小さな身体を震わせて、少女は神への畏怖を露わにする。その様子を眺めながら、導神はふと真顔になって溜め息をつく。
「畏れ多くて、か……。どうだろうな。畏れ敬うに足りぬ神というのも、この世にはあるが」
「……え?」
唐突な独白にメリェが言葉を失う。クルァシンは失言を悔やむふうに首を振った。
「……と、とにかく、そこに立っていられるほうが、俺には落ち着かないのだ。頼むから入れ」
「は、はい……そう仰られるなら……」
奇妙に上ずった声で返答すると、メリェは静々と細い身体を湯のなかに沈めていった。そのままクルァシンの真横まで来ると、身を寄せてちょこんと座る。
いや、隣に来いとまでは言っていないのだが──狼狽しかけたクルァシンを知ってか知らずか、メリェが震える声で呟く。
「ク、クルァシン様……」
「なんだ?」
「わ、わわ、わたしはその……………生娘で、ございます」
口から心臓を吐き出しかけたクルァシンに、メリェはさらに身体を寄せて、畳み掛けた。
「誠心誠意ご奉仕いたしますから、どうか、その、少しでも優しく……」
「待て、待て、待て──ッ!」
脱兎の速度で密着を解いたクルァシンが、いよいよ威厳をかなぐり捨てて叫んだ。
「こちらにそういうつもりはないし、第一、そういう場所でもないだろう、湯殿は!」
有角の侍女はきょとんとして、首を傾げた。
「……ですが、わたしたちの祖神ユルフィネクは、沸き上がる鉱泉のなかで女神ナクロと交わり、丈夫な子を多くもうけたと聞いております。それに倣って、前皇ギォロラ様も、それこそ毎晩のようにここで……」
「こ、この暑いなかでよくもまた……ではなくて!」
余計な想像に及ぼうとした思考を断ち切り、「風紀が乱れすぎだ!」とクルァシンは心のなかで絶叫した。前皇とはいえ、やりたい放題にも程がある。存命だったなら頰を一発張ってやるものを──彼は心底口惜しかった。
「と、とにかく、俺はもう上がらせてもらう! いい湯だった!」
今度こそ取り合わず、クルァシンは足早に湯殿を出ていく。その背中に、メリェが慌てて追い縋った。
「……む?」
ふとその時、クルァシンが動きを止めた。目を閉ざして凜然と佇む彼の姿は、並々ならぬ緊張を帯びていた。
*
とっぷりと日も暮れ、七つの月の玲瓏な輝きだけが夜空を司る宮外では、門衛の兵士が欠伸を嚙み殺していた。怠慢からではなく、純粋な疲労によるものである。先だっての奇襲にはほぼ全ての兵士を動員したため、彼は昨晩から交替なしの不眠不休という有様なのだ。
「ふぁ……くそ、眠い……」
夜半の皇宮には訪れる者も絶えて久しく、代わり映えのない風景と睨めっこを続ける任務は、否が応にも兵士の眠気を誘った。かくん、と首が落ちかけては目を覚ます、という行程を絡繰人形のごとく反復していた門衛は、しかし、
「───ぁ?」
首筋を軽く叩かれる違和感によって、それでようやく眠りの淵に没することを許された。
「──オド、出てこい。兵はあらかた宿に帰ったようだ」
失神した兵の身体を受け止め、音もなく地に横たえながら、いつの間にか門衛の背後に佇んでいた黒衣の男が呟いた。顔の下半分を布で覆ってあり、その相貌は窺い知れない。
「お、おぉ、わかっただよ、イドの兄貴」
色濃い闇のなかから、ぬらりとひょろ長い影が姿を現した。先の影と黒衣を同じくしながらも、手足が胴体とアンバランスなまでに長い。背中には鉄棍を負っており、それも成人した男の背丈ほどには長大なのだが、持ち主との対比からどうしても実寸を見誤る。また何より奇妙なのは、二人の額に一角はなく、背中を覆う衣服にも翼の膨らみは見られない、その点だった。
「ここ、今回のあぁ相手は、どどどんな奴だかな、兄貴」
