そして、それから丸々一週間が過ぎた。
気が重い案件が二つもあった。一つは前回のこと。嗄井戸の顔を思いっ切り殴ってしまったことだ。よりによって顔しか取り柄が無さそうな弱々しい引きこもりを殴るなんて、完全に俺に非がある。あの日の嗄井戸の、怯えた子犬のような目を思い出すと、流石に罪悪感を覚えたし、第一寝覚めが悪かった。
酷いことを言われたからといってあの対応は無い。いくらなんでも暴力は無しだ。
嗄井戸には嗄井戸なりに何かしら理由があったのだろうし、それを無理矢理引きずり出そうとしたのは俺なのだ。それを勘に障ったからといって殴るだなんて、正直どうしようもないの一言に尽きる。言ってしまえば最低だ。人間としてどうかしている。
最早進級の為も何も無い。教授から出された期限を華麗に過ぎて、ようやく覚悟が決まった。俺は嗄井戸に謝らなくちゃならない。それだけやって、俺はこの一連の全てを終わらせなくちゃならない。
というわけで、俺は再び下北沢に来ていた。初めて来たときにはそんな余裕はなかったが、今回はやけに街の様子が目についた。俺が住んでいた頃と雰囲気は同じなのだが、随分住みやすくなっているように思う。映画のセットとしてよく映えそうな街なのに、ここでちゃんと生活をしていけるという安心感がある。スーパーやコンビニが景観を損ねずにちゃんと取り入れられているからだ。
実を言うと俺は一層この街が好きになってきていた。思い出補正もあるのかもしれないが、なんというか魅力的な街だ。一本裏道に入るだけで、街の様子がぐっと親しげになる。枯れた植物が無節操に刺さる植木鉢がこんなに微笑ましく見える道なんて他にない。
けれど、下北沢には憂鬱な場所もあった。気の重い案件その二、無残にも潰されたパラダイス座である。
嗄井戸の家に行く為には、冷え冷え屋敷・常川邸かパラダイス座の前のどちらかを通らなくちゃならないのだ。他に道を知らないので、下手にルートを変えたら迷う可能性がある。けれどきっと、もしまた常川さんと鉢合わせ、彼の浮かない表情を見てしまったら、もう俺はどんな反応をしていいかわからない。ポーカーフェイスが得意ではないという自覚があるから、あっちの方だって気まずいだろう。
こういう気まずいタイミングの方が得てして巡り会いやすいものなのだ。人生ってとことんままならない。
せめて常川邸の方を通らないようにして、と、俺はもう無いであろうパラダイス座の方を回った。せせこましい抵抗である。こんなことをしたって出くわすときは出くわすのだが、それくらいしか出来ることがないのである。パラダイス座は一体どうなっているんだろうか。せめて工事の人間が取り壊している場面も見なくてすみますように、と密やかに祈る。
そして俺は、信じられないものを見た。
パラダイス座はまだ取り壊されることもなく残っていた。その点には酷く安堵した。だが、問題はここからだ。パラダイス座には、多くはないが以前と変わらずに人が出入りしている。服装からして明らかに工事の人間でも業者でもなく、映画を観に来た一般客だろう。俺は信じられないものを見たような気分で二、三度目を擦ったが、パラダイス座は露と消えずにしっかりとそこにあった。
この世のものではないものを見るような目をして、俺はふらふらとパラダイス座に吸い寄せられた。パラダイス座が営業している。まさか、閉館が延期になったのか? それにしては妙だった。何しろ、赤レンガの壁に大きく貼られていた、『閉館のお知らせ』の紙が無い。延期ならそう書いた紙を貼っておくはずだ。そうでないと、混乱の種になる。
茫然としたまま、パラダイス座の中に入る。客がいて、売店が営業していて、常川さん自慢のパンフレット展示コーナーがまだある。しかも、前回とは違うラインナップだ。パラダイス座の余裕が見てとれる。
俺は狐につままれたような気分で、パラダイス座の中を見て回った。目的は勿論、館長である常川さんを見つける為だ。上映のベルが奥で響く。一体どうなっているんだ?
