「十二種類の薬草・香草を干したものを湯に沈めてあります。普段は皇室の方々しかご利用になれませんし、お客様に供されることも稀です」
「ふむ。一応歓迎されてはいるわけか」
「も、もちろんでございます!」
軽口のつもりだった一言に、侍女は飛び跳ねんばかりに反応した。幸か不幸か、有角の民のなかでも、神を前にしてセレィほどに我を通そうとする者は稀なようだ。
そうして、件の湯殿を目の前にしてみると、クルァシンは感心と呆れの溜め息をいちどきに漏らした。やや高所に位置する脱衣所から望む湯船は、湯気に隠された全容こそ窺い知れないものの、二、三十人が悠々と手足を伸ばして浸かれるだけの容積はかたい。空間にはむせ返るような香気が立ちこめ、酩酊にも似た気分を入浴者にもたらすようになっている。
「お──お召しのものを、お預かりいたします」
「ん? ああ──、」
言われてすぐ、クルァシンは上着にしていた貫頭衣に小さな手がかかるのを感じた。咄嗟に拒みかけたが、これも歓待の形式なのだと諦めて、されるがままになる。が、懐に収めていた書物だけは自分で抜き取り、メリェに手渡した。メリェは希少さに比類なき宝石でも扱うかのような手つきでそれを受け取った。
「ク、クク、ク、クルァシン様」
「ん?」
「こ、これは、もしかすると神書でございますか」
垢じみた表紙を凝視して、メリェは震える声で言う。導神は苦笑いして首を横に振った。
「そんなに大層なものじゃない。が、なるべく大切に扱ってくれ」
「も、もちろんでございます! 大切に扱わせていただきます……!」
丁寧に畳んだ貫頭衣と一緒に本を湯籠に納めると、メリェはあらかじめ用意されていた湯衣をクルァシンに着せ込み、そうしてから深衣と下着を取り去って、彼の身体を薄布一枚隔てて一糸纏わぬものにした。
「ああ、ありがとう。楽しませてもらおう」
わずかに頰を紅潮させたクルァシンが湯殿に入ろうとすると、もう少々お待ちくださいませ、と硬い声に追われる。まだ何か準備があるのか、と彼が振り返ったところで──クルァシンは仰天のあまり瞳孔を拡大させた。侍女メリェは、その場でいそいそと、己の衣服までも脱ぎ始めていたのである。
「……ちと待て。それは全体どういうつもりだ」
神に問われて、メリェは羞恥のあまり真っ赤になった顔を俯かせる。
「ゆ、湯殿のなかでご奉仕させていただくのに、わたしだけが着衣のままというわけには参りません」
「奉仕なんて、そんなことを誰が頼んだ。風呂ぐらいひとりでも入れるというに」
動揺のあまり強い口調で言ってしまったクルァシンに、メリェはふぇ、と泣きそうな顔になった。クルァシンは慌てて取り繕った。
「待て……泣くな! 何も怒ったわけじゃない」
玉の肌も露にぐずり始めたメリェを、クルァシンは必死になだめすかす。この段になって、彼もようやく気づいたことだが、この侍女はまだ少女と言ってもよいほどに幼いのだ。
「怒ってないと言っているだろう! ええぃ、それにしても風呂が楽しみだ! お前のように愛らしい娘に世話してもらうとなれば尚更な!」
「……ぇくっ……本当、ですか……?」
「本当だとも! ああ、早く湯船に入って塩を落としたいな!」
必死のフォローが功を奏してか、メリェはようやく泣きやんで笑顔を取り戻した。さっきと同じようにクルァシンの腕を取るや、そのまま湯船へと案内していく。目のやり場がなかったので、クルァシンは思い切って瞼を閉ざした。
「お掛けくださいませ」
促されて、クルァシンは薄目を開く。なるほど足元に腰掛が用意されており、彼はそこにゆっくりと腰掛けた。その際、視界の端に瑞々しい柔肌が映り込み、どうしようもなく彼の心拍をかき乱した。
