「それが発展界の技術だ。この世界の文明程度では、まだ妖しの術としか認識できないだろうがな」
「な、ななな……!」
「落ち着け。それから、手の中のものを、もう一度よく見てみろ」
驚きのあまり目を固く閉ざしていたセレィが、恐る恐る瞼を開けてみると、どうやら放電は収まっている。堪らず安堵の息をついたが、手の中でぼろぼろに崩れたそれを認めた瞬間、彼女はもう一度目を瞠った。
「それが『意味性の崩壊』だ。発展界とエナ・ガゼでは、そもそも科学技術の前提となるべき物理法則からして異なっている。当然のように、発展界の器物はここではその本来の機能を保てない。それはモノが人間の場合でも同じだ」
「……よく分からんが……他の世界の者がこの世界に来たならば、すぐにでも死んでしまうと、そういうことか? たった今朽ち果てた、この隠剣のように」
「概ねその通りだ。より正確に説明するならば、大きな世界の中に入り込んだ小さな世界は、前者によってことごとく塗りつぶされる。この場合の大きな世界とはエナ・ガゼで、小さな世界とはその隠剣だな。諸法則が嫌うのは何よりもその矛盾という真理だ」
「では、なぜ先の曲者どもは無事でいたのだ? それに、そなたも」
「その理由はそれぞれに違う。まずヴェル・グルンの連中は、発展界の技術を用い、『意味性の崩壊』を代替物によって前払いしている。この原理の説明はさすがに省くが、要するに、関所の役人に法外な賄賂を摑ませることで見逃してもらっているようなものだと思えばいい。
そして俺の場合は、そういうものだからとしか言いようがない。俺の故郷には神を生み出すだけの認識範囲の下地があり、俺には神となるための素養があった。いずれの世界にも例外なく存在する『神』という概念がその受け皿となった。俺は個にして単独で意味性を保ちうるひとつの小世界。それを『神』と、あるいは『越界者』と──より詩的に『形而上に住まう者』と、発展界の人間は呼んでいるんだ」
説明を終えたクルァシンの目の前で、セレィは唸りながら頭を抱えた。
「……ほとんど分からん」
「今すぐに理解する必要はない。何事にも順序というものがある」
苦笑混じりに言ったクルァシンを、セレィは負けん気の強い眼できっと睨みつける。
「もしかして今、私を馬鹿にしたか?」
「していないよ。この世界では、これから何百年もの歳月のなかで、何百人もの天才たちが、自然哲学の大樹を育んでいくんだろう。それは他の世界とはまったく異なった展開を見せるかもしれない、愛すべき未知の可能性そのものだ。ひょっとしたらもう、エナ・ガゼのソクラテスはどこかに生まれているのかしれないがな」
言いながら、クルァシンは心中で自嘲的な諧謔を覚えた。──なんという身勝手な期待だろうか。発展界では、そうした何百人もの天才が連なった果ての結論こそが、今まさにこの世界を襲おうとしている、この侵略だったというのに。
「まぁ、何にせよ、今のは大変不本意ながら俺が連れてきた敵だ。今後も色々と物騒なことを企んでくるだろうが、適当にあしらって引き取っていただく。奴らの最終的な狙いは俺を滅すことだが、それが容易でない場合、俺の邪魔をすることが主な仕事になるからな」
「頼もしいことだ。『一寸遅れた』などということが、今後はなければだが」
「あれは風呂なんかを無理に勧めるからだ! 知らんだろうがな、ここ一月というもの、俺は目につかないところからずっとお前を守っていたんだぞ!」
ああ、風呂といえばそういえば!──と、クルァシンは眉根を寄せた顔でセレィを見据えた。色濃い不満がそこに漂っているのを見て取り、セレィはわざとらしく首を傾げる。
「なんだ。ここの湯殿に、何ぞ不満があったとでも?」
「湯殿に不満はないとも! 問題はあの侍女だ! なぜ風呂に入るのに、いちいち女を侍らせねばならない!?」
「メリェは私の乳姉妹だ。皇族でこそないが、血筋の卑しからざる娘だぞ。器量もいいし、乙女が持つべき羞恥と気品とを備えている。肌など、さながら剝きたてのゆで卵だ。そなたも男児ならば、犬のようにむしゃぶりつかんのはどういうことか」
「犬!? 今お前、畏れ多くも神の動作を形容するのに『犬のように』とかいう表現を使ったのか!? いや、この際そんなことはどうでもいい──俺が言いたいのは! この奄倉信に対しては、日毎の供物も月毎の生贄も一切不要だということだ!」
