地球篇
1-10 西暦2520年、滅亡まで548年(そうして刑事は引金をひく)
西暦2520年2月。暗闇の中ビルからビルへと飛び移る影がある。影はふたつ。追う者と追われる者。闇に光った深紅色の瞳が蛍のように舞う。
「へっ捕まるかよ。間抜けが」
二者の距離が徐々に開いていく。十メートル。二十メートル。三十メートルほど距離が開いたところで追う者、
「佐々木。行ったぞ」
「了解です!」
「馬鹿、声が大きい。ホシに気づかれる」
「すみませんっ」
そこで無線がぷつりと途絶えた。
やれやれ、とため息をついた浩が尾行を再開する。浩はもう五十歳だ。五階建てのビルの屋上から屋上へと飛び移るのは骨が折れる。
「被疑者確保しました」
浩がビルを四つ越えたところで、連絡が入った。自分が
「そのまま押さえとけ。油断はするな。相手はゾンビだ」
被疑者はもう何人も殺している。浩は新人類という呼称を使う気になれず、あえてゾンビという旧称を使った。
「はいっ。もちろんです」
佐々木の声には疲労の色がない。若さとはこういうことか――世代交代の波を感じ、浩は嘆息した。
浩が現場に到着すると、意外にも被疑者はおとなしく座っていた。両手にはすでに手錠がはめられている。
浩は懐から写真を取り出すと、被疑者の眼前に突きつけた。
写真には、優しそうな笑みを
「この三人に見覚えは」
「ないね。この三人がどうしたって?」
「しらを切るな。一か月前、お前が空き巣に入った家に住んでいた人たちだ」
「俺はただ人がいない家にちょいとお邪魔するだけさ。誰が住んでるかなんて興味はねえやい」
浩は被疑者の髪を引っ張るとそのまま地面に引きずり倒したが、被疑者は怯えるどころか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「おう、おっかないねぇ。後で弁護士のセンセイに話しとこう。〈逮捕されるにあたり不当な扱いを受けました。これは新人類に対する差別です〉ってな。あんた公務員だろう。すぐクビになるぜ」
「大丈夫だ。首にはならない。佐々木、例の物を」
浩は被疑者に馬乗りになり、被疑者の口をこじ開け、例の物を流し込んだ。
「うげええええ!」
被疑者の絶叫が暗闇に響き渡る。
「やっぱり富士の湧水は効果絶大っすね」と佐々木。
ゾンビは新鮮な水に弱い。人間で言うなれば塩酸で胃を焼くような痛みが被疑者を襲う。
被疑者は屋上をのたうち回り、何度も吐いた。吐き終わった頃を見計らい、再度被疑者を確保する。今度は佐々木が被疑者に馬乗りになった。
「さあ、もう一度聞こうか。この三人に見覚えは」
湧水が入ったペットボトルをちらつかせながら浩が問う。効果はてきめんだった。被疑者は己の罪状を告白した。
無人だと思った家に人がいたこと。顔を見られてしまい、衝動的に三人を殺したこと。三人の遺体を食べ、証拠を隠滅したこと。三人分の遺体は自分の胃で消化するには多すぎ、公園の公衆トイレで吐いて水に流したこと。
「他には?」
「ない。こんなへまをやらかしたのは初めてさ。だからそのペットボトルをしまってくれ!」
浩は一旦被疑者から離れ、上司に無線で連絡した。
「クロでした。どうしますか」
「は。そんなの決まってるだろう。いつも通りだ。例外はない」
こうして被疑者の運命は決まった。
「佐々木。そのまましっかり押さえとけ」
浩は銃を抜き放ち、被疑者の頭に突きつけた。拘置所に送られるものだと思い込んでいた被疑者が血相を変えて暴れ出す。
「やめてくれ! 俺は自分の罪を認めたじゃねえか!」
「今はな。だが、すぐに変わるさ」
浩は今までの被疑者の面々を思い出した。
どの被疑者も確保された瞬間だけはおとなしい。だが、拘置所に身柄が移された時点で態度を豹変させるのだ。
自分はやっていない。自白を強要された。ゾンビに対する偏見だ。
被疑者がこう言い張ると、強盗致死罪での立件が難しくなる。なんせ被害者は遺体ごとこの世から消え失せている。物的証拠を探すのは困難を極めた。百人以上の人間をぺろりとたいらげたとされる蜘蛛の
浩は被疑者の首根っこをつかむと地面にぐりぐりと押しつけた。少し力を入れ過ぎたようでバキ、と被疑者の首の骨が折れる音がする。
「なぁ、知っているか? 俺には戸籍がないんだ。体がゾンビになった時点で死んだことにしてもらった。何故かって? お前らみたいな悪党をのさばらせないためさ」
そうして浩は引き金を引いた。
「佐々木。もういいぞ。被疑者から離れて本部に連絡しろ」
ふたりは本部からヘリコプターが来るのを待った。遺体を収容してもらうためだ。
佐々木が自分のスーツを脱いで被疑者の遺体の上にかける。
「お優しいことだな。そんなんじゃゾンビ特課ではやっていけんぞ」
「わかってます。わかってますけど」
「やれやれ。世代交代はまだ先になりそうだ」
「え? 何のことです?」
「何でもない。行くぞ」
浩は遠方から近づきつつあるヘリに手をふった。