ひきこもりの弟だった 特別書き下ろし番外編


   ◆


 目が覚めると夕方で。

 まだ胃の中に食パンが残っているような気がする。

 しばらく布団の中でぼうっとしていた。

 隣の部屋は、しんとしている。

 俺は部屋を出た。

 まだ誰も帰っていない。

 居間のテレビを点ける。

 空っぽの居間に、バラエティの笑いが弾ける。

 チャンネルを変える。

 ニュース番組。桜の開花予想と、中学生の自殺。

 チャンネルを変える。

 通販。どんな汚れもきれいに落す洗剤。

 チャンネルを変える。

 母さんが、仕事から帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま。もう夕飯にしましょう」

「……啓太は?」

「今日で最後のバイトだって」

 そうだった。昨日言っていた。

 ファミレスのバイトがある日は、啓太はそこで食べてきてしまう。

 母さんがスーパーの袋から取り出したコロッケをレンジで温め、春雨サラダの蓋を開ける。

 俺は炊飯器を開け、朝用意した三人分の米を二つの茶碗によそった。大分余った。

 ソースを垂らしたコロッケを端から削るように、少しずつ食べ進めていく。

「……そんなに食欲ないなら、病院に行く?」

 どっちの病院を言っているのだろう。

 普通の病院だろうか。精神病院だろうか。

「行かない」

 どちらにしても、行きたくない。


 部屋に戻る。

 少し迷って、窓を開ける。

 冬と春の入り混じった風が、部屋を充たす。

 月が出ている。

 静かな夜道に、靴音が響く。

 見ると、同い年か少し上くらいの、スーツを着たサラリーマンだった。

 俺は窓を閉め、パソコンの前に座った。

 動画サイトで、好きなバンドのライブを見る。

 音が空回りして、俺の中まで届いてこない。

 イヤホンを外す。

 妙にじっとり、のろのろと時間が進む。

 啓太が、帰ってきた。


 隣でがさがさ物音が聞こえる。

 この音を聞くのも、今夜で最後だ。

 そう思うと、上から押されたみたいに、ぐっと胸が歪んだ。

 ……正直、啓太が出て行ってくれることにほっとしている。

 啓太と接していると、すごく疲れる。

 自分一人で育ってきたような顔をして。

 見限った相手のことは人間扱いしない。

 自分勝手で傲慢な、すごく嫌な奴だと思う。

 何様だよ。

 何をしても、何をやっても、無視、無視、無視、無視、無視。

 俺がお前に何かしたか。

 どうして人に対してそういう態度が取れる。

 お前みたいな奴がいるから、世の中が、生き辛くなってるんだ。

 午前零時。

 啓太が寝た。母さんも寝た。

 静かな夜。

 静寂の音がする。

 音が、内側で糸を引いて、どんどん膨れて、頭の中が、ひっちゃかめっちゃかになる。


 啓太が、寝返りを打つ微かな音がした。


 白く光る、パソコンの画面。


 はっとする。


 何かをしたいと思う。


 でも、何をしていいかわからない。


 じりじりと時間が進む。


 夜が白む。


 ……また、朝がくる。


 啓太がごそごそと起き出して、部屋を出る。


 トントン、とドアが叩かれる。

「弘樹、朝ごはん食べないの?」

 母さんの声。

「……ヒロくん?」

「もう少ししたら、食べに行く」

 午前八時。

 啓太が部屋に戻って来る。

 午前九時。

 ごそごそと、啓太の部屋で音がする。

 午前十時。

 じりじりと、時間が進む。

 午前十一時。

 ぎぃ、と啓太が部屋を出る音がした。

 ずん、と心臓が強く収縮した。

 どうする。

 立ち上がり、ドアの前に立ち尽くす。

 ドアノブに掛けた手が、動かない。

「ヒロくーん、ヒロくーん、啓太の旅立ちよ! 一緒に見送りましょう!」

 母さんが呼んでいる。

 母さん、お願いだ。

 もう一声。

 もう一声で、俺は動ける。

 俺は啓太のことなんてどうでもよくて、けれど、母さんがしつこいから仕方なく――。

 そういう、大義が欲しい。

「いや、いいって」

 心底嫌そうな、啓太の声がした。

 それが、それこそナイフみたいに冷たく胸に刺さった。

 俺は音を立てないように、ドアを細く開けた。

 母さんが車を準備する、というようなことを言って、先に玄関を出たところだった。

 お別れが解っているのだろうか。トムが、ひんひんと鼻を鳴らしながら啓太にすり寄る。

 啓太が静かにトムを撫でている。

 玄関までの数メートルの距離が、信じられない程遠く感じる。

 啓太は知ってはいないだろう。

 お前、知らないだろう。

 覚えていないだろう。

 お前のハイハイを初めて見たのは俺なんだ。母さんじゃない。俺なんだ。あの時、啓太は俺に向かって懸命に這ってきたんだ。それでな、お前は笑ってた。あと、歯が生えてきた時も、俺が一番に見つけた。あとな、字を教えたのも俺だ。

