第一章 ありふれたヒモの日常 ③
『迷宮病』に特効薬はない。あったとしてもそこらの冒険者に手が出せるシロモノではないだろう。だから、たいていの冒険者は『クスリ』に手を出して紛らわせようとする。特に出回っていたのが『
「前は『
この街に限らず、大陸のほとんどの国ではその手の『クスリ』を禁じている。禁止されれば、欲しくなるのが人の常。おっかない連中や組織が『クスリ』の製造から販売を一手に仕切って、『迷宮病』患者や世の憂いを忘れられない貧乏人にばらまいて、暴利をむさぼっている。一年ほど前に潰れちまった『
窓の外ではアランが柄の悪い男に
窓を閉めると、シンシアが哀れむように見つめてきた。
「もしかして、アンタも『迷宮病』なの?」
「まさか」
真っ暗闇だとおトイレに行けないようなおちびちゃんでもない。ただ生きては帰れないだろうってだけだ。ゴブリンの一匹とでも出くわせばそこでおしまい。ネズミのフンよりもしょうもない人生ではあるが、自殺するつもりはこれっぽっちもない。今の俺には姫騎士様だけが生きがいだ。
「俺が戦えるってところ、見せてやるよ」
宣言とともにシンシアの胸に
「おっと」
俺はシンシアから離れ、サイドテーブルを起こす。幸い皿は割れていないようだが、万が一火事になったら大変だ。
「ん?」
ふとベッドの下をのぞき込む。シンシアのものだろう。かごの中に女物の衣服が入っている。その上に、けったいな形のネックレスが大事そうに載っている。
「ねえ、どうしたの? 早く続きしようよ」
シンシアは仰向けのまま、甘えた声で俺を呼ぶ。俺はネックレスを取った。
「これ君の?」
「ええ、そうよ。前にそこの裏手にある教会でもらったの。お守り」
「それって太陽神の宗派だよね」
「うん。いつかわたしにも『啓示』が来るかなって」
体のほてりも幾分静まったらしく、シンシアは大儀そうに身を起こす。
神話によれば太陽神は、この世界を作った神の一人だ。神々の中でも最強に近い力を誇っていたが、それ故にほかの神々に
「『
シンシアがぽつりと漏らしたのは、太陽神信仰でよく唱えられる祈りの言葉だ。別大陸の古語で唱えるのが正式なのだという。
「本当に見てたら怖いよね。ノゾキだよね」
シンシアは喉を鳴らして笑った。俺は笑わなかった。さっき脱いだ服を拾い、着替える。
「え、どうしたの?」
「悪い。ちょっち用事を思い出した。また来るよ」
「でも、まだ時間が」
もどかしそうに皿の上の香草を見る。ほとんど灰になってしまったが、まだ燃え残りが煙を上げている。俺は水差しの水をその上に垂らした。じゅっ、と音を立てて火は消えた。
「時間切れだ」
帰りがけに庭の井戸で水浴びしてから
「大丈夫か?」
「……うるせえ、ヒモ野郎」
俺の素性をご存じらしい。俺も有名になったもんだ。悪態つく元気があるなら大丈夫だな。
「お前さん、故郷はどこだ?」
「え?」
「地元の人間じゃないだろ。どこだって聞いているんだよ」
どうせ
「……バラデールだ」
「なんだ、お隣じゃないか」
『
俺はポケットの中に入っていた紙を取り出した。落ちていた炭のカケラで書き殴ると、それを黒い斑点が浮かんだ手に握らせる。
「東の『青犬横町』にトビーってじいさんがいる。お前さんみたいなアホを外に連れ出す名人だ。マシューからだって言ってその紙見せろ。そうすりゃ、この街から抜け出せる」
この『
「何のマネだ?」
「国に帰れ。それから、ゆっくり体を治すんだな。ここはお前さんのいる場所じゃない」
「余計なお世話だ」
それからちらりと手の中の紙を見る。書いてあるのはたった一言。『出せ』。
アランはがっくりと壁にもたれかかる。
「金じゃねえのかよ」
「俺がそんなうっかりさんに見えるか?」
ヤク中に渡したらすぐに『クスリ』に消えちまう。賭けにすらならない。トビーじいさんには闘鶏バクチの予想を当ててやった貸しがあるし、俺の字もご存じだからこれで通じる。
「おまけだ」
「じゃあな。命は粗末にするなよ」
その場を立ち去る。生きていればまだ逆転の目はあるはずだ。野垂れ死によりはマシだろう。
「お前は……」
「勘違いするなよ。別に善意じゃない。お前さんみたいなのにうろつかれたくないだけさ」
俺は振り返りながら言った。
「ウチの姫騎士様のおめめが汚れちまうからな。
『
酒場や
人通りもめっきり減った。外灯や窓から路地に落ちる明かりがなんとも頼りない。路上では物乞いらしき連中が毛布にくるまり、そこかしこに寝転がっている。かと思えば仕事熱心なのもいて、酔い潰れた男にカラスのようにたかり、靴を脱がし、ズボンを剝いでいる。ご愁傷様。