件の引きこもり男・嗄井戸高久は下北沢に住んでいた。下北沢。街全体が得体のしれないお洒落さに包まれた、サブカルチャーとカフェと居酒屋の聖地。ごみごみとした街並みを形作る店たちは、一つ一つがはっきりとした個性を持っており、歩いているだけでかなり愉快な街だ。
何故そうやって知った風な口を利くのか? と言われれば、何を隠そう、俺が昔下北沢に住んでいたからである。
両親共々英知大学の学生だったこともあり、奈緒崎家は俺を生んでから暫くは学生時代と同じ下北沢に居を構えていたのだ。丁度、小学三年生に上がる頃だろうか? マイホームへの渇望を抑えきれなかった父親が埼玉に一軒家を買い、引っ越したことで俺は下北沢を離れた。
そういうわけで大学進学の際に俺は、大学から一時間の距離にある戸田で独り暮らしをすることになったのだが……こうして見ると、なかなかどうして下北沢もいいところだった。こちらにアパートを探しても良かったかもしれない。
歩いて行く内に段々と思い出が蘇ってくる。好きだった菓子屋だとか、立ち読みしに行っていた本屋とか。嗄井戸の家への道を半分も行く頃には、俺はどうして自分が下北沢で住居を探さなかったのかが不思議に思えるくらいになっていた。思い出補正で見る風景は甘い。都会特有の小さな公園の脇を通る頃には、俺の気分はすっかり懐かしさに浸っていた。
その内、一層見覚えのある辺りに差し掛かってきた。旧奈緒崎邸があるところである。俺が住んでいたマンションは変わらずそこにあって、誰かまた新しい住人がそこで暮らしているようだった。それも、なんだか感慨深い。
旧奈緒崎邸を抜けると指定された住所はもうすぐそこだった。家からも大通りからも外れた場所なのに、そこにも何だか見覚えがあった。何故だろう、と思った次の瞬間には、もう疑問が解決していた。
ここは、『冷え冷え屋敷』の近くなのだ。
「うわ、めっちゃ覚えてるな……」
一人ごちながら思い出す。町並みは恐ろしいほど記憶に忠実で、まるで俺のことを待っていてくれたかのようだった。
“冷え冷え屋敷”というのは、俺と近所の子供達が一緒になって呼んでいた愛称のようなもので、実態は単なる個人の家に過ぎない。冷え冷え屋敷では家主の趣味なのか、何故かいつでもクーラーが効いていた。四六時中、どの季節でもだ。だから、冷え冷え屋敷。安直で素直で実直なネーミングセンスである。
春の気持ちのいい暖かさの日にもその家ではガンガンとクーラーを掛けていて、最初の頃は扉が開く度に全ての気候を無視して寒風を吹きつけてくるその家に恐れを為していたのだが、季節が巡り、具体的に言うならば夏真っ盛りになったところで、冷え冷え屋敷は不気味な場所ではなく、お金の無い子供が簡単に涼を取れる人気スポットとなった。
そういった理由から家の前に集まる子供達を、冷え冷え屋敷の主――確か、常川(つねかわ)さんと言ったはずだ――は、冷え冷え屋敷に似合わない歓待で家の中に迎えてくれたのを覚えている。夏の冷え冷え屋敷はまさに天国で、俺達は常川さんの家に呼ばれては、アイスを食べさせてもらったり、映画なんかも見せてもらったのだ。
映画館で働く常川さんの家には大きなスクリーンがあり、もしかしたら俺はそこで観たのかもしれない。『ドラえもん』を。
角を曲がると、いよいよ件の“冷え冷え屋敷”が見えてきた。何もかもが変わっていない。あの家では今でもクーラーが効いているんだろうか? と、思った瞬間だった。冷え冷え屋敷の前の人影に気付いて、俺は自分の感情が一気に振り切れるのがわかった。十年以上ぶりだ。記憶がどんどん呼びさまされていく。同期された今の自分が、するすると過去の自分に戻っていくような感覚だった。
大きな荷物を台車に乗せて運んでいる男性に向かって、俺は声を張り上げた。
「常川さん!」
常川さんは、俺の記憶の中よりも随分痩せて老けていたが、それでも面影はありありと残っていた。昔より細くなった目が、俺に気付いて見開かれる。俺は、こっちを見つめる常川さんに向かって、駆け出し、もう一度声を掛けた。
「俺です、奈緒崎です」
