第一章 機械仕掛けの相棒 1

〈ただいまの気温、マイナス七度。服装指数A、防寒対策は必須です〉


 午前八時を回ったというのに、空には淡い星がまたたいていた。飛行機の中で見たサイコホラー映画が、まだまぶたにこびりついている──エチカは、ロシア北西にあるプルコヴォ空港のロータリーにいた。顎のラインに沿ったボブカットは日本人らしいぬれいろで、薄っぺらい体にまとったコートをはじめ、セーター、ショートパンツ、タイツ、ブーツのいずれも黒だった。からすの子が人に化けたのではないか、とされたことが何度かある。

 ロータリーへと流れ込んでくる車は、一様にヘッドライトを跳ね上げていた。キリル文字を掲げたバスが次々と人を吐き出しては、飽きもせず吸い込んでいく。乗降客の幾人かと目が合う。彼らの氏名や職業などのパーソナルデータが、視界にポップアップ表示される──ユア・フォルマが普及して以来、一般市民はさておき、個人情報へのアクセス権限を持つ職種の人間にとって、相手が何者かはようになった。氏名、生年月日、住所、職業……望まずとも全て見えてしまう。

 それにしても。

 約束の時間から十五分が過ぎたが、ベンノはあらわれない。

 仕方ないな。エチカはがさがさになった唇をめて、電話をかけることにした。


〈ベンノ・クレーマンに音声電話〉


 思考をテキストに置き換えて、ユア・フォルマに指示を出す。つけっぱなしにしている片耳のイヤホンが、間抜けな呼び出し音を響かせる。どうせ出ないだろうなと思った。ベンノは電話けん症なのだ。分かっていてわざわざ電話をするのは、気分のいい日はまれに応じてくれることがあるからで、ついでに言えば、毎回遅刻してくる彼に直接文句を言いたかった。

 結論から言って、今日は駄目だった。タイムアウトにより、発信が自動的に切れる。直後、彼からのメッセージを受信──視界の片隅にメッセウィンドウが開く。


〈こっちはまだ入院中だ。俺が昨日のうちに現地入りしたというのは、トトキ課長のうそだよ〉


 うそだって? エチカはつい眉をひそめ、


〈課長の指示で今日まで黙っていたが、俺たちのパートナー関係は解消だ〉


 やっぱりか。解消自体は予想していたことだし、いつものことだから落胆も失望もない。むしろ問題なのは、トトキ課長が今日までそれを隠していたことだ。何となく嫌な予感がした。


〈俺の代わりに、そっちの支局が空港に迎えを寄越す。ロータリーで待ってろ〉

〈了解。ところで、わたしの新しい補助官について何か聞いてる?〉


 エチカはそう返信したが、ベンノはもう答えない。腹立たしく思いたいところだが、こちらは彼を病院に押し込めた身だ。もともと好かれていたわけではないし、当然の対応だった。

 しかし、新しいパートナーか。

 気乗りがしない。何せ、誰がやってきたって長続きしないのだ。一般的な電索官は、年単位で同じ補助官と仕事をするが、エチカの場合は長くて一ヶ月程度だった。情報処理能力が飛び抜けて高いがために、誰とも釣り合わず、毎回補助官を故障させてしまう。

 憂鬱な気分で、電子煙草たばこを取り出して口に運ぶ。ニコチンもタールも含まない水蒸気の煙を吐き出そうとしたら、ユア・フォルマから警告。〈空港しき内は禁煙です〉舌打ちを堪えて、煙草たばこを消した。首から下げたニトロケースのネックレスをいじり、気を紛らわせる。

 迎えが現れたのは、実に三十分近くってからのことだ。

 ほとんど凍えかけていたエチカの前に、一台のSUVがまる。上品なマルーンの車体は角張っていて、丸いヘッドライトはオフロードが好きでたまらないと言いたげだ。ついユア・フォルマで解析──ラーダ・ニーヴァ。約四十年もの間フルモデルチェンジをおこなっていない、だった。さすが、芸術都市は車のセンスも違う。


「おはようございます、ヒエダ電索官ですね?」


 運転席のウィンドウが下がり、コーカソイドの若い男性が顔を出す。だが、パーソナルデータが表示されない。それだけでエチカはますます気が重くなる──この運転手は、機械仕掛けの友人アミクス・ロボツトだ。アミクスとは、一昔前までアンドロイドだのヒューマノイドだの呼ばれていた連中のことで、今や人間の生活に欠かせなくなって久しい。


「お待たせしてしまいましたか?」運転手は、支局のアミクスに支給される身分証明用バッジを見せてきた。「待ち合わせは、午前九時だとうかがっていたのですが……」

「こっちは八時だと聞いてた」エチカに時間を伝えてきたのはベンノなので、彼の嫌がらせだ。いつものことである。「とにかく乗せて」


 アミクスがドアロックを解除するやいなや、エチカは素早く助手席に体を押し込んだ。これでようやくあたたまれる……と思いきや、車内は恐ろしく寒い。期待と違う。


「ああすみません、寒いほうが処理速度が上がるもので」


 アミクスが悠長な仕草で、暖房のスイッチを入れる──エチカの知識が正しければ、暑さや寒さを感じないはずだった。単に人間に似せられた機械として、『人間らしく』振る舞おうとしている。システムがそうさせるのだ。


