第一章 機械仕掛けの相棒 2 ③

「私たちにとっては造作もないことです」ハロルドはほほみ、「ただ電索官、ブアメードの実験は論理的に少々強引では?」

「脳はもともとだまされやすい器官だ」エチカは声を低くする。「ユア・フォルマのように脳と一体化したデバイスを前提とすれば、ブアメードは十分論理的な説明として成立する」


 そうしてエチカたちが訪れた病室は、十五床ほどの大部屋だった。ベッドにはそれぞれ感染者が横たわり、鎮静剤によって静かな寝息を立てている。容態は安定しているようだ。


「おたくのご要望通り、全員を〈探索コード〉でつないでおきましたよ」


 医師が言う──電索に使われる〈探索コード〉や〈命綱〉は、いわゆるHSBケーブルだ。Human Serial Busはユア・フォルマ専用のシリアルバス規格である。プライバシー保護と悪用防止の観点から一般人の所持は禁じられており、特定の医療機関や捜査機関のみが使用を許される。


「えー、この中から感染源を見つけ出すんでしたね。そこに、犯人の手がかりが?」

「まだ分かりません。潜ってみなければ何とも言えない」


 ワシントンでもパリでも、オジェのような感染源には行き着いたものの、ウイルスの感染経路や犯人の手がかりは見つからなかった。ユア・フォルマや機憶に痕跡が残されていない上、感染源自身も、「どこでウイルスをもらったのか、全く心当たりがない」と主張しているのだ。

 だからこそ、今回は空振りでないことを祈りたい。


「しかし」医師が不安げに、室内を見渡す。「十二人を並列処理ですか。二人以上を相手にする電索官は見たことがありませんが……メンタルをやられて、自我混濁を起こすんじゃ?」

「問題ありません。多人数の並列処理ができるからこそ、わたしが呼ばれましたので」


 機憶に記録された感情は、まるで自分自身の感情であるかのように心を通過する。そのため電索官が自我混濁を起こして、メンタルケアが必要になるも度々起こる。しかしエチカの場合、大勢を並列処理しようと、それらの感情にみ込まれたことは一度としてなかった。

 どちらかと言えば、気がかりなのはハロルドの処理能力だ。


「それで」エチカはアミクスを見やる。「ルークラフト補助官、わたしときみの〈命綱〉は?」

「こちらを使うようにと言われました」


 ハロルドが、電索官と補助官をつなぐ〈命綱〉を取り出す。一般的な〈命綱〉とはデザインが異なり、金糸と銀糸を交互に織り込んだように色づき、うっすら光っていた。

 エチカは眉をひそめる。「……ね」

「ええ。あなたをモニタリングするにあたって送り込まれる情報を、私の回路でも理解可能な形式に変換できます」


 トトキ課長は、だと言っていた。しかしやはり、エチカにはくいくと思えない。これまでのネガティブな経験が、あまりに尾を引いている。

 エチカは気乗りしないまま、うなじに〈命綱〉を挿し込む。〈探索コード〉に比べ、〈命綱〉はさほど長くない。ハロルドが接続のために目の前へとやってくるので、とっさに顔を背けて、距離を取りたい衝動を抑える──アミクスとここまで近づくのは、本当に久しぶりだ。

 仕事でなければ、絶対にこんなことはしないのに。


「電索官、繫ぎましたよ」

「ああうん」エチカはちらとハロルドを見やり──ぎょっとした。彼は左耳をずらし、現れたUSBポートにコネクタを接続していたのだ。「その、……何か問題は?」


 こういう時、これが人間そっくりの機械なのだということを、嫌でも思い知らされる。

 はっきり言ってちょっと、いや、大分不気味だ。


「特に支障はありません。少し緊張しているくらいです」彼は言葉とは裏腹に、リラックスした笑顔だった。「あなたは平気そうだ」

「……慣れているから」


 うそだ。実際は胸がざわついていた。当たり前だが、アミクスと頭をつないだことはこれまでに一度もない。

 だが、もう後戻りはできない。大丈夫、思考を止めるのは得意じゃないか。

 トライアングル接続を完成させたところで、エチカは一度だけ、深く息を吐く。

 いつも通りにやればいいだけだ。


「始めよう」


 そうつぶやいた瞬間、ずるりと感覚が傾く──一瞬で、電子の海へと落下していく。

 まずは表層機憶から──いとしい愛犬に頰ずりする。守ってあげたい。声を荒げる友人が見える。心臓がひりつくような悲しみがはじけて。真新しいトウシューズに触れる。わくわくする、今すぐ踊り出したい気分。暇つぶしに、友人のSNS投稿を遡る。チーズが沈んだコーヒーの画像が流れ去っていく。マリインスキー劇場が映る。広告まみれなのに、美しくきらきらと輝いていた。憧れなのだ……ユア・フォルマの機憶に蓄積された十二人の日常が、感情が、ばらばらの欠片かけらとなってすさぶ。喜怒哀楽のあめあられが、でたらめにエチカの心を殴りつける。だが、いずれも自分の感情ではない。ごととして感覚を閉ざし、冷静に受け流して。


『もしも死んでいたら、あなたを許さなかった』


 唐突なささやきが響く──誰だ?


