果たしてこの街と自分との境界線はどこにあるのかと思う。
まず、その解答を出すには自分という定義について考える必要がある。自分という定義はどこまでを指し示しているのか。皮膚の内側か、それとも全身にまとう衣服を含めて自分と表現しているのか。流れる汗や涙は定義から外れるのだろうか。体から離れた時点で塩化ナトリウムを含む単なる水分に成り下がるのか。それとも、人体を構成する七十パーセント近くの水分は、元から定義から外すべきなのか。
そもそも、自分という定義は物質的であるのかという問題がある。肉体ではなく、涙ではなく、涙を流す心そのものが自分の定義であると。しかし、自分という概念が物質的なものでないとすると、自分とこの街の境界線は存在しないことになる。常に外部からの情報の干渉を受け続けているからだ。つまり、東京という情報に無防備にさらされている自分の体は、この街の一部であることになってしまう。
東京の六月の空は呆れるほどに真っ青だった。降水確率ゼロパーセントの快晴、校庭の葉桜に、テスト中の教室、鉛筆がこすれる音、窓に映る彼女の顔。湿り気を含んだ風が教室に吹き込みカーテンを揺らす。雨上がりの匂いがした。本格的な夏はもう少し先だ……。
前田は鉛筆を置き窓を眺めていた。高校二年生の中間テスト。普段勉強をしない高校生たちもテストの結果には一喜一憂する。そんな格式高いイベントだったが、前田はすでに興味を失っていた。
元から決まっている答えを記入して得る数字になんの意味があるのだろうかと思う。このテストで得た数字は絶対的なものなのか。得た数字はこの世界で自分を表現する数値となり得るのだろうか。
なんだかこんなときだけ思考が積み重なってしまう気がする。静けさのなか、鉛筆をこする適度な雑音が心地いいのだろうか。青空を見つめていた前田は、焦点を窓に合わせた。窓ガラスにうっすらと映っているのは、隣の席の彼女の顔だった。
窓ガラスの彼女、青原遙花は七組においてプラスの評価をされている。
それもこの世界で絶対的な評価となるのだろうか。この二年七組のクラス内の評価はそうであろう。さらに枠を広げたとしても、そのプラスの評価はほぼ変わることはないはずだ。では、青原遙花は、例えば可愛らしさという絶対的な数値を持っていることになるのだろうか。
現在彼女が解いている数式のように、この世界のすべての生命にも美しさという公式が存在するのかもしれない。絶対的な美しさだ。生命を生みだす宇宙の森羅万象の方程式。だとしたら、この宇宙に他の生命体が存在しようとも同じ美意識を持っていることになる。
窓ガラスは遙花の顔のパーツの情報を正確に映していた。栗色の髪はわずかにウエーブがかかっている。筆記にあわせて揺れる前髪は光の筋のように見えた。一年前は腰まであった髪だがばっさりと切っていた。長さは彼女の肩の少しだけ下。絶妙にほんの少しだけだ。
唇は薄めで柑橘系のリップを塗っている。数式の確認をしているのか、唇が微かに動いたのが見えた。消しゴムで答えを消すその仕草は、まるで愛猫をなでるかのように優しく繊細だった。この一分間に瞬きは七回。瞳の色は葡萄色、朱色の頬、ペンケースの色はビリジアン。一言で言うと彼女はカラフルだった。
彼女が見つめているのがテスト用紙であることは非効率だった。彼女に見つめられれば、このクラスの男子たちは幸せな気分になるのだろうと思う。つまりこのテストの時間は、エネルギーの無駄遣いだ。いや、もともと青原遙花は非効率な存在なのかもしれない。くるくる変わる表情も大げさな仕草も複雑なトーンの口調もそうだ。
前田の視線は窓を通り抜けて青空に向いていた。空には小さな雲が浮かんでいる。風に形を変えるあの雲も数式で表現できるはずだ。宇宙空間を座標化し雲の形状の変化を管理するのだ。同じように自分自身もこの宇宙の中できわめてシンプルな数字として成り立っているに違いない。しかし、だとしたら何故この空間を表現する必要があるのだろうか。数字という情報のみを動かせばよいのに、どうしてこの世界が誕生したのか……。
雲を見つめる前田はふと視線を感じた。焦点を窓ガラスに合わせてみると、彼女がこちらを向いているのが見えた。窓ガラスに映る遙花と視線が合うと、彼女ははっとしたように机に視線を戻した。窓ガラスに映る彼女は、もうひとつの世界に存在しているともいえる。容姿というデータを抽出して窓ガラスの世界に存在させている。霧のようにこの東京を覆うもうひとつの世界があるのだ。
ちらりと横を向くと、遙花はじっとテスト用紙を凝視していた。同時にチャイムが鳴った。
中間テストは順調に消化していった。
といっても、前田の点数はそれほど順調ではない。前田の中間テスト対策は皆無と言っていいほどだ。ただ、赤点を取って追試などの処分は避けたい。テストも面倒だが追試に時間を使うのはもっとくだらない。
前田は窓際の座席に座り教科書を見ていた。中間テストは次の化学で終了だった。
ちらりと前方を見ると、遙花を囲んで生徒たちが集まっているのが見えた。テストのヤマを聞いているのだろう。実際に彼女のテストのヤマ当ては常識を逸している。どこの英文がテストに使われるか、数学の公式や漢字など、ピンポイントで当ててくるのだ。最初は漢字テストや英単語テストなどの小テストのヤマ当てを始めたのだが、それが高確率で当たるため、遙花は職員室に潜入して作成したばかりのテストを盗み見しているのでは、との噂すら立ったほどだ。勘が異常に発達しているとしか考えられなかった。
「どうよ、前田」
前の席に座る浅尾という男子生徒がこちらを見た。
「まあまあだな」
「すっげえ余裕じゃんか。諦めたのか? 悟りの境地ってやつ?」
浅尾はへらへらと笑っている。こいつもテストに関しては悟っているタイプだ。勉強はできないが目立ちたがり屋で七組のクラス委員長をやっている。
「テストなんてコツをつかめば簡単なんだよ。今回の俺はおまえと一緒に追試を受けることはないからな」
「俺だって今回は追試はねえよー」
と言いつつ、浅尾は「うひゃひゃ」と笑いながら漫画雑誌を読みだした。
「……愚か者め」
今回もこいつは赤点で追試となることだろう。しかし、こちらには今回に限って秘密兵器がある。前田は教科書に挟んだ紙片を確認した。
これは簡単にいうとカンニングペーパーだ。カンニングのスキルはこの学校でも格段に進歩している。例えば最近の流行はモバイルを使うことだ。マナーモードの振動回数で答えを教えあったり、受信対応させたキーホルダーを光らせたりと。しかし、学校サイドも当然対策を取っている訳でいたちごっこが続いているのが現状だ。
そこで前田はその隙を突き、アナログのカンニング方法を選択したのだ。昔から利用される紙に書いてテストに持ち込む方法だ。学校側はデジタル的なカンニングばかりに気を取られ、このようなカンニング方法は意外に盲点となる。
ただし、その方法にはいくつかの問題がある。ひとつは持ち込む紙片は小さくなければならず、書き込むものも要点を絞る必要がある。要点を絞るということは、それなりにその科目を理解していなければならないということだ。ここに矛盾が生じる。カンニングペーパーを必要とする生徒は、良質なカンニングペーパーを作れないのだ。