「でもこの寒さでわたしが風邪をひいたら、それはきみの敬愛規律に反するはずだ」

おつしやる通りです。もちろん、程度はわきまえていますよ」


 人間を尊敬し、人間の命令を素直に聞き、人間を絶対に攻撃しない──アミクスは皆、そうした〈敬愛規律〉をとしてプログラムされている。

 正直なところ、エチカはこの機械があまり好きではない。

 いっそ、嫌いだった。

 車は半自動運転によりゆっくりと走り出し、ロータリーを出て行く。サンクトペテルブルクの街並みは、時代錯誤な建築様式にいろどられている。ぜいがあって美しいが、外壁に次々と花開くホログラムの広告映像のせいで、何もかも台無しだ──MR広告システムは、ユア・フォルマの機能の一つだった。使用者ユーザーこうを読み取り、日頃から関心を持っている分野の関連商品や企業広告をこれでもかと表示してくる。最近は世界中のあらゆる建物が広告まみれで、どこへ行っても景色を楽しむ余裕が持てない。

 非表示にすることも可能だが、高額な課金が必要だ。何せ開発元であるリグシティの財源は、大部分が広告収入で賄われている。加えて、ユーザーがユア・フォルマの導入手術をほぼ無料で受けられるのも、これら広告の恩恵なのだった。


「予定では、このままユニオン・ケアセンターに向かうことになっています。本日は電索により、ウイルスの感染源の特定をおこなうのでしたね?」

「そうだ」

「事件はワシントンDCとパリに続き、これで三度目でしたか」

「それより、わたしの新しい補助官は?」

「準備を整えて待っていますよ。彼のことを詳しくお話ししましょうか?」

「いや、合流できることさえ分かればいい」


 エチカはそれだけ言い、ユア・フォルマのニューストピックスを開く。これまた最適化された見出しがずらりと並ぶ──〈AI作家、文学賞最終候補に選出〉〈関東地方に大寒波〉〈ノートルダム大聖堂、年末のカウントダウンイベントを規制へ〉〈スイス、年間自殺ほうじよ件数世界一位と発表〉〈書店ネットワーク、年末セールで紙の本を増版〉……。

 別に、誰が補助官になろうと興味はない。自分は目の前の仕事を片付けるだけだ。

 随分前に、そうやって思考を止めることにした。あらゆる罪悪感から、心を守るために。


 

〈パンデミックの時代は終わった。これからは、新しい『糸』との日常を手に入れませんか?〉


 最初期の宣伝広告には、そんなうたい文句が躍っていたらしい。

 侵襲型複合現実デバイス〈〉は、頭の中にあるを模した情報端末だ。

 その形状は直径三マイクロメートルのスマートスレッドで、レーザー手術で脳に埋め込んで使用する。ユア・フォルマがあれば、健康状態のモニタリングからオンラインショッピング、SNSの更新まで、全てをで済ませられる。

 三十一年前──一九九二年冬。『スポア胞子』の名を冠したウイルスが、世界規模の感染爆発パンデミツクを引き起こした。短期間で変異し続けるこのウイルスを前に、ワクチンや抗体の開発は意味をなさず、あっという間に社会機能が。死者数は全世界で約三千万人にのぼり、死因のほとんどがウイルス性脳炎だった。そのため、脳炎の発症を予防することが喫緊の課題とされる。

 世界保健機関WHO主導のもと、各国機関が協力し合い、研究段階だったBMI技術を応用。数年がかりで、侵襲型医療用スレッドデバイス『ニューラル・セーフティ』が開発された。これにより脳炎の治療が容易となり、死亡率が減少。その後も改良が重ねられ、ついに脳炎自体を予防できるまでになる。ウイルスの時代に疲弊しきっていた人々が、この『糸』に飛びつかない理由は、何一つ存在しなかった。

 パンデミック終息から久しい今日──二〇二三年。『ニューラル・セーフティ』は『ユア・フォルマ』として生まれ変わり、最新型多機能情報端末として大きく進化を遂げている。

 中でも特筆すべき機能が、〈機憶〉だ。

 機憶は実際の出来事とともに、その都度ユーザー自身が抱いた。海馬の記憶をバイナリ変換することで生み出され、それ故に心の可視化を可能とした。

 機憶は特に、犯罪捜査の有り様を大きく変えた。国際刑事警察機構インターポール電子犯罪捜査局は、機憶捜査の行使権限を有する唯一の機関として、これらを重大事件の解決に役立てている。もちろん、機憶の細工や抹消による犯罪逃れもまれに起こる。だが、機憶自体の偽造は現代の技術では不可能なため、捜査の進展に著しく貢献していた。

 そうした機憶に潜るのが、エチカのような電索官たちだ。

 電索官は『ダイバー』とも呼ばれ、被害者や加害者のユア・フォルマに接続し、文字通り頭の中に事件の鍵を探す。機憶は、ネットワークから切り離されたスタンドアロン環境で管理されるため、直接つながる必要があるのだ。しかもミルフィーユのような多層構造で保管されているので、平凡な情報処理速度では表層をさらうことすらままならない。

 そのため、電索官には特定の適性が必要になる。それらは主に、遺伝情報によるストレス耐性や、ユア・フォルマとの親和性によって判断されていた。脳の発達期からユア・フォルマを使用した場合、ごくまれに、ユア・フォルマに極端に迎合する形でのずいしよう化が起こる──分かりやすく言えば、脳にユア・フォルマがしまう──その影響で、情報処理能力が飛躍的に伸びることがある。電索官に選ばれるのは、そういった少しいびつな人間だ。

 中でもエチカの能力は飛び抜けており、いまだに釣り合う補助官と出会えていない。

 つまり『天才』は褒め言葉などではなく、最上級の皮肉なのだった。

刊行シリーズ

ユア・フォルマVI 電索官エチカと破滅の盟約の書影
ユア・フォルマV 電索官エチカと閉ざされた研究都市の書影
ユア・フォルマIV 電索官エチカとペテルブルクの悪夢の書影
ユア・フォルマIII 電索官エチカと群衆の見た夢の書影
ユア・フォルマII 電索官エチカと女王の三つ子の書影
ユア・フォルマ 電索官エチカと機械仕掛けの相棒の書影