アトリウムの恋人

1 Sports & Simulation Society ①

 果たしてこの街と自分との境界線はどこにあるのかと思う。

 まず、その解答を出すには自分という定義について考える必要がある。自分という定義はどこまでを指し示しているのか。皮膚の内側か、それとも全身にまとう衣服をふくめて自分と表現しているのか。流れる汗や涙は定義からはずれるのだろうか。体から離れた時点で塩化ナトリウムを含む単なる水分に成り下がるのか。それとも、人体を構成する七十パーセント近くの水分は、元から定義から外すべきなのか。

 そもそも、自分という定義は物質的であるのかという問題がある。肉体ではなく、涙ではなく、涙を流す心そのものが自分の定義であると。しかし、自分というがいねんが物質的なものでないとすると、自分とこの街の境界線は存在しないことになる。常に外部からの情報のかんしようを受け続けているからだ。つまり、東京という情報に無防備にさらされている自分の体は、この街の一部であることになってしまう。

 東京の六月の空はあきれるほどにさおだった。降水確率ゼロパーセントの快晴、校庭のざくらに、テスト中の教室、鉛筆がこすれる音、窓にうつる彼女の顔。湿り気をふくんだ風が教室に吹き込みカーテンをらす。雨上がりのにおいがした。本格的な夏はもう少し先だ……。

 まえは鉛筆を置き窓をながめていた。高校二年生の中間テスト。普段勉強をしない高校生たちもテストの結果にはいついちゆうする。そんな格式高いイベントだったが、前田はすでに興味を失っていた。

 元から決まっている答えを記入して得る数字になんの意味があるのだろうかと思う。このテストで得た数字は絶対的なものなのか。得た数字はこの世界で自分を表現する数値となり得るのだろうか。

 なんだかこんなときだけ思考が積み重なってしまう気がする。静けさのなか、鉛筆をこする適度な雑音が心地いいのだろうか。青空を見つめていた前田は、焦点を窓に合わせた。窓ガラスにうっすらと映っているのは、となりの席の彼女の顔だった。

 窓ガラスの彼女、あおばら遙花はるかは七組においてプラスの評価をされている。

 それもこの世界で絶対的な評価となるのだろうか。この二年七組のクラス内の評価はそうであろう。さらにわくを広げたとしても、そのプラスの評価はほぼ変わることはないはずだ。では、青原遙花は、例えば可愛かわいらしさという絶対的な数値を持っていることになるのだろうか。

 現在彼女が解いている数式のように、この世界のすべての生命にも美しさという公式が存在するのかもしれない。絶対的な美しさだ。生命を生みだす宇宙のしんばんしようの方程式。だとしたら、この宇宙に他の生命体が存在しようとも同じ美意識を持っていることになる。

 窓ガラスは遙花の顔のパーツの情報を正確に映していた。くり色のかみはわずかにウエーブがかかっている。筆記にあわせてれるまえがみは光のすじのように見えた。一年前はこしまであった髪だがばっさりと切っていた。長さは彼女の肩の少しだけ下。絶妙にほんの少しだけだ。

 くちびるは薄めでかんきつ系のリップを塗っている。数式の確認をしているのか、唇がかすかに動いたのが見えた。消しゴムで答えを消すそのぐさは、まるであいびようをなでるかのように優しくせんさいだった。この一分間にまばたきは七回。ひとみの色は葡萄ぶどう色、しゆ色のほほ、ペンケースの色はビリジアン。一言で言うと彼女はカラフルだった。

 彼女が見つめているのがテスト用紙であることは非効率だった。彼女に見つめられれば、このクラスの男子たちは幸せな気分になるのだろうと思う。つまりこのテストの時間は、エネルギーのづかいだ。いや、もともとあおばら遙花はるかは非効率な存在なのかもしれない。くるくる変わる表情も大げさなぐさも複雑なトーンの口調もそうだ。

 まえの視線は窓を通り抜けて青空に向いていた。空には小さな雲が浮かんでいる。風に形を変えるあの雲も数式で表現できるはずだ。宇宙空間をひよう化し雲の形状の変化を管理するのだ。同じように自分自身もこの宇宙の中できわめてシンプルな数字として成り立っているに違いない。しかし、だとしたらこの空間を表現する必要があるのだろうか。数字という情報のみを動かせばよいのに、どうしてこの世界がたんじようしたのか……。

 雲を見つめる前田はふと視線を感じた。焦点を窓ガラスに合わせてみると、彼女がこちらを向いているのが見えた。窓ガラスに映る遙花と視線が合うと、彼女ははっとしたように机に視線を戻した。窓ガラスにうつる彼女は、もうひとつの世界に存在しているともいえる。容姿というデータをちゆうしゆつして窓ガラスの世界に存在させている。きりのようにこの東京をおおうもうひとつの世界があるのだ。

 ちらりと横を向くと、遙花はじっとテスト用紙をぎようしていた。同時にチャイムが鳴った。



 中間テストは順調に消化していった。

 といっても、前田の点数はそれほど順調ではない。前田の中間テスト対策はかいと言っていいほどだ。ただ、赤点を取って追試などの処分は避けたい。テストもめんどうだが追試に時間を使うのはもっとくだらない。

 前田は窓ぎわの座席に座り教科書を見ていた。中間テストは次の化学で終了だった。

 ちらりと前方を見ると、遙花を囲んで生徒たちが集まっているのが見えた。テストのヤマを聞いているのだろう。実際に彼女のテストのヤマ当ては常識をいつしている。どこの英文がテストに使われるか、数学の公式や漢字など、ピンポイントで当ててくるのだ。最初は漢字テストや英単語テストなどの小テストのヤマ当てを始めたのだが、それが高確率で当たるため、遙花は職員室に潜入して作成したばかりのテストを盗み見しているのでは、とのうわさすら立ったほどだ。かんが異常に発達しているとしか考えられなかった。


「どうよ、まえ


 前の席に座るあさという男子生徒がこちらを見た。


「まあまあだな」

「すっげえ余裕じゃんか。あきらめたのか? さとりの境地ってやつ?」


 浅尾はへらへらと笑っている。こいつもテストに関しては悟っているタイプだ。勉強はできないが目立ちたがり屋で七組のクラス委員長をやっている。


「テストなんてコツをつかめば簡単なんだよ。今回の俺はおまえといつしよに追試を受けることはないからな」

「俺だって今回は追試はねえよー」


 と言いつつ、浅尾は「うひゃひゃ」と笑いながら漫画雑誌を読みだした。


「……おろか者め」


 今回もこいつは赤点で追試となることだろう。しかし、こちらには今回に限って秘密兵器がある。前田は教科書にはさんだ紙片を確認した。

 これは簡単にいうとカンニングペーパーだ。カンニングのスキルはこの学校でも格段に進歩している。例えば最近の流行モードはモバイルを使うことだ。マナーモードの振動回数で答えを教えあったり、受信対応させたキーホルダーを光らせたりと。しかし、学校サイドも当然対策を取っているわけでいたちごっこが続いているのが現状だ。

 そこで前田はそのすきを突き、アナログのカンニング方法を選択したのだ。昔から利用される紙に書いてテストに持ち込む方法だ。学校側はデジタル的なカンニングばかりに気を取られ、このようなカンニング方法は意外にもうてんとなる。

 ただし、その方法にはいくつかの問題がある。ひとつは持ち込む紙片は小さくなければならず、書き込むものも要点をしぼる必要がある。要点を絞るということは、それなりにその科目を理解していなければならないということだ。ここに矛盾が生じる。カンニングペーパーを必要とする生徒は、良質なカンニングペーパーを作れないのだ。