最後に行ったのはもう何年前だろうか? 覚えてなくても仕方ないくらいの昔だろうに、常川さんは少し俺を見ただけで昔の記憶を呼び覚ましてくれたようだった。
「ああ、奈緒崎くんか……! 大きくなったね」
そう言って、常川さんは人のよさそうな笑みを浮かべた。それを見て、なんとなく気恥ずかしくなってしまう。『大きくなったね』は人を子供に返す魔法の言葉だ。
「覚えてますか?」
「勿論。佐々木くんや菊池くんと一緒に、うちに遊びに来てくれていた子だろう? 忘れるはずがないよ」
「覚えていてもらって嬉しいです」
「忘れられないよ。昔はよく遊びに来てくれたね」
「その節はお世話になりました」
俺が深々と頭を下げると、常川さんは困ったように笑った。
「あの奈緒崎くんにそんな態度を取られると、成長を感じると同時に少し寂しくなるな。今は大学生?」
「そうです。ここから少し先の駅の、英知大学ってところに」
「へええ、頭良かったんだねえ。うんうん、でも確かに、昔からしっかりしてたものね」
手放しに褒められることに関する気恥ずかしさと罪悪感が最高潮になっていく。残念ながらただいま留年しそうなんですけど! と注釈を入れる気にはなれなかった。俺はそこまで正直者じゃないし、心が強くもない。
「そういえば、常川さんはここで何を?」
これ以上この話題を広げられても心苦しいので、話題を変えた。すると、常川さんの顔があからさまに曇った。何かまずいことを言ってしまったんだろうか、と一瞬戦く。仕方がない。留年よりも気まずい事実がそこにあることを、俺はまだ知らなかったのだ。
「ああ……まあ、仕事だね」
「あ、覚えてますよ。裏にあるんですよね、映画館……えっと、そうだ。パラダイス座。生憎あんまり映画を観ないので、客として来たことはないんですけど……」
「そうか、それは少しばかり残念だな。私は今、僭越ながらそこの館長をやらせてもらっていてね」
「え、本当ですか! それで忙しいんですか?」
「仕事と言っても敗戦処理のようなものさ。少しずつパラダイス座から重要なものを引き払わないといけなくてね」
「敗戦処理?」
「実は、パラダイス座は閉館するんだ」
そのときの俺の衝撃といったらなかった。こんな話が引き出されるんだったら、無難に大学の話や天気の話でもしておけばよかった、と心の底から後悔した。納得の敗戦処理、常川さんの不幸はデリケートにも程がある。俺のその後悔が顔から滲み出てしまっていたのだろう。常川さんは明らかに慌てて取り繕い始めた。
「もう大分前から決まっていたことだし、気にすることはないよ。いやあ、やっぱりこの国は映画に少しばかり風向きがよくなくてね。ウチのような小さい映画館が潰れるのは致し方ないことではあるんだよ。ミニ・シアターに徹することも出来ず、かといって他の映画館で大々的に上映するような派手な超大作ではシネマ・コンプレックスに負けてしまうしね。パラダイス座が潰れるのは仕方がないことなんだよ。時代の流れ、というやつだね」
俺には昨今の映画事情はわからないが、常川さんがどれだけパラダイス座の閉館を不本意に思っていて、どれだけ悲しんでいるかはわかる。久しぶりの再会がこんな場面であることが悔しかった。もっと早くパラダイス座に来ていれば、と思ったが、嗄井戸の件が無ければ俺はこの駅で降りることもなかったのだ。人間はそういう風に、適度に薄情に出来ている。
「暗い話をして悪いね。もう少し明るい話題を提供できればよかったんだけど」
「いえ、そんなことは……」
「少し休んでから、また映画に携わる仕事を探したいと思っているよ。やはり映画が好きだからね。どうにも大人しくしていられない」
常川さんはそう言って笑った。
「いつ無くなるんですか、パラダイス座」
「三日後」
「え、も、もうすぐじゃないですか……」
「まあ君が知ったのは今日の話でも、ずっと前から決まってたことだからね。小さな映画館に派手なさよならイベントは似合わないし、このままフェードアウトさせてもらうつもりだ」
「なんか、寂しいですね」
「終わりはいつだって寂しいものだよ。わかるだろ」
