第一章 ありふれたヒモの日常 ③

『迷宮病』に特効薬はない。あったとしてもそこらの冒険者に手が出せるシロモノではないだろう。だから、たいていの冒険者は『クスリ』に手を出して紛らわせようとする。特に出回っていたのが『リリース』だ。見た目はただの粉薬だがこいつを飲むと気分がハイになって、この世がまるで楽園か理想郷のように思えるらしい。が、一度飲むと止められなくなる。感情が抑えられなくなって、怒ったり泣いたり笑ったりする。挙げ句の果てが幻覚や幻聴を見て、錯乱まで起こす。肌に浮き上がる黒い斑点は典型的な中毒者の症状だ。


「前は『三頭蛇トライ・ヒドラ』あたりが仕切っていたんだけど、ここのところ出回らなくなったらしくって、ああいうのが増えているの」


 この街に限らず、大陸のほとんどの国ではその手の『クスリ』を禁じている。禁止されれば、欲しくなるのが人の常。おっかない連中や組織が『クスリ』の製造から販売を一手に仕切って、『迷宮病』患者や世の憂いを忘れられない貧乏人にばらまいて、暴利をむさぼっている。一年ほど前に潰れちまった『三頭蛇トライ・ヒドラ』もそういう組織の一つだった。

 窓の外ではアランが柄の悪い男にからまれている。このしようかんの用心棒どもだ。ろくな抵抗もできずに近くの路地に連れ込まれる。運が良ければ骨の二、三本で済むが、悪ければゴミとゲロの上でしかばねをさらす羽目になる。ここはそういう街だ。かわいそうだとは思うが、俺にはどうすることもできない。

 窓を閉めると、シンシアが哀れむように見つめてきた。


「もしかして、アンタも『迷宮病』なの?」

「まさか」


 真っ暗闇だとおトイレに行けないようなおちびちゃんでもない。ただ生きては帰れないだろうってだけだ。ゴブリンの一匹とでも出くわせばそこでおしまい。ネズミのフンよりもしょうもない人生ではあるが、自殺するつもりはこれっぽっちもない。今の俺には姫騎士様だけが生きがいだ。


「俺が戦えるってところ、見せてやるよ」


 宣言とともにシンシアの胸におおかぶさった。すぐになまめかしいあえぎ声が聞こえる。二回目だけあってこなれてきたらしく、反応も悪くない。シーツを握りしめながら絶え間なく声を上げる。準備も整ったようだし、そろそろと思ったところで軽く達したのか、白い足でサイドテーブルを蹴っ飛ばす。香草の載った皿が派手な音を立てて転がる。


「おっと」


 俺はシンシアから離れ、サイドテーブルを起こす。幸い皿は割れていないようだが、万が一火事になったら大変だ。


「ん?」


 ふとベッドの下をのぞき込む。シンシアのものだろう。かごの中に女物の衣服が入っている。その上に、けったいな形のネックレスが大事そうに載っている。


「ねえ、どうしたの? 早く続きしようよ」


 シンシアは仰向けのまま、甘えた声で俺を呼ぶ。俺はネックレスを取った。


「これ君の?」

「ええ、そうよ。前にそこの裏手にある教会でもらったの。お守り」

「それって太陽神の宗派だよね」

「うん。いつかわたしにも『啓示』が来るかなって」


 体のほてりも幾分静まったらしく、シンシアは大儀そうに身を起こす。

 神話によれば太陽神は、この世界を作った神の一人だ。神々の中でも最強に近い力を誇っていたが、それ故にほかの神々にうとまれ、テメエの宮殿ごと封印されてしまったという。身動きがとれないため、信者にむけて『啓示』を送るのだそうだ。『啓示』を受けた者は奇跡の力を得るという。えいを授けられたり、新たな技術を発見したり、人並み外れた体力を得たりもするそうだ。奇跡を求めて信仰する者も多い。この街にも二つほど教会がある。


「『太陽神はすべてを見ているソル・ニア・スペクタス』」


 シンシアがぽつりと漏らしたのは、太陽神信仰でよく唱えられる祈りの言葉だ。別大陸の古語で唱えるのが正式なのだという。


「本当に見てたら怖いよね。ノゾキだよね」


 シンシアは喉を鳴らして笑った。俺は笑わなかった。さっき脱いだ服を拾い、着替える。


「え、どうしたの?」

「悪い。ちょっち用事を思い出した。また来るよ」

「でも、まだ時間が」


 もどかしそうに皿の上の香草を見る。ほとんど灰になってしまったが、まだ燃え残りが煙を上げている。俺は水差しの水をその上に垂らした。じゅっ、と音を立てて火は消えた。


「時間切れだ」


 あつにとられたシンシアを置き去りにして外に出る。扉を閉めてから俺はため息をつく。悪い子ではなかったが、おそらくもう二度と来ないだろう。女を抱くときにまでを思い出したくない。

