第一章 機械仕掛けの相棒 1
〈ただいまの気温、マイナス七度。服装指数A、防寒対策は必須です〉
午前八時を回ったというのに、空には淡い星がまたたいていた。飛行機の中で見たサイコホラー映画が、まだ
ロータリーへと流れ込んでくる車は、一様にヘッドライトを跳ね上げていた。キリル文字を掲げたバスが次々と人を吐き出しては、飽きもせず吸い込んでいく。乗降客の幾人かと目が合う。彼らの氏名や職業などのパーソナルデータが、視界にポップアップ表示される──ユア・フォルマが普及して以来、一般市民はさておき、個人情報へのアクセス権限を持つ職種の人間にとって、相手が何者かは目を合わせれば分かるようになった。氏名、生年月日、住所、職業……望まずとも全て見えてしまう。
それにしても。
約束の時間から十五分が過ぎたが、ベンノは
仕方ないな。エチカはがさがさになった唇を
〈ベンノ・クレーマンに音声電話〉
思考をテキストに置き換えて、頭の中のユア・フォルマに指示を出す。つけっぱなしにしている片耳のイヤホンが、間抜けな呼び出し音を響かせる。どうせ出ないだろうなと思った。ベンノは電話
結論から言って、今日は駄目だった。タイムアウトにより、発信が自動的に切れる。直後、彼からのメッセージを受信──視界の片隅にメッセウィンドウが開く。
〈こっちはまだ入院中だ。俺が昨日のうちに現地入りしたというのは、トトキ課長の
〈課長の指示で今日まで黙っていたが、俺たちのパートナー関係は解消だ〉
やっぱりか。解消自体は予想していたことだし、いつものことだから落胆も失望もない。むしろ問題なのは、トトキ課長が今日までそれを隠していたことだ。何となく嫌な予感がした。
〈俺の代わりに、そっちの支局が空港に迎えを寄越す。ロータリーで待ってろ〉
〈了解。ところで、わたしの新しい補助官について何か聞いてる?〉
エチカはそう返信したが、ベンノはもう答えない。腹立たしく思いたいところだが、こちらは彼を病院に押し込めた身だ。もともと好かれていたわけではないし、当然の対応だった。
しかし、新しいパートナーか。
気乗りがしない。何せ、誰がやってきたって長続きしないのだ。一般的な電索官は、年単位で同じ補助官と仕事をするが、エチカの場合は長くて一ヶ月程度だった。情報処理能力が飛び抜けて高いがために、誰とも釣り合わず、毎回補助官を故障させてしまう。
憂鬱な気分で、電子
迎えが現れたのは、実に三十分近く
ほとんど凍えかけていたエチカの前に、一台のSUVが
「おはようございます、ヒエダ電索官ですね?」
運転席のウィンドウが下がり、コーカソイドの若い男性が顔を出す。だが、パーソナルデータが表示されない。それだけでエチカは
「お待たせしてしまいましたか?」運転手は、支局のアミクスに支給される身分証明用バッジを見せてきた。「待ち合わせは、午前九時だとうかがっていたのですが……」
「こっちは八時だと聞いてた」エチカに時間を伝えてきたのはベンノなので、彼の嫌がらせだ。いつものことである。「とにかく乗せて」
アミクスがドアロックを解除するや
「ああすみません、寒いほうが処理速度が上がるもので」
アミクスが悠長な仕草で、暖房のスイッチを入れる──エチカの知識が正しければ、これは暑さや寒さを感じないはずだった。単に人間に似せられた機械として、『人間らしく』振る舞おうとしている。システムがそうさせるのだ。
「でもこの寒さでわたしが風邪をひいたら、それはきみの敬愛規律に反するはずだ」
「
人間を尊敬し、人間の命令を素直に聞き、人間を絶対に攻撃しない──アミクスは皆、そうした〈敬愛規律〉を信念としてプログラムされている。
正直なところ、エチカはこの機械があまり好きではない。
いっそ、嫌いだった。
車は半自動運転によりゆっくりと走り出し、ロータリーを出て行く。サンクトペテルブルクの街並みは、時代錯誤な建築様式に
非表示にすることも可能だが、高額な課金が必要だ。何せ開発元であるリグシティの財源は、大部分が広告収入で賄われている。加えて、ユーザーがユア・フォルマの導入手術をほぼ無料で受けられるのも、これら広告の恩恵なのだった。
「予定では、このままユニオン・ケアセンターに向かうことになっています。本日は電索により、ウイルスの感染源の特定をおこなうのでしたね?」
「そうだ」
「事件はワシントンDCとパリに続き、これで三度目でしたか」
「それより、わたしの新しい補助官は?」
「準備を整えて待っていますよ。彼のことを詳しくお話ししましょうか?」
「いや、合流できることさえ分かればいい」
エチカはそれだけ言い、ユア・フォルマのニューストピックスを開く。これまた最適化された見出しがずらりと並ぶ──〈AI作家、文学賞最終候補に選出〉〈関東地方に大寒波〉〈ノートルダム大聖堂、年末のカウントダウンイベントを規制へ〉〈スイス、年間自殺
別に、誰が補助官になろうと興味はない。自分は目の前の仕事を片付けるだけだ。
随分前に、そうやって思考を止めることにした。あらゆる罪悪感から、心を守るために。
〈パンデミックの時代は終わった。これからは、新しい『糸』との日常を手に入れませんか?〉
最初期の宣伝広告には、そんなうたい文句が躍っていたらしい。
侵襲型複合現実デバイス〈
その形状は直径三マイクロメートルのスマートスレッドで、レーザー手術で脳に埋め込んで使用する。ユア・フォルマがあれば、健康状態のモニタリングからオンラインショッピング、SNSの更新まで、全てを頭の中で済ませられる。
三十一年前──一九九二年冬。『
パンデミック終息から久しい今日──二〇二三年。『ニューラル・セーフティ』は『ユア・フォルマ』として生まれ変わり、最新型多機能情報端末として大きく進化を遂げている。
中でも特筆すべき機能が、〈機憶〉だ。
機憶は実際の出来事とともに、その都度ユーザー自身が抱いた感情を記録する。海馬の記憶を
機憶は特に、犯罪捜査の有り様を大きく変えた。
そうした機憶に潜るのが、エチカのような電索官たちだ。
電索官は『ダイバー』とも呼ばれ、被害者や加害者のユア・フォルマに接続し、文字通り頭の中に潜って事件の鍵を探す。機憶は、ネットワークから切り離されたスタンドアロン環境で管理されるため、直接
そのため、電索官には特定の適性が必要になる。それらは主に、遺伝情報によるストレス耐性や、ユア・フォルマとの親和性によって判断されていた。脳の発達期からユア・フォルマを使用した場合、ごく
中でもエチカの能力は飛び抜けており、
つまり『天才』は褒め言葉などではなく、最上級の皮肉なのだった。