わたしで童貞捨てたくせに

第六話 秘密の特訓 ①

 その日の朝、咲良は登校してクラスメイトに囲まれるなり、素っ頓狂な声を上げた。


「えっ、英語に課題なんてあったんですか⁉」


 周囲から「ほら、プリントの」「休日がテーマの」という声を聞いて、咲良はみるみる顔を蒼褪めさせていく。どうやら先日出ていた課題を忘れてしまったらしい。

 すぐさま自分の席に向かい、件のプリントを取り出し慌てて広げ、険しい表情をしながら課題に取りかかる。

 咲良らしからぬミスに、どう反応をしていいかわからずまごつく周囲。

 宏太だって唖然として目を瞬かせるばかり。

 ややあって手が止まり、咲良は問題に躓いたのか「うぅ~」と唸りだす。すると初めに咲良へこの課題のことについて話しかけてきた人たちが、おずおずと「そのthatは関係代名詞に見えて接続詞」「前置詞がひっかけになっていて」とアドバイスをすれば、咲良はパァッと顔を綻ばせ「あ、そうですね」「なるほど!」と得心する。

 次第に咲良の席を中心に、皆でわいわいと賑やかな勉強会の輪が広がっていく。

 プリントの課題自体も、さほどボリュームがあるわけじゃない。咲良もSHRの予鈴が鳴る前に終わらせたようだった。

 普段の咲良を思えば、課題を忘れるなんて珍しいことだ。

 皆も最初は面食らったようだが、咲良がいつも完璧で隙のない姿を見せているだけに、こうしてついうっかりした部分があることに親近感が湧いている様子。

 これまでなら宏太も、後ほど二人っきりになった時にこのことで揶揄っていただろう。

 しかし今はその原因が小説であろうということを知っている。

 それが小さな棘のように胸に突き刺さり、宏太は微笑ましい顔をする皆と違い、なんとも渋い面を作るのだった。

 

 

 朝こそ咲良が課題を忘れるというちょっとしたアクシデントがあったものの、その後は特に何事もなく、いつもと変わらない日常が過ぎていく。

 そうこうして訪れた昼休み。宏太作のお好み焼きとミニサラダの弁当を食べた後、連れ立っていつものように生徒会庶務の手伝いへ。

 本日の仕事は、旧校舎で倉庫代わりに使われている教室での備品チェック。中に置かれているのはテントに長机、パイプ椅子にカラーコーン、虎ロープにポール等、主に屋外でのイベントに使うものばかり。五月末に控えている体育祭に向けて、少し気が早いが直前になって慌てないよう、今のうちに不備がないか見るためだ。


「私、パイプ椅子の方から見ていくね。宏太はテントの方からお願い」

「あいよ」


 本校舎から離れ、食堂や購買からも遠いこの旧校舎に、かすかな昼の喧騒が聞こえてくる。

 それらをBGMにしながら、宏太と咲良は慣れた様子で手分けして、目を光らせていく。

 ちらりと咲良を見てみると、いつも通りの涼し気な顔。普段と同じ。

 宏太は少しの逡巡の後、気になっていたことを訊ねた。


「なぁ、今日課題を忘れたのって、もしかして小説書いてたからなのか?」


 すると咲良はびくりと肩を跳ねさせた後、こちらを向いて気恥ずかしそうにはにかんだ。


「あはは、まぁそんなとこ。正確には今度受賞作の打ち合わせがあるからさ、その時に自分でも気になってたところの別案とか書き出してたら止まらなくなっちゃって、ついうっかり」

「ふぅん……今までちょくちょく大寝坊かますことあったけど、もしかしてそれも?」

「うん、実はね」


 咲良はてへっ、とおどけたように舌先を見せる。

 長年謎に思っていたことが氷解すると共に、釈然としない何かも胸に生まれて。

 宏太は咲良から視線を逸らし、憮然とした顔で言う。


「そんなに楽しいもんかね」

「そりゃ、時を忘れて夢中になるくらいにはね」

「…………そっか」


 咲良から告げられた言葉に胸が騒めく。

 夢中。それは一つのことに我を忘れ、他が見えなくなること。

 まさに今の咲良がそうだろう。

 今まで何をするにも一緒だったのに、咲良が一人だけで取り組んでいること。

 そして眩くも、それが心を掻き乱される原因であることにも気付く。

 ――果たして自分は、それほどまでに熱量を傾けた何かがあっただろうか?

