それらの問題を解消するために、前田はこのカンニングペーパーを買った。購入先は二学年ナンバーワンの頭脳だ。数学においては重要な公式や回答パターンなど、英語は和訳や単語などがシンプルでいて緻密に記載されている。
これで一教科、約二十点ほどの上積みが期待できる。ほんの二十点でいいのだ。カンニングがばれる一番の理由は欲だ。高得点を取ろうとするとそれなりのリスクを冒さねばならず、そのぶん教師に見つかる率が高くなってしまう。
そしてもうひとつ証拠という問題がある。一瞬で消去できるデジタルと違い、紙は物的証拠が残るデメリットがある。そこでこのカンニングペーパーは水に溶ける紙を利用しており、いざとなったら食べてしまえばいい。証拠がなければ見つかったとしてもしらを切りとおせる。
前田は次の教科の化学のカンニングペーパーを消しゴムのカバーの裏に隠した。昨日のうちに消しゴムを削り取り、ペーパーを入れるスペースを作っている。これで追試を回避できれば安いものだった。
前田がカンニングの準備をしていると、遙花が隣の席に戻ってきた。彼女は化学の教科書を広げて蛍光ペンでマークした箇所を確認している。
青原遙花は成績も優良でいて運動神経もよい。明るい性格で誰とでもフレンドリーに交流ができる。少々とぼけた一面があるものの、そんなところも周囲から好かれる要素となり、クラスメイトとしては百点満点の女子だった。
前田は彼女から視線を外した。前田にとって遙花は欠落した存在に過ぎなかった。できるだけ距離を置きたい気持ちがある。そんな雰囲気が彼女に伝わるのか、前田は二年七組において遙花とほとんど交流しない奇異な存在となっていた。二年で同じクラスになってから、交わす会話は朝の挨拶程度という関係が続いている。しかし、それは今日までとなった。
化学のテストが終わったとき、もしも前田がトイレに行っていたなら。もしも前の席に座る浅尾のテストのできが少しだけよく前田に話しかけていたなら。だとしたら、いつもと同じだったかもしれない。そのままホームルームが始まり、終わると同時に前田は教室から出ていく……。しかし、現実はそうではなかった。
化学のテストが終わると教室の空気は一気に弛緩した。前の席ではテストに敗北した浅尾がぐったりと机に突っ伏し、前田は飲みかけのコーヒーの缶の中にペーパーをねじ込み証拠隠滅を果たしていた。そんなとき、前田は隣の遙花と視線が合った。そして遙花は意を決したようにすっと立ちあがる。
「……前田君」
遙花は遠慮がちに声をかけてきた。一緒のクラスになってから初めて前田が彼女に名前を呼ばれた瞬間だった。
「どうした?」
前田は平静を装って返答した。周囲を窺うと特にこちらに注意を向けている生徒はいない。
「ちょっと前田君に相談があるの」
「恋愛相談的な?」
「ううん、そんなことじゃないの。ちょっと一緒に調べてほしいものがあるっていうか……」
「ふーん、なんで俺に? わざわざ俺に相談する必要なんてないんじゃないか」
会話は油を差していない機械のようにぎこちなかった。遙花は、帰り支度をする前田を見つめたまま唇を動かした。
「……スフィアについて、なの」
前田は絶句し鞄を落としてしまったが、すぐに我に返って平静を装う。
「ちょっと待ってね、ちゃんと話を聞く用意はあるから。で、スフィアって、なんかのブランドの名前とか?」
「違うよ、東京スフィアのこと」
「東京スフィア? あまり聞いたことがないけど」
「私も詳しく知らないんだけど、これを見て」
遙花が見せたのはチケットだった。そのチケットには、東京スフィア入場券とあり、もうひとつの東京へ、とのあおり文句が書いてあった。
「遊園地の入場券みたいだね」
「うん、でもどこに行けばいいのかよくわからないの。それに、これを入手した経緯もちょっといろいろあって」
「それで俺に相談?」
「なんで前田君に相談したかっていうと理由がいくつかあってね、ひとつは前田君がオンラインゲームサークルに所属しているから」
「そう、オンラインゲームだよ。遊園地とは関係ないよな」
「少しだけスフィアについて調べたの。スフィアはもうひとつの東京なの。つまり、現実の東京に重なるようにして存在する仮想世界らしいの。だから、オンラインゲームのようなものでしょ」
「でも、サークルは仮登録だよ。人数も条件も満たせてないから正式に活動してないんだ。部員も俺を含めて二人しかいないし」
「もうひとりって前田君と仲のいい一年生だよね。確か雪村君だっけ。……それで、サークルが正式に活動してたら、前田君は協力してくれたの?」
「うん。でも活動したいんだけど、どうしてもメンバーが集まらなくてさ。設立条件も結構シビアで仮登録のままなんだ」
「そっか、残念」
ため息を吐く遙花は全身で残念さを表現していた。視線や声や動作などで現在の自分の情報を無防備にまき散らしている。そんな彼女を見て前田の胸に罪悪感が膨らんでしまう。
「ねえ、もしも活動してたなら、私をサークルに入れてくれた?」
席に戻りかけた遙花が、振り向いて聞いた。
「もちろんだよ。俺だってサークルが正式に認められたらどんなに嬉しいことか」
前田はうなずいてみせた。しばらくすると、遙花の周囲には女子生徒たちが集まってきた。テストが終わり今日は部活動もないので皆で遊びに行く計画でも立てているのだろう。彼女はアクティブにいろいろな場所に出かけていくのだ。
「なあ、遙花ちゃんとなに話してたんだよー」
浅尾がにやにやとこちらを見ている。
「お前が遙花ちゃんと話すの珍しいよなあ」
「大した話じゃないって」
前田が浅尾をあしらっていると、担任が教室に入ってきてホームルームが始まった。前田は配られたプリントを受け取りながら額の汗をぬぐい息を吐く。全身に汗をかいていた。遙花は何のつもりで自分に相談してきたのだろうかと思った。
プリントには次期生徒会役員募集とタイトルがあり、活動内容の欄には『続きはwebで!』と書かれていた。また、現生徒会の写真が貼られており、それを見た女子生徒たちがきゃっきゃと騒いでいる。
「やっぱり結城先輩はかっこいいよね」
「そうだね。女の子に優しくしてくれるしね」
前の席の女子に話しかけられた遙花が笑いながら相づちを打っている。結城とは三年生の生徒会副会長のことだ。現行の生徒会が異様に力を持っているのは結城のためかもしれない。結城は生徒の自立をスローガンに、少しずつ学内の構造改革に乗りだした。そしていつの間にか教師たちが持っていた権力を生徒会にシフトさせてしまったのだ。今の生徒会は教師も手を出せない聖域となっている。
「でも、ちょっと怖い雰囲気があるよね?」
「そこもいいと思うんだけどねえ」
騒ぐ女子生徒たちを横目に、前田はプリントを丸めて鞄に押し込んだ。教壇で担任が何かを言っていたが、前田の耳を通り抜けていく。そして、ホームルームが終わると同時に前田は鞄を持って立ちあがった。
「前田はどうする? 遙花ちゃんが、みんなで新宿御苑に行って遊ばないかって言ってたけど」
「今日はパスするよ」