そんなのはあとで個人的にでもやれば済むだけの話だ。もし今回も一馬が何か企んでいるようだったら、壬琴は彼を新品のサンドバッグにして女子空手部にでも売りつけてやるつもりだった。
そして、高等部一年生の身体測定が終わりを告げた二時間後──。放課後を告げるチャイムが広々とした校舎内に鳴り響く。
生徒会室で書類をまとめていたみづきが、その紙の束をとんとんと机に打ちつけて角をそろえたところだった。
がらっとドアが開き、壬琴が入ってくる。
「しっつれいしマース……あれ、誰もいないの?」
「さっきまで八咫さんがおられましたけれど。あいつめ、おかしい、何かある、と言い残して去っていきましたわ」
「うーん。やっぱり皆そう思うよなあ」
「なぜです?」
心底不思議そうにみづきは小首を傾げた。長机の中央にあったポットに手を伸ばし、お茶の葉を急須に入れる。学校の備品なのでもちろん安物だが、みづきが淹れると、ただそれだけで何だか茶道の達人に淹れられた高雅な玉露、という感じがする。
「『なぜです』って、だって、何にもなかったんだよ? まあ、この二時間、新聞報道部のマークは外れなかったし、彼らによると、一馬はずっと学校に居残って、友達とウノだか何だかやってたみたいだけど」
「ということは、何もないのでしょう? はい、お疲れさま。おあがりなさいな」
「あー……うー……、うん」みづきに促されて、壬琴は素直に湯吞みを手にする。「みづき姐は不思議に思わないの? これだけの警戒を敷かせたのはみづき姐本人でしょ」
「そうですね。不思議といえば不思議ですけれど」
みづき自身も湯吞みを両手で囲う。みづきのそれは全面に白いテープを巻きつけてある奇妙な品だ。湯気のせいか、みづきの表情がふわりと和らいだように見えた。
「でも、何もなければそれに越したことはありません。わたしは浅生一馬がようやく次期当主としての自覚を持ちはじめたのだと思っているのです」
「えーと、でも、夕べはさあ、ほら」
「〝歪み〟に怯えてしまうのは致し方ありません。実際に、一馬さんは二度〝歪み〟に吞まれかけているのですから」
誰かさんと同じこと言うなあ、と思いつつ、壬琴は頷く。
「だからといって、これから儀式を浅生家に任せてはいけない、というのではなく、だからこそ、これからああいう場を持たせていくべきなのです。力のない一族の民は確かに異例かもしれない。迦具土をどうするか、という問題もあります。おそらく美亜さんが受け継ぐことになるでしょうが、しかし、前例にないからといって、うろたえるばかりでは何も進まないし、ないがしろにすることもあってはなりません。そう……わたしは、壬琴さん、言ってしまえば、一馬さんを尊敬している部分もあるのです」
「何と」
本気でびっくりした壬琴は危うく湯吞みを落っことしそうになった。一馬を尊敬。そりゃ、おけらだってあめんぼだって生きているんだから、何かしら、尊敬できる部分もあるかもしれないが。にしたって。
みづきは湯吞みを手にしたまま窓へ目を向けた。放課後、そろそろ部活動がはじまる時間帯だ。遠くから生徒たちの活気が音となって聞こえてくる。
「女子武部連の皆さんにはご迷惑をおかけしましたが、彼女たちだって、こういう結末が本当は一番望ましかったはずですよ」
「うん、まあ、理屈はそうなんだけどね……。でも、何つうかさ、言っていい?」
「何でしょう」
「みづき姐って、変わったよねえ」
「そうですか」
「そりゃ、あの一馬の馬鹿だって変わるかもしれないけどさ、みづき姐のほうが変わったって、あたしには思えるな。昔はさ、もっと──」
「やっほー」
朗らかな声とともにふたたびドアが開いた。入ってきたのは中等部の黒いブレザーを着た美亜だ。
「やっほー、ではありませんよ、美亜さん。他に誰がいるのかわからないのに、きちんとしたご挨拶をなさい」
「あはは、ごめんなさい。それよりさ、兄貴、今日は何かやらかした?」
「いや、それがさ──」
「いま、ちょうど、一馬さんも成長したと二人して話していたところです。何事も起こらない、安らかな一日でした」
