俺は映画というものを殆ど観たことがなかった。強いていうなら小学校のときに観た『ドラえもん』が最後だろうか。美しくて幸せなリゾートホテルの地下に、迷い込めば生きて戻れない地下迷宮がある、という話が好きで今でも覚えているけれど、中学に上がってからはあの恐ろしくて楽しい映画を観返したことがない。というか、映画自体を観なくなってしまった。
俺は私立大学の二年生という気楽で愉快な立場であり、映画なんか観なくてもずっと楽しいことが世の中に溢れていると思っていたのも理由の一つかもしれない。
現に、大学に入ってから、俺は映画なんか観なくなってしまった。馬鹿みたいな飲み会も、明け方の海へのドライブなんてテンプレートなイベントも、このまま、まともな未来なんて迎えないんじゃないかという感慨も、全部全部愛しかった。ちょっと過激な物語についてだってそうだ。少し目を向ければ今日も何処かで誰かが死んだり殺されたりしている。現実世界だけでそんなものは事足りている。
映画というフィクションは、俺の楽しい現実を越えられなかった、とでも言えばいいのかもしれない。なかなか素敵な言葉だ。それこそ映画に出てくるみたいに。
そんなただただ楽しいだけの大学生を送っていたある日、俺は自分の運命を大きく変える事件に遭遇することになる。初夏の爽やかな空気が辺りを包み、足が自然に前に出る軽やかな季節だ。そんな麗らかな日のことだった。
俺は、留年宣告を受けてしまったのである。
俺の話をしよう。私立大学の文学部、ドイツ文学科に所属する俺の話だ。ドイツ文学なんて一冊も読んだことがないのに、「言葉の響きが格好良いから」という理由でドイツ文学科への進学を決めた、ちょっと可愛そうなくらい馬鹿っぽい大学生の話だ。
俺の通う英知(えいち)大学は、入学試験は勿論、定期試験も大変なことで有名な大学だった。昨今の弛んだ大学生を憂い、出席が緩い分、試験を厳しくすることで、ある程度の学生生活の自由を赦しながら、同時に勉学の方にもよく励むよう促している。つまり、よく学びよく遊べを本気で実践することに心血を注いている大学なのである。
その為、都会のど真ん中にあるこの大学に通う学生は否応なく勤勉で、真面目な子女たちが集まる有名な名門校となった。そこまではいい。俺も素晴らしい方針だと思う。
しかし、いくら学校側がそうして譲歩を見せたとしても、それについていけない不真面目な輩は一定数現れる。そういったとき、大学側はどうするか? 容赦なく落とすのである。情状酌量なんて殆ど無い、試験の点数が悪ければ容赦なく落第だ。そのお蔭で本気で学問をやりたい人間にとってはうってつけの場所となっているのだが、適当に大学生活を謳歌したい人間には厳しい学校となっている。
そういうわけで、俺はあっさりと成績を落とし、ついに担当教授からの呼び出しを受けてしまった。
丁度、前期試験期間が始まる少し前という、七月中盤のことである。教授の方も、俺が無駄な試験勉強をするのは忍びなかったのだろうか。無慈悲にも程がある留年の知らせを事務室からの電話で知らされたのは、そういう時期だった。
まるでデートをすっぽかされた女の子のような冷たい声で、電話の相手は俺の留年を告げた。きっとまだ若い女の子だろう。初々しい声色をしていた。
というか、両親や教授ならまだしも、事務員さんがどうしてそんなにも怒っているのだろうとは思わなくもなかったが、とにかく彼女は心底怒っていた。初夏に反発するような冷たい声が、つらつらと事務的に連絡事項を並べ立てる。
「残念ながら前期にして留年決定の運びとなったわけですが、学業継続にあたって、ドイツ文学科学科長、高畑(たかはた)教授からお呼び出しがありましたので、明日の午後一時にドイツ文学科の高畑教授の教授室に来るようにとご連絡が」
「……それって、救済措置があるってことですか?」
俺は震える声で電話に向かってそう尋ねた。しかし、電話の向こうの声はどこまでも冷たく「私にはわかりませんね」と言った。
「でも、今まで一度留年の連絡を入れた学生に救済措置が出たことはありませんから。高畑先生からのお説教じゃないですかね」
「はは、留年宣告受けてるのにどんなお説教されても耳に入ってこなくないですか?」
「それでも、そうですね。私が高畑教授だったら、貴方に思いっ切り説教出来たらきっとめちゃくちゃすっきりすると思います」
そう言って、事務室のお姉さんは電話を一方的に切った。ツー、ツー、という寂しい音が鼓膜に残る。たっぷり一分はその音を聞き、俺は溜息を吐きながらその電話を切った。高畑教授からの呼び出しまでバックレるほど、俺は強い人間ではなかった。
というわけで、俺は次の日、言われた通り高畑教授の教授室へと向かった。ちなみに、このときはまだ、土下座したらどうにかなるんじゃないかな、なんて甘いことを考えていた。想像力が貧困な俺は、土下座よりも酷い誠意の見せ方があるなんてことに、少しも思い至らなかったのである。
「奈緒崎(なおさき)くんは前期最初の試験は五割しか取れず、期末でも芳しくなく、おまけに出席率が六十八パーセントを切っている。これはつまり、進級の為の基準に著しく到達していないという訳なんだが」
「はあ、なるほど」
「理解しているかな?」
「……留年ですか?」
「留年だねぇ」
高畑教授は暢気な声でそう言った。