「おや、これは滑稽。どうやら導神どのは不能と見える」
「今のはもはや表現がどうとかいう問題ではないな! はっきり侮辱したな!」
「よろしい、供物と生贄に関しては考えておこう。しかし、私としては神を迎えるのに、入浴は皇宮の大湯殿、世話係にメリェ、これ以上の歓待はないと考えている。したがって、この二つだけはどうしても容れてもらいたい」
「……風呂はいい。だが、あの娘は……」
「なぜ拒む? あれは紛れもない処女。胤蒔きには最良の土だ」
セレィの口から軽く放たれた一言に、クルァシンはついに膝を折って崩れ落ちた。
*
夜明けの大気はかすかに潮の香を含んでいた。皇都ビンナスクは海岸からほど遠い位置にあるが、季節の風が、そこに住まう人々に己が土地の沿岸国たる事実を思い出させるかのように、勢いよく吹きすさぶ。
「形の上では追い風だな。天運まで持ってこれたのは僥倖だ」
風を受けた下げ髪を緩やかにたなびかせ、クルァシンは呟いた。その背後には、幾百もの騎馬兵が盤上の駒のごとく壮観に立ち並び、一晩ぽっちの休眠では疲労の癒え切らぬ身でも、それぞれに気炎を上げている。体力に優れる者を選べというクルァシンの言は正しく守られたようであった。
「なるほど。しかし、神風にしては未だ慎ましいようにも。導神どの、遠慮は無用だぞ」
「いま分かった。お前が俺を導神呼ばわりするのは、ひとえに皮肉を言う時だな」
じろりと非難の視線を返され、わざとらしく肩をすくめたセレィの身体も、危なげなく馬上にある。天を衝くように聳える真白い一角は、三百ばかりの騎兵隊などよりも、むしろ万軍の先陣を切るにこそ相応しい。
「なんと、我らの期待がそのように邪推されるとは。心外であるぞ」
「そうか。邪推であればむしろ幸いなのだが」
「ともあれ、いよいよ出立だ。そなたのために選りすぐった駿馬を用意した。いささか荒馬ではあるが、神体ならば問題なく乗りこなせよう。跨るがよい」
騎馬の列を割って引いてこられた一頭の精悍な馬に、周囲の兵たちがこぞって感嘆の息を漏らした。東方の民が騎乗に用いる総毛馬の中でも、特に希少とされる白毛種である。贅肉の削げ落ちた全身を絹糸のような体毛が密に覆い、両の瞳は疾走の意志を秘めて爛々と輝いている。二本の逞しい前足は、出発を焦がれるように蹄で地表を抉っていた。
しかし、他のどの馬と比しても見劣りのしない良馬を、クルァシンは首を横に振って辞退した。怪訝な顔をするセレィらに、クルァシンは軽く身体をほぐしながら言葉を投げる。
「要らん。神の脚が馬の脚に劣る道理があるか。さぁ、進軍の法螺を吹け」
言われて、セレィの真後ろにあった騎兵が、肺腑からあらん限りの息を振り絞って陶笛を吹いた。出立の合図は瞬きの間に響き渡り、前方にあった馬から順々と走り出す。
いきなり驚嘆のどよめきが起こり、それは列の前方から後方へと徐々に伝わっていった。驚くべきことに、騎馬隊の列は、出発から一刻ほど経ってなお、己が脚で駆けるクルァシンの後を追う形をとっていたのである。
「導神どの。馬により勝る走りとは見事だが、疲れはしないのか」
「まぁ、まるきり疲れない、と言えば噓になるが。こういう見世物は兵たちにも分かりやすいだろう」
「見世物とは?」
余人に聴こえぬよう、セレィの馬にぴったりと沿い走って、クルァシンは囁いた。
「なけなしでも良いから、信頼の材料を作りたいのだ。ぽっと出てきて神などと名乗る男へ──我ながら胡散臭いことこの上ないが──皆が等しく信を置くかといえば、そんな都合のいい話はない。セレィ、お前がそうであるようにな」
「なるほど、そのような打算があったのか。私はてっきり……」
「てっきり、なんだ」
「馬に乗れぬから、無理をしているものかと思った」
途端にクルァシンが速力を上げて、セレィからさらに三馬身ほど距離を空けた。遠くなる背中へと向けて、セレィが笑い混じりの声を飛ばす。
「やや、導神どの、それは速すぎるぞ。こちらは神ならぬ人と馬の身だ。いま少し気遣われよ」
「五月蠅い! お前の皮肉を供にしては、こちらの疲れが倍になる!」
そうして、ぴったりと三馬身の距離を空けながら、神と人馬とは土煙を上げて走り続けた。彼らの一団がコーチアドへと到着したのは、翌日の夕刻を回った頃であった。