桶で掬った湯をクルァシンに浴びせると、メリェは失礼いたします、と呟き、たおやかな手つきで彼の湯衣の上半分をはだけさせた。ここがクルァシンにはどうしても理解しかねた。男の自分には衣が用意されているのに、どうして彼女は一糸纏わぬ姿でいるのか? まだしも立場が逆であるほうが彼の常識に即している。
ともあれ、メリェの奉仕は実に丁寧で、いざ身体を洗われる段になってからは、クルァシンも委細を忘れた。背中から指先までを、柔らかい指先がつたっていく感触は、えも言われず官能的だった。クルァシンは唇をきつく嚙んで劣情を押し殺した。
「お美しい……」
一方で、ほとんど無意識に、メリェの口からは賞賛の言が漏れていた。全容を晒したクルァシンの肉体は、なるほど神体を名乗るに不足のない逞しさを備えていた。総身を鎧う筋肉は力強く、かといって肥大しすぎることもなく、均整の取れた肉体美を成している。
さらにもうひとつ、年若い侍女を陶然とさせる部位があった。それは瞳と同じく、漆黒の深きあまりにうっすらと翠すら湛えた、クルァシンの長い髪だった。
「か、髪留めを、お取りいたします……」
三つ編みにされた二房の下げ髪の先端、それぞれを纏めおく紡錘形の髪留めを手に取って、メリェはやや意表を突かれた。おそろしく重いのである。鋼の輝きは外皮一枚の塗装かと思いきや、どうやら総身が仮借ない金属の塊らしい。ただでさえ膝までも伸びる下げ髪の先端に、こんなものを付けていたのでは、首が疲れないのだろうか──口には出さず、メリェは不思議に思った。
「石鹼で滑らせないように。足に落とせば、軽い怪我では済まん」
クルァシンにも忠告されて、メリェは神妙に二つの髪留めを取り去った。するとどうだろう、幾重にも結われていた長髪は自ずと解れてゆき、ほどなく一条の清流のごとき姿を取り戻した。メリェは畏怖すら覚えながら、そのひと房を手に取った。
「わ、わたしには、できません……」
「なに?」
「うかつに洗っては、この御髪を傷めてしまいそうで……」
肩さえ震わせるメリェの態度に、クルァシンは小さく吹き出した。
「師と同じことを言うのだな、お前は」
「師? 導神さまの師と、申されると……いずれの神々のことでしょうか」
その問いには答えず、クルァシンはぽつりぽつりと呟いた。
「おかしなものだ。俺としては、こんな髪に何の執着もないのだがな、行く先々で宝石のように扱われる。男の髪が美しかったところで、何に利するわけでもないだろうに」
まったくその価値を解さない本人の発言に、メリェはたまらず唇を尖らせた。
「クルァシン様……その言いようは、いくら何でも、凡百の女たちがあまりに哀れでございます……」
「そういうものなのか。……なろうことなら、望むだけ分けてやりたいものだが」
「とんでもありません!」
そら恐ろしいことを平然と述べるクルァシンに、メリェはいよいよ覚悟を決めて洗髪を始めた。それはまさしく、彼女にとっては至高の体験となった。
濡れた髪を手で梳く度に、かつて経験のない官能が少女の脊髄を駆け抜けた。その性正直に極まりしクルァシンの毛髪は、どれほど弄ぼうとも絡むということを知らなかった。至高の艶としなやかさを兼ね備えた彼の髪は、事実、如何なる宝石よりも稀有と言えただろう。
たっぷりと、かなり必要以上の時間をかけて御髪を洗い終えたメリェは、名残を惜しみながらも、それに湯を浴びせて別れを告げた。再会の時を切に祈りながら。
「お待たせいたしました。どうぞ、湯船にお入りくださいませ」
促されて立ち上がり、クルァシンはゆっくりと湯のなかに身体を沈めていった。温もりが全身に染み渡り、馨しい香りが幾重にも鼻腔を埋め尽くした。彼はまったく忘我の心持ちで溜め息をついた。皇室御用達の触れ込みも伊達ではない。
が、ふと、湯船の外で立ち尽くす侍女の姿が視界に入って、クルァシンは目を逸らしながら声をかけた。
「……お前も入ればいいだろう」
「と、とんでもございません! 導神さまと湯船を共にするなど、畏れ多くて……」