そういうものなんだろうか。俺はとりあえず頷きながらそう思う。もう少し派手にやってもいいだろうし、もう少し悔しがってもいいんじゃないかと思った。パラダイス座は常川さんにとって大切な場所なんだろうし、もう少し意地になって守ってもいいはずなのだ。
しかし、常川さんの顔はなんだか心底色々なものを諦めてしまったようで、俺は何も言えなくなってしまった。一体何がそこまで常川さんを卑屈にしているんだろうと思ったそのときだった。
「おお、どうした。息子か何かか?」
揶揄するような声だった。俺と常川さんが共にいるだけで、可笑しくてたまらないというような声だ。俺は咄嗟に声のした方を睨んだ。そのとき、常川さんが密かに怯えていたことには全く思い至らなかった。
声の主は、でっぷりと太った小さな男だ。灰色がかっているものの豊かな髪の毛と薄い唇は、一見すると紳士の特徴なのに、この男が所有しているというだけでろくでもない代物に見えた。スーツ姿のその男は全身でじっとりと汗をかき、がめつそうな目をこちらに向けている。
「笹沼(ささぬま)さん」
笹沼と呼ばれた男は、ふんと鼻を鳴らしてじろじろと俺と常川さんのことを見た。その動作一つ一つがどんでもなく下品に見えて、よくもまあここまで悪人然とした振る舞いが出来るものだなと思う。
「……俺は常川さんの知り合いですが、何ですか」
うっかり攻撃的な声が出た。どう見ても、男にはあからさまな悪意があった。俺はそれを見過ごせるほど大人じゃないのだ。
笹沼は俺の噛みつきなど何処吹く風で、にやりと笑った。
「ああ、そうだよな。お前にはカミさんがいないはずだったからな。金にも逃げられカミさんにも逃げられだと流石に可哀想だ」
「やめてくださいよ、冗談がきつい」
「お前の現実よりもきついものなんて無いよ」
全く以て笑えないジョークだ。そこで、恨みがましそうな目を向けている俺に常川さんが気が付いたのだろう。取り繕うような形で、笹沼の紹介が始まった。
「こちらは笹沼さんだ。パラダイス座が建っているところの土地を持っていらっしゃる方で、資金援助もしてもらっている」
なるほど、それで常川さんはこんな状態でへこへことしているわけだ。金を借りている相手なら、強く出れないのも無理はないし、笹沼がここまで偉そうにふんぞり返っている理由もわかる。社会の嫌な部分を見せつけられたような気がして、最悪の気分になった。
「実はな、もう大分計画が進んでてな。下見に来たんだ。そしたらお前に会ったんだよ。いや、あ、偶然だなぁ」
「本当ですね」
「もう潰れたんだっけか」
「いえ、まだですね。あと三日は」
「ちゃんと片せよ? 立つ鳥跡を汚さずってな」
「ええ、今もその最中です」
「それで、金になりそうな物はあったか?」
「笹沼さんの御趣味じゃないかもしれませんが、出すところに出せばそれなりにお金になるものはあります。まとめて、今日明日にでもお送り出来ると思います」
「頼むよ。どうせあのボロっちい映画館は大した金になんないんだろう? そこそこのものを出してくれたら、まあそれで手打ちにしようじゃないか」
笹沼は乱暴に常川さんの肩を叩き、もう一度下品に笑った。常川さんよりも背が低いので、なんだか奇妙で可笑しな光景だった。
「あ、そうだ。ついでに蟹でも送ってくれ。そのくらい良いだろう? 世話してやったんだから」
「ああ、是非」
そういうことは自分から言い出すようなことじゃないだろうと思ったのだが、笹沼の方は少しも気にならないようだった。俺の目の中の軽蔑がどんどん色濃くなっていく。その視線をどう勘違いしたのか、笹沼はどこか得意げに言った。
「こいつ北海道出身でな。いい海産物のギフトを知ってるんだよ。こいつの家行ったことあるか? 東京は暑すぎるってんで一年中クーラーガンガンにかけてるんだよ。そんな金も無い癖に、何から何まで道楽だよなぁ」
「そうなんですか」
俺は思わず常川さんの方にそう尋ねてしまった。常川さんが困ったように頷く。知らなかった。『冷え冷え屋敷』の謎は常川さんの出身地に関わるものだったのだ。暑がりというには少しばかり度が過ぎているような気がしたが、まあ、納得できなくもない。