「さてな。いずれにしてもこの距離だ。もう勘づかれていると思っていい」
言いつつ、イドと呼ばれたほうの男は気絶させた門衛から衣服を剝ぎ取り始めた。速やかにそれを着込むや、緊張した面持ちで頷き合うと、二人の姿は一瞬のうちに夜闇へと紛れた。後にはだらしなく失神した門衛と、それを白々と照らす七ツ月だけが残されていた。
「セレィ皇子……もうお休みになってはいかがですか」
クルァシンが去って以後、玉座で黙々と地図と睨めっこを続けていたセレィに、見かねた侍女が声をかけた。
「そう気にせずともよい。お前たちも休め」
「そういうわけにはまいりません……」
侍女の声にも元気がなかった。似たようなやり取りを三度ほど繰り返しているからだ。片や一国の主として常に最善を尽くさんと、片や進軍を控えた将が疲れを残しては本末転倒だと、彼女らはそれぞれの義務感を持ってその場に硬直していた。
そうして侍女のひとりが、いざ四度目の進言を繰り出そうとしたその時、扉が激しく叩かれた。室内を緊張が駆け巡り、セレィはすぐさま立ち上がって声を張り上げた。
「何事か!」
「皇よ! 危急の報告がございます!」
セレィは訝しげに目を細めた。意味ありげに一拍置くと、緊張を含んだ声で言った。
「……許す。入れ」
許しを得た途端、弾けるように扉が開き、その隙間から一条の風のごとく兵士が駆け込んできた。室内にいた侍女たちは、その無作法を窘めようとこぞって口を開きかけたが、そこでぎょっと目を見開いた。視界の端で、彼女らの君主セレィは、兵士が入室するなり立ち上がって抜刀していたのである。
鋼のかち合う音が二度重なり、三度目はなお大きく響き渡った。投擲された小刀をそれぞれ剣の一閃で叩き落とし、さらには兵に扮して突進してきた凶手の短刀を、セレィは目前で遮ってのけた。
「くっ……!」
殺意と戦意がぶつかり合い、ぎしぎしと音を立てて鍔迫り合う。──女の身と侮るなかれ。皇子として育ってきたセレィはロルゴ流一刀術の目録を有し、その技量はたしなみを超える領域まで練り上げられている。
交差する刃の向こうで、刺客の両眼が険しく眇められる。
「……なぜ分かった?」
小さく鼻を鳴らし、愚問の極みとでも言わんばかりにセレィは答えた。
「常日頃この宮中にある者で、私を皇と呼ぶ者はない。さりとて皇女とも呼ばぬ。兵と臣下たちには、私を皇子と呼ばせているのだ。皇女として育てられることなく、また軒並み散っていった兄たちに連ねて、皇を名乗るだけの武功も未だ持ち合わせぬのでな!」
「……なるほど。得心がいった」
刺客がぼそりと呟いた途端、セレィの身体が大きく後ろに揺らいだ。
「──なッ!?」
驚愕することさえ充分ではなかった。膂力の込もった刃を押し込まれるや、そのまま足で膝裏をすくわれたのだ。息をするような自然さで行使された柔の技に、セレィは応ずる余地もなく転倒してしまう。
「……恨め。先住民」
馬乗りの状態からただ二言を投げつけて、凶手はその刃をセレィの喉元に滑らせた。彼女は呆然と天井を仰いだまま、為す術もなく一秒後の絶命を受け入れようとして──
「お門が違うぞ!」
逞しい左脚がセレィの真上を豪と過ぎ去り、その餌食となる寸前で凶手は真後ろに飛び退っていた。間一髪でセレィの窮地を救い、その前に文字通りの守護神となって立ち塞がったのは、この度もやはり、紅と翠の色彩も鮮やかな導神クルァシンであった。
「すまん、一寸遅れた。怪我はないか?」
「見くびるな。この私が凶手ごときに不覚を取るとでも思うたか」
「……その負けん気は評価する。が、あれは俺のお客さんでな。お前が考えるほど容易い相手ではないぞ」