みづきが言い、壬琴はふたたびぎょっとなった。何となくいまの言いように驚きを感じたのだが、理由までは自分にもわからない。
「へっへえ。だと思った。壬琴姐も気づかないなんて、結構、兄貴にしちゃ工夫したほうなのかもね」
「? どういう意味だよ?」
壬琴はみづきと顔を見合わせる。と、美亜は鞄をごそごそ漁り、中から一本のビデオテープを取り出した。
「これ、なーんだ?」
3──
新聞報道部のマークが外れたのを知ると、一馬は席から立ち上がった。
「んだよ、勝ち逃げかよ」
ふてる早川を無視して、一馬が向かった先は視聴覚室だ。教材用のビデオを返却するために準備室の鍵は預かっている。無論、このためにわざわざ自分から返却を申し出たのだ。
準備室に入ると暗幕を引いて、一馬は鞄から八ミリ用のビデオテープを取り出した。
ふっふっふ、と不敵に笑いつつも、彼は昨夜の苦労を思い出していた。
壬琴たちが離れの風呂に入りたいと言い出したとき、一馬は面倒臭そうな顔をしながらも、内心では「やった!」と快哉をあげていた。どうせ美亜が二人を誘うだろうということは想像がついていた。そして、いつものごとく妹が自分を使用人同然にこき使うだろうということも。
浅生家の離れには、薪を焚いて沸かす古いタイプの風呂があった。家のそれよりもかなり大きく、周囲に竹林があって風情があるというので、お客さんには大変好評だ。好評なのはよろしいが、そのための薪拾いや、火をおこす役、火の番をするのはいつも一馬の役目ということになっている。
煙いのと暑いのとを我慢しながらじっと火の番をするのは、当然のことながら苦行以外の何ものでもないが、今回ばかりははちきれんばかりの期待感に胸が踊った。
「ねー、おっきいでしょ?」
一馬が大量の汗を搔いている最中、中からは三人娘の声が聞こえていた。
「あ、本当だ。こりゃいいなあ。こんなでっかい風呂、家にも欲しいよ」
「欲しいのは薪拾いと火の番人もでしょー。いまなら兄貴もつけてあげるよ。ワンセットレンタル料三〇〇円」
「あっはっは、去勢したあとでもらおうかな」
あんにゃろう。ぎりぎりと奥歯を嚙みしめていると、
「ねえ兄貴ィー、もっと熱くしてよ」
と中からリクエストが飛んでくる。へえへえ、と一馬は頷いて、豆炭を釜にくべはじめた。
しかし、苦労ばかりでなく、中の会話を聞いているだけでも、これはこれでなまめかしいものがある。
「おねーさん、相変わらず男らしい身体つきしてますなあ」
「何だよ、もう。わかってるからいいんだよ、筋肉ばっかり、って言いたいんだろ」
「でもこうして間近で見ると、女の子だよね。くびれとか凄い。鍛えてるからかな。胸も……うぐぐ、一年前くらいまではお仲間だと思ってたのにー」
「へっへえ。胸に関していえば、美亜のほうが男みたいだもんな」
「あーっ、ひどい! いいの、発育途中なんだから!」
うむむ。何がどうなって、ナニがそうなっているものやら。一馬は想像力をたくましくしながら聞き耳を立てていた。
「みづき姐は、すんごい肌きれい。わっ、壬琴姐、見て、見て」
「おっ。バスタオルの合間にくっきりと胸の谷間が!」
何ィ。思わず一馬の喉がぐびりと鳴る。鳴ったそのとき、
「何ですか、二人とも。お風呂ではしゃが……あっ」
あっ、て何だ!? 思わず一馬は釜に顔を近づけすぎて、あちゃちゃ、と、熱風に吹き飛ばされる勢いで後退した。
「もう、美亜さん。タオルを返してください」
「ダメダメ。どうせ兄貴は外にいるから何も見えないって。……ぅわお」
ぅわお、とは何だ。そんなに凄いのか、とひとりで息巻く一馬。と、
「ねーえ、兄貴聞こえてる? 兄思いの妹が、官能小説家ばりの表現力で、みづき姐の裸体を描写してあげよっか?」
それはいい! と思っても、もちろん声に出せない一馬である。あははは、と屈託のない壬琴の笑い声が聞こえる。学校でやら、一族でやらの彼女はとかく凜然としているというか、宝塚じみたイメージがあって、そのせいかとっつきにくい印象もあるのだが、仲のいい二人といっしょにいるときは普通の女子高生と変わらない。