 お前の初めてに、いつも一番に気付いたのは全部、俺だ。母さんじゃない。俺だ。

 なあ、啓太。知らないだろう。お前の成長を一番近くで見てきたのは、俺なんだ。

 だから、どんなに嫌がられても。俺はお前の兄貴だから。だから、やっぱり、お前がこの家を出て行くのなら、俺が見送る責任があるんだ。

 なんとか部屋を出る。そして、

「うわぁ、もしかして愛犬との感動のお別れの最中かな?」

 自分の口から出てきた言葉に愕然とする。

 啓太がこちらを見た。

 俺はニヤッと笑った。

 違うんだ。

 こんなことを言いたいんじゃなくて。

 やめろよ。その、ゴミを見るような目。

 だって、他にどうしたらいいんだよ。

 ――お前、俺のこと嫌いだろう。

 どんな風に接したって、お前は嫌そうにするじゃないか。お前、俺のこと、全否定しているだろう。

 でも、お前にだけは、弱さは見せられないから。お前の前で傷付いた顔なんて絶対にできないから。笑うしかないんだ。

 お前が俺をどんなに軽蔑しても、へらへら笑っているしかないんだ。

 啓太は無言で靴を履き、背筋を伸ばすと、仕上げでもするように無言でトムの頭をポンポン、と叩いて床から荷物の詰まった大きな鞄を持ち上げた。

 その後ろ姿を見て、啓太の背が随分と高くなったことに気付いた。

 啓太が玄関のドアノブに手を掛ける。

 行ってしまう。本当に行ってしまう。

 そのことが、急激に実感となって胸に迫って来た。

 嘘だ。嘘みたいだ。

 俺の、弟が。あんなに小さかった、毎日顔を突き合わせていた啓太が。遠くに。この家を出て行ってしまう。

 俺を必要としなくなった弟が。

 小さい頃のお前は、泣き虫だった。俺がいないとダメだったんだ。四六時中俺の後をくっついてきていたのに。

「啓太」

 無視。

 もう、ゴミを見るような目すらも向けてくれない。

 俺は誰よりも、お前のことを理解していたはずだった。

 でも、お前はどんどん変わっていくから。

 今はもう、どうやってお前に接したらいいのか解らないんだ。

 ずっと解ってた。お前が俺を嫌っていることも、俺を避けていることも。

 だから余計、どうしていいか解らなかった。

 ぎい、とドアが開く。

 本当に行ってしまう。

「がんばれ」

 振り返った啓太は、きょとん、としていた。

 遅れて、俺の耳に自分の言葉が届いた。

 一瞬、全てが溶け去って、俺たちは兄弟として見つめ合った。

 啓太の顔には確かに昔の面影があった。

 だから、言えた。

「啓太、がんばれ」

 お前が出て行く先が、どういう場所かはわからないけれど。

 がんばれ。

「ああ」

 啓太は短く頷くと、ドアを開け、今度こそ行ってしまった。

 車の音が聞こえなくなるまで見送る。

 ……言えた。

 俺はその場で、しゃがみ込んだ。


 少し休んで、ふらふらと部屋に戻る。

 いつもならもうとっくに眠っている時間だ。

 身体がしんどい。

 クタクタの布団に入る。

 昼間なのに、静寂の音がする。

 隣の部屋、啓太の部屋からはもう、なんの音もしない。

 と、思ったら、トン、と音がした。

 忘れ物でも取りに来たのか?

 布団を跳ね上げ、ドアを開ける。

 そこにいたのは、トムだった。

 トムが啓太の部屋をひっかいている。その尻尾が、くたりと萎れている。

「そうか、トム。お前、寂しいのか」

 クン、とトムが鼻を鳴らした。

「ずっと、啓太と一緒にいたもんな」

 俺はトムをぎゅっと抱きしめた。

「……置いていかれちゃったな」


 トムが、ぺろ、と俺の頬を舐めた。