ひきこもりの弟だった 特別書き下ろし番外編


『ひきこもりの兄だった』



 静寂にも音がある。

 どこか遠くの街で鳴らした鐘の残滓みたいな、か細い音。

 その音が身体の;内側から響いてくるのか、外側から響いてくるのかはわからない。

 ただ、その音は澄んでいて、聞いていると落ち着いて、同時にうんと悲しくなる。

 意識しないと聞こえない。でも、意識すればするほどに際限なく増幅し、耳の奥を圧して頭の芯まで押し迫ってくる。

 ――これが聞こえるのは、俺だけだろうか。

 母さんも啓太も、家の中の空気も、しんと寝静まった夜。

 パソコンのディスプレイから発する、無機質な光。

 カタ、カタ。カタ、カタ。

 訊ねる相手はいないから、ネットで検索する。

 『静寂 お』まで入力し、予測検索で『静寂 音』が出てきて、俺だけに聞こえている音ではないことがわかる。

 今この瞬間にも、どこかで誰かが同じ音を聞いているだろうか。

 目を瞑り、耳を澄ませて細い音を辿っていく。

 蝋燭の火先みたいにちろちろと細かく揺らいでいた音は、徐々に安定し、やがて同質の低高音が重なって響き出した。頭の中で支配的に、どこまでも際限なく膨れていく――。

 コホ、

 隣の部屋で、啓太が咳をした。

 それで俺の中で鳴り響いていた音が、ふつ、と途切れた。


 ネットをしていたら、夜が白んできた。

 夜の底に沈んでいた生物の気配が、俄かに空気中に舞い上がる。

 鳥が鳴きはじめ、締め切ったカーテンの端に朝陽がぼうっと宿り、車の往来音が増える。

 ……また、朝がきた。

 光が、生物の気配が、透明な液体みたいにひたひたと冷たく胸に迫ってくる。

 隣の部屋で床が軋む。啓太が目覚めかけている。

 俺は部屋を出て誰もいない台所のテーブルに着き、母さんと啓太を待った。

 二人にとっての朝ご飯は、昼夜逆転している俺にとっての晩ご飯だ。

 先に啓太がやってきた。

「おはよう」

 啓太は俺を無視し、マーガリンを食パンに塗りだした。

「啓太、今日は高校の卒業式だっけ?」

 無視。

「引っ越しは明後日だよな。なあ、いつ出ていくんだ?」

 無視。

「……清々するわ。お前がいなくなるの。できるだけ早く出て行ってくれよ」

 啓太は食パンをコップの水で流し込むようにさっさと平らげ、五分もかからずに無言で腰をあげた。

 少しして入れ替わりに、母さんがやってくる。

「おはよう」

「おはよう」

「今日は啓太の卒業式ね」

 薄くジャムを塗った食パンを食べながら、母さんが感慨深げに言う。

「そうだね」

「あっという間よねぇ。啓太が、もう高校終わっちゃうんだから。近頃は――」

 母さんが話し続ける。俺は話の切れ目を探しながら、時々相槌を打った。

 そして、話が途切れたタイミングで、できるだけさりげなく聞いた。

「明後日、啓太、いつ引っ越すのか知ってる?」

「特に決めてないみたい。……それより弘樹、食欲ないの?」

 言われて、俺は二、三口齧っただけの食パンに目を落した。

「具合でも悪い?」

「いや……」

 具合が悪いわけではない。でもなんだか最近、ちっとも食べたいと思わない。

 母さんがやや躊躇しながら、立ち上がる。

「――じゃあ、お母さん、もう準備とかあるから行くけど。ダメよ、ちゃんと食べなきゃ」

 そして、一人、テーブルに取り残された。

 俺は自分の歯型のついた食パンと対峙し、続きを一口かじった。

 ――そもそも、どうして俺は食べなければいけないのだろう……。

 やたらとボソボソする口の中のものを半ば無理矢理飲み、唇を舐め、また一口かじる。

 いつの間にか、トムが緩く尻尾を振りながら、足元にすり寄ってきている。俺はその頭のやわらかい毛並みを撫でた。

 なんとか一枚を食べ終える頃には、母さんも啓太もとっくに出掛けていた。

 明るい空っぽな家。

 夕飯のための三人分の米を炊飯器にセットしてから自室に戻り、敷きっぱなしのクタクタの布団の上で横になる。

 最近消化が悪い気がする。まるで食パンが胃の中で布か何かになってしまったみたいな異物感が気持ち悪い。

 それでもなんとか、眠りに就いた。