『お前のせいで死ぬところだった』『もう二度と、あんたとパートナーになるのは御免だ』


 違う。これは、エチカ自身の機憶だ。どうして自分の機憶に潜り込もうとしている? 落ちる方向を間違えている──そうか、もしかしてこれがか。最悪だな。

 見える。

 暗い廊下が映し出される。ぞっとした。病院だ。窓の外、街並みに星明かりが降り注いでいる。これまでないがしろにしてきたパートナーたちのうめき声が、どこかから。すすり泣きも聞こえる。パートナーの家族や友人、あるいは恋人の。『許さない』『機械みたい』『組むんじゃなかった』『謝れ』『天才だって?』『消えろ』平気だ。平気なんだ。何を言われても痛くない。痛むのはむしろ、自分が傷つけてしまった彼らのほう。そう言い聞かせて。

 閉じろ。抜け出せ。ここは必要ない。

 ぎこちなく世界が入れ替わる。どうにか軌道修正。感染者たちの、ネットワーク上の行動履歴へと導かれていく。SNSやメールボックスへ。よかった、調子を取り戻した。無数のやりとりが、嵐のように過ぎ去る──明日学校でね、パパとけんしたの、友達がアミクスを買ったって、トウシューズを新調したわ、今度のカウントダウンパーティだけど……ぞうぞうと流れ落ちる。ちりばめられていた情報の点が、機憶と合わさりぶつかりあって、つながる。感染源への道筋が浮かび上がってくる。

 ぱっと火花が散って、邪魔をして。

 なつかしい姉の顔が見えた。あどけない顔立ちに浮かぶ、大人びたほほみ。薄桃色の唇から、真っ白な歯がのぞいて──これはまたしても、エチカ自身の機憶だ。


『エチカ、手を握って。寒くないように魔法をかけてあげる』


 会いたい。もう一度、本当にその手を握れたのなら。今度は、絶対に放したりなんかしない。誰にも放させたりなんかしないのに──違う。落ち着け。自分自身の感情にまれるな。

 閉じなければ。

 もがく。速度が上がりすぎている。止まりたい。いや、止まれるわけがない。かじを切れ。感染者のほうへ。ぎゅっと頭がよじれる感覚が広がる。熱い。十二人の機憶へと舞い戻っていく。全員の機憶が交差し、すれ違う地点を暴き出す。そこに立つ感染源を探し求め、そして。

 

 ぶつっと視界がはじける。

 古くさい匂いがこうを突き抜け、エチカは病室へと帰ってくる。息を吐く。額に汗が浮いている──覚悟していた。ベンノの時と同じく、医師の悲鳴が耳に届くはずだ。さあ、来い。

 けれどいつまでっても、それは聞こえなくて。


「見つかりましたね」


 柔らかい声が降ってきて、エチカは呼吸を止めた。

 隣のハロルドは、平然と立っていた。電索を始める前と変わらず、涼しい表情だ。彼の手には、エチカのうなじから引き抜いた〈探索コード〉が握られている。ベンノのように倒れることもなければ、不調を来してすらいない。何一つ、異常は起こっていない──信じられない。


「どうしました、電索官?」


 ああ──トトキ課長の判断は、正しかったわけだ。

 電索官になって以来、こんなことは初めてだった。仮に倒れるまではいかなくとも、自分と電索を終えたあとの補助官たちは、決まって疲弊した顔だった。そうした負担が何度か積み重なっては、あっけなく故障していく。例外は一度もなくて。

 だがどう見たって、ハロルドは無傷だ。それどころか、疲労の気配すら漂わせていない。

 どこかで信じたかった。機械なんかと潜ってくいくはずがない、と。そんなこと、あってはならない。受け入れたくない。なのに、どうやら現実は皮肉が大好きらしい。

 やっと見つけた釣り合う相手が、大嫌いなアミクスか。


「電索官? 私は引き揚げるタイミングを間違えましたか?」


 ハロルドがげんそうにのぞき込んでくる──明け方の湖のように、凍りついた瞳。刻み込まれたこうさいの深さと、白目をなぞる澄んだ血管。れいで冷たい、完璧な目。

 その無機質さが、どこか羨ましくさえあって。


「いや……」どうにか、かすれた声を押し出す。「タイミングは、完璧だった」

「ありがとうございます」

「驚きましたよ」医師が圧倒された様子で口を開く。「まさか本当に、十二人の並列処理をやってのけるとは……メンタルの調子はいかがです? 体の具合は?」


 エチカは平気だと答えて、乾いた唇を湿らせる。思考を無理矢理、捜査へと引き戻し──手に入れた情報を整理しながら、ハロルドを見上げた。


「感染源の名前はクラーラ・リー、バレエアカデミーの生徒だ。ただ……

刊行シリーズ

ユア・フォルマVI 電索官エチカと破滅の盟約の書影
ユア・フォルマV 電索官エチカと閉ざされた研究都市の書影
ユア・フォルマIV 電索官エチカとペテルブルクの悪夢の書影
ユア・フォルマIII 電索官エチカと群衆の見た夢の書影
ユア・フォルマII 電索官エチカと女王の三つ子の書影
ユア・フォルマ 電索官エチカと機械仕掛けの相棒の書影