 帰りがけに庭の井戸で水浴びしてからしようかんを出る。既に日が沈み、真っ暗になっていた。フード付きのコートを着込んでいても身震いがする。灰色のフードをかぶると背を丸めて帰路に就こうとして、ふと路地をのぞいた。アランはまだそこにいた。ズタボロになってはいるが、まだ息はある。


「大丈夫か?」

「……うるせえ、ヒモ野郎」


 俺の素性をご存じらしい。俺も有名になったもんだ。悪態つく元気があるなら大丈夫だな。


「お前さん、故郷はどこだ?」

「え?」

「地元の人間じゃないだろ。どこだって聞いているんだよ」


 どうせいつかくせんきんを夢見てこの街にやってきたってところだろう。


「……バラデールだ」

「なんだ、お隣じゃないか」

灰色の隣人グレイ・ネイバー』のあるレイフィール王国の南にある国だ。農業や酒造りが盛んで、この街の食料も一部はそこから輸入されている。

 俺はポケットの中に入っていた紙を取り出した。落ちていた炭のカケラで書き殴ると、それを黒い斑点が浮かんだ手に握らせる。


「東の『青犬横町』にトビーってじいさんがいる。お前さんみたいなアホを外に連れ出す名人だ。マシューからだって言ってその紙見せろ。そうすりゃ、この街から抜け出せる」


 この『灰色の隣人グレイ・ネイバー』は周りを高い壁で囲われている。外に出るには必ず門を通る必要がある。当然、門番もいる。いくら能なしぞろいといっても、一目で中毒者とわかるやつを見逃すほど甘くはない。金がないなら尚更だ。


「何のマネだ?」

「国に帰れ。それから、ゆっくり体を治すんだな。ここはお前さんのいる場所じゃない」

「余計なお世話だ」


 それからちらりと手の中の紙を見る。書いてあるのはたった一言。『出せ』。

 アランはがっくりと壁にもたれかかる。


「金じゃねえのかよ」

「俺がそんなうっかりさんに見えるか?」


 ヤク中に渡したらすぐに『クスリ』に消えちまう。賭けにすらならない。トビーじいさんには闘鶏バクチの予想を当ててやった貸しがあるし、俺の字もご存じだからこれで通じる。


「おまけだ」


 ふところから小袋を取り出し、中身を反対の手に握らせる。アーモンドだ。どうせ何も食ってないだろう。腹ぺこじゃあろくな考えは浮かばないからな。


「じゃあな。命は粗末にするなよ」


 その場を立ち去る。生きていればまだ逆転の目はあるはずだ。野垂れ死によりはマシだろう。


「お前は……」

「勘違いするなよ。別に善意じゃない。お前さんみたいなのにうろつかれたくないだけさ」


 俺は振り返りながら言った。


「ウチの姫騎士様のおめめが汚れちまうからな。はいえつえいたまわりたいのなら、もうちょいまともな人間になってからにしてくれ」




灰色の隣人グレイ・ネイバー』の酒場に休みはない。夜明けまで冒険者が浴びるほど酒を飲み、さかだるに頭からかる。無事に戻れた祝いか、『迷宮』の恐ろしさを忘れるためか。

 酒場やしようかんの立ち並ぶ通りをまえかがみで進む。通称『追いはぎ横町』と呼ばれる歓楽街だ。のんびり通っていたら尻の毛まで抜かれちまう。客引きやがいしようの呼び込みを断りながらくぐり抜け、貧民街に入ると途端に静まりかえる。家へ戻るには東へ行って大通りへ出るより、ここを突っ切った方が早い。

 人通りもめっきり減った。外灯や窓から路地に落ちる明かりがなんとも頼りない。路上では物乞いらしき連中が毛布にくるまり、そこかしこに寝転がっている。かと思えば仕事熱心なのもいて、酔い潰れた男にカラスのようにたかり、靴を脱がし、ズボンを剝いでいる。ご愁傷様。

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