 宏太がくしゃりと顔を歪めていたその時、悲鳴にも似た女子生徒の叫び声が聞こえてきた。


「――――――――てよ!」

「っ!」「っ⁉」


 思わず作業の手を止め、宏太と咲良は顔を見合わせる。

 旧校舎は基本的に資材置き場、それから天文部や書道部といった文化系のいくつかの部活と、マイナーな同好会が部室で利用しているところがある程度。

 昼休みに訪れる人は非常に少ない。

 しかしそれを利用して、告白スポットとして使われることもあるという。

 それにあまり考えたくないが、イジメなどよからぬことに使われる可能性も否定できない。

 宏太と咲良の間に緊張の糸が張り巡らされていく。


「――――――――なのっ」


 その時、またも悲哀さを訴えるかのような声が聞こえてきた。

 生徒会庶務としてではなく、人として見過ごすわけにはいかないだろう。

 宏太は咲良と頷き合い、声のする方へと足を向けた。

 人気のない廊下に出て、なるべく気配と足音を消しながら、耳をそばだて歩く。

 そう遠くない場所からのようだ。近付くにつれ、声が鮮明になっていく。


「もっと早く言って欲しかった!」

「へ、へぇ。そうなんだ……」

「誰かな~、この女」

「む、昔のように~⁉」


 聞こえてくる声は悲鳴のような叫び声の他、不服そうなもの、問い詰める感じ、やけに焦り混じりの驚愕した絶叫等々、コロコロと変わる。まさに千変万化。

 誰か女子が一方的に話しているようだが、一体どういう状況か見当も付かない。

 頭の中を疑問符で埋めながら、声の消えてくる教室の前に辿り着く。


「もっと早く言って欲しかった!」


 またも中から声が聞こえてくる。先ほども聞いたものと同じ内容だ。

 まるでループしているかのよう。何かがおかしい。

 それを裏付けるように、目の前の教室からは声の主以外の人の気配を感じられない。

 宏太は咲良と目を合わせてコクリと頷き、万が一に備えて咲良の前に一歩前に出て、息を吸って扉を開けた。


「誰かここにいるのか、何かあった⁉」

「『へ、へぇ。そう――』――っ⁉」

「え?」「へ?」


 すると部屋の中にいた羽衣と目が合い、互いに間の抜けた声を上げる。

 外から感じた通り、驚き固まる羽衣の他には誰の姿もない。彼女一人だ。

 この教室自体、半分ほどが使われていない予備の机や椅子が重ねられて占められ、とくに変哲のないところである。こんなうらびれた場所での用なんて、咄嗟には思い浮かばない。強いて特筆する点を上げれば、羽衣が手に持っている数枚のプリントくらいだろうか。

 しかしそれを見てピンときた宏太が、思いついたことを羽衣に訊ねた。


「えぇと朝熊、もしかして新しいモノマネの練習してた?」

「あぁ! あれだけのクオリティですものね、こうして人知れず練習しているのは納得です」


 斜め後ろにいる咲良も、宏太の言うことに腑に落ちたと口元に手を当て頷く。


「……、……っ」


 しかし当の羽衣本人は、持っていたプリントをギュッと胸元で抱きしめ何かを言い淀み、ふるふると遠慮がちに小さくかぶりを振る。

 明らかに違うと全身で表現する羽衣に、首を傾げる宏太と咲良。


「モノマネの練習じゃないのだとしたら、何をやってたんだ?」

「その、私たち何か揉め事があったのかと思ってやって来たのですが……」


 二人からそう言われると、羽衣も弱いのだろう。そもそも羽衣の良くない噂が蔓延していた時、助言して状況を打開したのは宏太と咲良なのだ。

 やがて羽衣は気まずそうに睫毛を伏せ、躊躇いつつも胸に抱えていたプリントをおずおずと差し出してきた。


「んっ」

「これは……何かのキャラのセリフ?」


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