「それじゃあ頼むよ。なるべく早くな。蟹の話をしていたら本当に蟹が食べたくなってきて困った」
笹沼は好き放題言うと、もう一度大きく常川さんの肩を叩き、去って行った。常川さんの肩は叩かれる度嫌な音を立てていて、さする腕は何となく不穏だった。
「……急に土地代が高くなったんだ」
笹沼の姿が見えなくなってから、常川さんがぽつりと言った。
「ある日いきなり、クリエイティブな仕事がしたいと言われたんだ。笹沼さんのやっていることは金貸しと場所貸しだけだからね。要するに、気まぐれだよ。それで、パラダイス座が矢面に立たされた。私は既に笹沼さんに多額の金を借りていたし、私が笹沼さんと争えるような人間でないことは、彼自身がよく知っていた」
「どうにかならないんですか? そんな横暴なやり方、弁護士か何かに頼んでやめさせることは……」
「弁護士を雇っても、あちらがもっと優秀な弁護士を何人もつけたら敵わない。民事裁判なんてそんなものなんだよ。そもそも、私にはそれをする金も無い。嫌な話だけど、パラダイス座は最近業績が不振でね。そうでなければ、理不尽な値上げにも抵抗することが出来たさ。けれど、私はもうずっと前から、値上げされる前の地代や借金の返済に苦しんでいた。限界だったんだ」
「一体なんでそんなことに」
「さっきも言ったろう。彼はクリエイティブな仕事がしたい。その為にあの土地が必要で、私は邪魔なんだ」
「一体クリエイティブな仕事って何なんですか」
俺は絞り出すような声でそう言った。それはパラダイス座よりもずっといいものだろうか。
「パン屋をやるらしい」
「パン屋」
「大型のパン屋だ。大量に作って大量に売る方針のパン屋」
それは少し、……意外だった。笹沼のでっぷりした体型から食べ物を連想するのは簡単だが、よりによって始める飲食店の種類が泣く子も笑うパン屋である。不覚にも、少しだけ面白かった。どの辺りがクリエイティブなのかもよくわからない。
ただ、確実に言えることは、俺はパラダイス座よりも、笹沼が始めるパン屋の方にずっと用があるということだ。俺は今でこそ即席の感傷に浸っているけれど、本来無関心な人間だった。パラダイス座がパン屋になっても構わない側の人間だった。それがパラダイス座を追いこむ一つの原因になった。そういうことなのだ。
責任を拡大するのは恐ろしい思想だし、大変な思い上がりでもある。けれど俺は、無責任に罪悪感を覚えていた。
「……これで名前がパン・パラダイスとかだったら超面白いんですけど」
「それ、大分悪趣味だね」
常川さんは笑っていたが、目に生気が無かった。笹沼と遭遇する前と、明らかに様子が違ってしまっていた。
「何なんですか、あの男。信じられません」
「キャラクター性があるよね、彼は」
「キャラクター性?」
「笹沼さんは、一目見ただけで悪人だって感じでしょう。キャラクター造形としては最高ですよ。セルフプロデュースとしてあれでいいのかは疑問だけどね。あんなに悪の親玉みたいな恰好をしていて、自分では気にならないんでしょうか」
映画が好きな人間らしい感想だった。確かに、あの風体であのふてぶてしさと憎らしさは、ある意味期待を裏切らない。
「常川さんは善い人に見えますよ。パラダイス座のオーナーに相応しいと思います」
「はは、覚えておくといい奈緒崎くん。善人に見えるキャラクターには大抵特徴が無い」
そう言って、常川さんは大声を出して笑い始めた。自分で言ったジョークがツボに入ったらしい。俺も最初は一緒に笑っていたが、じきにその勢いに呑まれるように段々と真顔になっていった。常川さんのその渾身の笑い声は、なんだかよく出来たスタンダップコメディのような、あるいは喜劇役者のような、なんともいえない悲しみに満ちていた。
パラダイス座が潰れなければいいのに、と思った。けれど、それは俺にも常川さんにもどうにも出来ないことだった。確かに笹沼は悪人に見え、俺達にとってはどうしようもない障壁だったが、世の中の『悪』はそう簡単に白か黒かでは決められない。笹沼は商売として金を貸していた。それを回収する権利があるのだ。