「どうしてこんなことになったのかな?」
「勉強しなかったからです……」
「まあ、そうだよね」
高畑教授の研究室は、十二階建ての研究棟の八階にあり、窓からは綺麗に都会の景色が見渡せた。こうして見るとこの場所はちょっとした展望台のようだった。外を優雅に羽ばたく鳥の群れに、無責任な憧憬を投げかける程度には追い込まれている。窓を背にする高畑教授は、歳の割にたっぷりと生えた白髪も相まって、まるで後光を背負っているようで、なんだかとても厳かで恐ろしかった。
どうして勉強をしていなかったのかと問われれば遊びほうけていたからとしか言いようがなく、どうして授業に出席しなかったのかと問われれば、朝起きるのが辛いからだ。なんというか、自分でも吐き気がするほど中身のない理由だった。自分が堕落の沼に嵌っていることを自覚しても対策を講じなかったのは、心の底で段々と投げやりになっていたからかもしれない。俺は昔からそうなのだ。最初に塗った太陽の色が気に入らなくて、絵の残りを手抜きで埋めた図画工作の時間のように。描き進めている最中で、この絵が決して自分の中で納得のいくものにならないと心の何処かで知りながら筆を進める惰性の味。
そうした俺の鬱屈を嗅ぎ取ったのか、それとも単に俺の反応なんかどうでもよかったのか、高畑教授はこれ以上そのことについて追及しようとしなかった。
「ドイツ文学に興味はないのかな。もしかして」
「あの、えっと」
「ああ、別に構わないよ。私は学生がどういうつもりでドイツ文学を学んでいるかなんて本当はどうでもいいんですよ。君のように落第せずに悠々と学生生活を送っている優等生たちだって、本当にドイツ文学に興味がある人間なんて一握りだと思っています。でもまあ、いいんですよ。ドイツ文学を専攻している人間が全てドイツ文学の研究者になるわけではありませんしね。彼らはいわば、ドイツ文学・あるいはドイツ語というツールを使って、大学生という立場を獲得しているわけであってね。そういうことに異存はないんですけど、異議も無いんですけど、君のように最低限ツールを使いこなせずに立場だけ買おうっていうのは少しばかりこの大学では認められないわけですね」
高畑教授は穏やかな表情のまま、つらつらとそんなことを言った。少しも崩れない微笑が怖い。
「……その心は?」
「奈緒崎くん。君、ドイツ文学を真面目に学ぶこと以外で大学生活をパスしたくはありませんか」
「はあ」
「私が出す課題をクリア出来たら、君がどれだけドイツ文学に興味が無くても、ドイツ語が出来なくても進級させてあげると言っているんです。勿論留年についても取り下げましょう」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ、本当です」
冗談を言っているようには見えなかった。
ただ、冗談を言っているんじゃないというのがありありとわかってしまうからこそ怖かった。息を呑む。月並みな表現だけれど、部屋の中は異常に寒かった。クーラーだけでは説明のつかない寒気だ。
ややあって、「嗄井戸高久くんっていうのがいるんだけどね」と、教授は話し始めた。
「カレイドタカヒサ?」
「彼は君と同じドイツ文学科の学生なんだけれど、もうずっと大学に来ていないんだ。それどころか、部屋からも出ていない。もしその彼を大学に連れてくることが出来たら、留年の決定は取り消してもいい。それどころか、これから先の成績も保障するよ。大学に来なくなってもいい。ちゃんと卒業させてあげるから」
それはどうなんだろうか? そもそも学校に来ない人間を連れ戻したご褒美として俺が学校に来なくてもいいようにするというのも矛盾してないか? と思ったのだが、納得よりも今は単位が欲しかった。
「……でも俺、単なる学生ですよ? 別にそういう引きこもりを説得するのに長けた人間じゃないんですが」
「別にそこまで気負わなくていいですよ。君の出来る範囲で誠意を見せてくれればいい。案外同期の学生が行けばすんなり出てきてくれるかもしれません」
「そんなにすんなりいくなら、そもそも引きこもってないんじゃないですか」
俺の言葉を無視して、高畑教授は殆どうっとりとした口調で話し続けた。まるで、俺のことなんか見えていないかのようだ。
「嗄井戸くんはね、端的に言うと凄く優秀なんだ。君の一個上の代で、主席入学を果たした子だよ。でも、ずっと休学してて。私としてはどうしても戻ってきてほしいから、奈緒崎くんに手伝ってもらえたらなって、それだけなんです」
「職権乱用じゃないですか」
「職権乱用だよ。でも、乱用出来ない権力なんてなんの意味もないよね」
高畑教授は楽しそうにそう言った。確かにその通り……かもしれない。けれど、俺の進級はそんなお使い一つで決められるようなものなんだろうか? 少なくとも、俺の人生を多少なり左右する大事件のような気がするんだが……。ただ、高畑教授はもうこの条件をひっこめるつもりはないようで、話は終わったとでも言わんばかりに微笑んでいる。
「……わかりました」
「楽しみにしていますね」
純粋な期待の目。天秤に掛けられているのは俺の進級、これからの進退だ。
俺はどうにかして笑顔を作ると、一礼をして研究室を出た。
俺と話し始めてから話し終わるまで、高畑教授はその笑顔を少しも崩さなかった。これが、これからの奇妙な挑戦の始まりである。