ひきこもりの弟だった 特別書き下ろし番外編


   ◆


 夕方、俺は目が覚めた。

 台所で物音がする。

 覗くと、母さんがスーパーの袋から惣菜を取り出しているところだった。今日はミートボールとマカロニサラダ。

 母さんと啓太にとっての晩ご飯が、俺にとっての朝ご飯だ。

「母さん、おかえり」

 声を掛けると、母さんが俺に気付いて目を上げた。

「ただいま」

「卒業式はどうだった?」

「よかったわよ。担任の先生が泣いちゃってたわ」

「へえ。そうなんだ」

「啓太はずっと、不機嫌そうだったけど」

「はは。想像できる」

 あの顔で卒業式に出たのか。

 俺が啓太のいつもの仏頂面を思い浮かべて苦笑していると、母さんはミートボールを皿に移し、電子レンジで温め始めた。

「……啓太は?」

「今日は同級生と外で食べてくるって」

 やがて、チン、と音がして、ミートボールの甘酸っぱい匂いが台所に充満した。

 俺は二人分の茶碗に米をよそい、テーブルに並べた。

「弘樹、そんなちょっとでいいの?」

 ミートボールの皿を運びながら、母さんが俺の茶碗を見て目を丸くする。

「最近、食欲なくて」

「本当に具合悪いんじゃないでしょうね」

「食欲がないだけだから」

 俺は少し迷い、マカロニサラダを何掬いかご飯にかけ、食べ始めた。

 しばらくして、

「お肉も食べなさい」

 母さんがミートボールの皿を俺に近づけた。

「俺は、いいよ」

 押し返す。

 最近、考えてしまう。

 肉は元々は生きていた動物で、人間が食べるために殺されたもので。いや、肉だけじゃない。野菜も、穀物も、何もかも、元は生きていたものだ。

 毎日毎日、俺なんかのために、たくさんの命が失われている。

 そして俺の命は、他の命を奪ってまで保たれるに値するものだろうか。

「少しだけでもいいから」

 母さんがまた、皿を差し出してくる。

 ミートボールを見ていたら、急に胸が悪くなってきた。

「母さん。俺、もう肉はダメかも……」

「? 好きだったじゃない」

「いや、うん。でも……」

 なんと言えばいいのだろう。

 その時、啓太が帰ってきた。

「おかえり」

 啓太は応えない。

 俺たちには目もくれず、黙って流しで手を洗う。その後ろ姿に、母さんが目を眇めて硬い声を投げる。

「啓太……啓太! こっち向きなさい」

 手を拭きながら、啓太が億劫そうに振り返った。

 母さんが言う。

「何か一言無いの?」

「……何か、って」

「三年間高校に通わせてくれてありがとう、とか」

 啓太は僅かに顔を引き攣らせ、吐き棄てるように言った。

「どうも」

「どうも、じゃなくて、ありがとう、でしょ!外でもそんな人を馬鹿にした態度を取ってるんじゃないでしょうね!? 挨拶くらいちゃんとしなさい。常識がないと、この先、通用しないんだからね。……そうだ、バイトの人たちにはちゃんと挨拶したんでしょうね」

 うっせーな、と啓太が口の中で呟く。

「何?」

 聞こえなかったのか、母さんが険しい顔で聞き返す。

「バイト先へは明日挨拶に行く予定だから」

「お母さんも行こうかしら」

 啓太が顔を歪めた。

「卒業式だけで、本当に勘弁して」

 この数日間、母さんと啓太は揉めに揉めていた。母さんが卒業式に出席するかしないかで。

「勘弁って何なのよ! せっかく行ってあげたのに!」

「だから、来なくていいって言っただろう」

 そして、その様子をじっと見ていた俺を、啓太は一瞬、ゴミでも見るような目で睨み付けた。睨み返す間もなく、台所を出て行ってしまう。

 ふう、と母さんが溜息を吐いた。

「あんなんで大丈夫かしら、あの子」

「……さあ」


 ご飯を食べ終えてほどなくして気持ち悪くなり、俺はトイレに駆け込んだ。

 トイレから出ると、着替えを持って風呂場へと向かう啓太とかち合った。

「明後日は――」

 言葉を終える間もなく、啓太がすっと通り過ぎる。その背中に声を掛ける。

「早めに出ていけよ」

 啓太、無視。

 口を漱ぎ、ついでに顔を洗い、部屋に戻って、パソコンを立ち上げる。

 部屋に戻って一人になると、少しほっとする。

 俺は最近ハマっているオンラインゲームを始めた。

 しばらくすると、啓太が風呂から戻ってきた。荷造りだろうか。隣の部屋で、がさごそと音がする。それを聞きながら、俺は徐々にゲームに集中していった。

 育てているキャラのレベルが上がり、現在の形態の閾値を超えたのか、一段階進化した。

「おっしゃ」

 思わず声が出る。

 そして、いつの間にか、隣の部屋の音が止まっていることに気が付いた。

 時計を見る。

 午前一時。

 啓太は眠っている。母さんも眠っていて、この家で起きているのは、俺一人きりだ。

 二人だけじゃない。街中が眠っている。

 静寂の音がする。

 昼間にもそれは存在しているが、たくさんの音に紛れてわかりにくい。

 でも、夜は顕著だ。他の音が眠りの底に沈む中で、その音は宙にぽっかりと浮かび続け、どんどん澄んで冴えていく。

 俺は目を瞑って、座椅子にもたれかかった。

 しばらくそうしていた。

 ――明後日、いや、もう明日か。

 啓太が家を出て行く。大学に行く。

 俺は目を開けた。

 誰が見ているわけでもない。でもなんとなく後ろめたくて、俺はできるだけ音を立てずに隣県の、啓太の通う大学名を検索した。

 キャンパスの写真、受験生や在学生、保護者向けのページがあって、大学の歴史はどうで、卒業生の進路はどうで……。

 パソコンを閉じ、再び座椅子にもたれかかる。目を閉じる。

 インターネットは万能ではない。

 本当に知りたいことの多くは、たぶんネット上には存在しない。

 今、壁の向こうで眠っている。

 ……啓太、彼女とか、いるんだろうか。

 夜が白んでいく。


 そして、いつも通りの朝がくる。

 台所で啓太に無視され、母さんの仕事の愚痴を聞き、二人を送り出す。

 明日で最後の、いつも通りの朝。

 夕飯用に、三人分の米を研ぐ。

 春が近い不安定な気候のせいだろうか。胸がすかすかするのに、腹の中で何か膨れているような、身体の中にちぐはぐな圧迫感がある。

 それとも俺の身体は、どうかしてしまったのだろうか。

 炊飯器をセットして、いつも通りに、眠る。