が、正直に言うと、今回の件、決して壬琴は乗り気ではなかった。別に、覗かせてもいいじゃん、見せてやりゃいいだろ、ってなことではなく、馬鹿一匹のために何もそこまでしなくとも、というのが本音なのだ。
壬琴本人は覗かれたことも、盗撮されたこともない。彼女のほとんど野性じみた本能の為せる技で、邪悪な視線と気配は決して見逃さないのだ。そうした点も、彼女のやる気を削ぐ理由のひとつだった。
「まあ、痛い目見せたほうがいいとは思うけど」