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「啓太、また!?」
うわあああああああん
「いい加減にして!」
朝。
啓太の泣き声と、母さんの怒鳴り声で目が覚めた。おしっこの匂いで、啓太がお漏らしをしたのだとわかる。
毎日、毎日、毎朝、毎晩、この家は、母さんの怒鳴り声と、啓太の泣き声で軋んでいる。
怒りに顔を歪めて叫ぶ母さんはすごく怖いけれど、きっと本当の本当は、悲しくて、泣きそうで。思い通りにならない啓太に、仕事に、難しいことに、色んなことに疲れて、怒ってしまうのだと思う。
啓太も、まだ自分のことが何もできないのに。仕方のないことでたくさん怒られて、どんなに辛いだろう。
二人とも、悪くない。二人とも悪くない。
だから泣かないでほしい。
俺は身体を起こす。
「母さん、俺がやるから。啓太を怒らないで」
おねしょで濡れた布団を掴む。
「啓太、だいじょうぶだ」
俺が母さんを、お前を、守るから。
そして、布団を日向に干し、朝食を食べてから、学校に行った。
休み時間。
みんな、机の間を駆けまわったり、声を上げてわーわー騒いでいる。
俺はそういうのが好きじゃない。静かにしているのが好きだ。
でも、広い教室の端っこでぽつんと一人でいると、すごく皆が遠く感じる。何も悪いことはしていないのに、ひどく居心地が悪い。
ゆっくり、ゆっくりと時間が進み、やっと就業のチャイムが鳴る。
俺は足早に教室を後にし、下駄箱を開けた。
――靴が、ない。
なんで。間違えて入れてしまったのだろうか。近くの下駄箱を開ける。
と、背後で、笑い声がした。
振り向くと、反対側の下駄箱に隠れるようにして五人のクラスメイトたちがニヤニヤしながら俺を窺っていた。その中の一人が俺の靴をひらひらと見せびらかすように振った。
悪意のある十個の視線に、きゅっ、絞られた心臓が、トクトク言い出す。身体が一気に冷たくなる。腿の横で、拳を握りしめる。
「……かえせよ」
「とりかえしてみろよ」
俺が近づくと、わっと五人が散らばり、靴をパスで回し始めた。
「かえせって」
「へーい」
「パース」
あと少しで届く、というところでパスをされてしまう。
「かえせよ」
靴が放物線を描いて宙に舞い、天井にゴン、と当たって床に叩きつけられた。
手を伸ばす。先に拾われてしまう。そして昇降口の外に向かって、放り投げられる。
歯を食い縛って靴を追いながら、何故か、今朝の母さんと啓太のことが頭に浮かんだ。
母さんの悲しみも、啓太の泣き声も、どこからやってくるのかはわからない。
「ほら、こっちだ!」
でもたぶん、こういうところから生まれてくるんだろう。
人の悪意から。
わからない。でもわかる。たぶんそうだ。
「あ! コイツ泣いてるぜ!」
やめろよ。こんなことするなよ。
「泣き虫ー」
お前たちみたいなヤツが、人の気持ちを考えないヤツが、簡単に人を傷つけるから。悲しい思いをする人がいるんだ。
俺はただ、静かに暮らしたいだけなのに。
お前たちみたいなヤツがいるから。
「うわ、このクツ、くせぇ! きったねぇ!」
一人が、思いっきり遠くに靴を放り投げた。
拾おうと追いかけて、手が届く寸前に横から蹴り飛ばされる。また、遠くに転がっていく。
「かえせよ」
それはな、母さんが一生懸命働いて買ってくれた靴なんだ。
「かえせよ」
砂埃で汚れてしまった靴をできるだけきれいに払ってから、家路につく。
夕陽が赤い。民家が、道が、オレンジ色に濡れて、どんどん空気が冷たくなっていく。
「ただいま」
家に着くと、既に母さんと啓太が帰ってきていた。洗濯物を畳んでいた母さんが顔を上げる。
「おかえり。遅かったじゃない。友達と遊んでたの?」
「……うん」
短く答える。本当のことは言えない。死んでも言いたくない。
チラッと見ると、ぺたりと床に座っていた啓太が俺のことをじっと見ていた。
「啓太、ただいま」
「にいに」
啓太は満面の笑みで立ち上がり、不器用にとたとた駆け寄って来る。
母さんが畳んだ洗濯物を持って、部屋を出た。
俺は啓太の脇に手を入れてその小さな身体を抱き上げた。
啓太が声を上げて笑う。無邪気に笑っている。そのまましばらく笑っていたが、やがて、きょとんとした。その綺麗な黒目に、蛍光灯の白い光が映っている。
俺は震えそうになる唇にぐっと力を入れた。
「啓太、あのな。啓太が辛い時、悲しい時、いつも俺が傍にいるから。傍にいて、俺が啓太を守るから」
「にいに?」
「守ってやるよ」
啓太はぽかんとしている。
俺はぎゅっと啓太を抱きしめた。
「俺がお前を守るからな」