俺はなんとも言えない息苦しさを覚えながら、常川さんの仕事を少しだけ手伝う旨を申し出た。小さい頃お世話になった常川さんには、それくらいしか返せることがなかったからだ。
常川さんの方も最初は遠慮したが、「『パラダイス座』を見て欲しい」という気持ちから俺の申し出を受けてくれた。俺はパラダイス座から数個の段ボールを運び出し、常川さんの家へ搬入した。案外重いそれには、常川さんの大好きな映画たちの古いパンフレットが収められているのだという。月替わりで様々な映画のパンフレットを展示するのが楽しみだった、と常川さんは言った。
“冷え冷え屋敷”にはあんなにお世話になったというのに、パラダイス座には初めて訪れた。外観は映画館というよりも小洒落た美術館のように見える、雰囲気のいいレンガ造りの建物だった。
その建物を映画館らしくしているのは、でかでかと掲げられた映画の宣伝看板と、古いけれどしっかりと建物にしがみつく『パラダイス座』の文字だ。一目見ただけでも、とても好ましい建物だった。ここが無くなるのは惜しかった。
中には古式ゆかしいポップコーンとドリンクの売店があり、小さなパンフレット売り場があった。奥には赤い扉があり、そこがスクリーンへの入り口になっているらしかった。
「ここには二つしかスクリーンが無いから、どうしても上映できる本数が限られるんだ。ここはやっぱり、大型のシネマ・コンプレックスに負けるところだね。最近のそういう施設では売店も充実していて、チュロスやホット・ドックなんかも食べられるようだし。やはり、選択肢の幅が広くないとお客は飽きてしまうんだよ」
「さっきも言ってましたけど、そのシネマ・コンプレックスって何ですか?」
「今の子は逆に知らないのか……。複数のスクリーンがある大型の映画館のことだね。多くの作品が上映出来るから色々なお客さんを呼び込みやすいし、設備も充実してる。それに加えてショッピングモールなんかと一緒になっている場合も多いから、あれが出来てから小さな映画館は苦しくなったね。勿論、映画を観る人間があれで増えてくれたのはとても喜ばしいんだけど」
確かに、俺のイメージする映画館もその『シネマ・コンプレックス』の方だ。ショッピングモールに、まるでテーマパークか何かのように悠々と鎮座して多くの客を楽しませる場所。入ることは無いが、見ているだけでもなかなか楽しめる場所だから、嫌いじゃない。
けれど、常川さんの映画館もこれはこれでとてもいいものだった。入ったときの雰囲気がよく、これから映画を観るんだな、という実感のようなものも覚えることが出来る。常川さんのことだから色々なものにこだわっているのだろう。件のパンフレット展示コーナーも、数人のお客さんが楽しそうに見ていた。客の入りは慎ましくても、ここには本当に映画を好きな人が集まっているような気がしてならなかった。
「俺、パラダイス座好きですよ」
映画も観たことがないのに俺が偉そうにそう言うと、常川さんは微笑みながら「ありがとう」と言った。
段ボールを運び入れた『冷え冷え屋敷』の方は懐かしく、変わっていなかった。入ったのは玄関までだけれど、その時点で既にクーラーの心地いい冷気を感じることが出来た。七月終りにはまだ過ぎた冷気のような気がしたが、昔を思い出してなんだかとても感じ入るものがあった。
「『パラダイス座』は無くなるけれど、よければこっちにもまた遊びに来てくれると嬉しいな」
「はい、是非」
常川さんとはそう言って別れた。常川さんは俺のことが見えなくなるギリギリまで手を振ってくれていた。小さな子供を見送るような様子だったが、それもまた心地よかった。
俺は当初の目的を忘れそうになりながらも、下北沢を進んだ。パラダイス座から嗄井戸の家までは程近かった。
このときから、月並みな表現だが、何かが起こる予感があった。フィクションじゃ満足出来ない俺に、紛うことなき『本物』が訪れる気がしていた。それが果たして正しかったのかそうでもないのかは今でもわからない。ただ、喝采の前の静けさのような奇妙な感慨が、俺の中に満ちていたことだけは確かだ。
そして十分もかからない距離を行き、俺はとうとう嗄井戸高久に出会った。