「どうしたんだい、奈緒崎くん」
狼狽した俺の背に、聞き慣れた声がかけられたのはそのときだった。振り蹴ると、そこにはスーツを着た常川さんがいた。いかにも館長、というような堂々とした佇まいだった。前回会ったときの悲しげな風貌でもなく、“冷え冷え屋敷”に俺を招いてくれたときの柔和なおじさんでもなかった。今日の常川さんは、この上なくパラダイス座の館長に相応しかった。
「奈緒崎くんも映画を観に来たのかな?」
「いや、そうじゃなくて……」
言っていいものか一瞬だけ迷った。もしかすると、今の状態は素晴らしい夢で、俺が無粋なことを言った瞬間魔法が解けてここが更地になる……なんて、くだらない想像をしたのだ。
「どうしてパラダイス座がまだここにあるのか……気になるのかな?」
俺の動揺を察したのか、親切にも常川さんはそう尋ねてきた。
「いや、その……まあそうですね。俺は正直な話、ここが無くなって常川さんが落ち込んでるんじゃないかと思ってしまって……」
「ありがとう。嬉しいよ。でもね。平気なんだ」
「平気?」
「そう、平気なんだ」
そう言って、常川さんは笑った。幸せそうな笑みだった。
「パラダイス座の取り壊しは無くなったんだよ。立ち退きも無しだ。だから、これからもパラダイス座はあり続ける」
「え……? 本当ですか? 一体どんな気まぐれで!」
でも確かに、あの男は随分な気分屋に見えた。一朝一夕でこしらえたパン屋の憧れだったら、一夜の内に消えてしまってもおかしくない。
「気まぐれじゃないよ。笹沼さんはああ見えて結構頑固でね。一度決めたら無理にでも押し通そうとする人なんだ」
「え……それじゃあなんで……」
「笹沼さんは亡くなったんだ」
「……え?」
「嘘みたいな話だけれどね、本当なんだよ。笹沼さんの家が火事になって、大量に煙を吸い込んだ笹沼さんはそのまま意識を失った。家も全焼したんだ。それで、パラダイス座閉館の話も立ち消えになった」
「それは……」
おめでとうと言うべきなのか、それともお悔やみを申し上げるべきなのか。不謹慎という言葉と笹沼のあの胸糞悪い笑顔が頭の中でぐるぐる回る。結局俺は何より先に「おめでとうございます」と言っていた。当事者である常川さんが笑顔だったからだ。
「当事者が死んでしまったからね。これからどうなるかはわからないんだけど……笹沼さんには妻子共にいらっしゃらなかったしね。私はそういう法律関係には疎くて……ともあれ、パラダイス座の閉館は無しだよ。嬉しいことだ」
嬉しいことだ。奇跡だ。ありがたいことだ。
俺の脳が情報を処理出来ずにぐるぐると無意味な回転を続ける。何と言っていいのかわからなくて、言葉が出てこない。無言はいつだって勝手に解釈を施されるというのに、俺は何も言えなかった。奇跡の火事、笹沼さんの死。だって、そんなのは、まるで――
黙っている俺に押し付けられた解釈は、最も手酷く容赦ないものだった。さっきよりずっと冷たい目をした常川さんの口が開く。しまった、と思ったときには、既に遅かった。
「奈緒崎くん」
「は、はい。何でしょう」
「言っておくけどね、私は笹沼さんの家が燃やされたとき、ずっとパラダイス座にいたんだ。なにしろこのオンボロ映画館でも、最後となったら沢山のお客さんに来てもらえてたんだから。私にはアリバイがある」
「別に俺は、常川さんを疑ってるわけじゃ……」
「わかってる。でもね、私のことをそういう風に言う人間もいるってことさ。何しろ、本当にタイミングが良すぎるからね。でも、誓って私はそんなことはしていない。していないんだ」
常川さんは念を押すようにそう言った。その言葉を聞く度に、俺はどんどん暗い沼に沈んでいくような気持ちになっていった。だってそうじゃないか。そういう言葉は、聞けば聞くほど心に傷を残すのである。常川さんの言葉を信じたい。信じたいのに、天邪鬼な俺はそれを信じず、ポーカーフェイスが下手な俺は、如実にそれを常川さんに伝えてしまう。
「……もし君が本当に私を疑っているのなら、どうやって私が神様になったのかを答えて貰おうか。奇跡なんてそうそう起こらないと思うかい。起こるんだよ。そのくらい良いじゃないか。映画では、あんなに沢山起こっているんだから」
「俺は常川さんを疑いたくありません」
「知ってるよ」
その目に俺は、まだ子供に見えているだろうか。ここでこれ以上言うべきことなんて一つも無かった。俺はパラダイス座に背を向けて歩き出す。常川さんの視線が背に焼き付いて焦げ付いた音を立てる。
世の中には酷いことが沢山あって、どうしようもないことも沢山あるのだと理解している。けれど、どうしてここなんだ、と本気で嘆いた。よりによって、どうして不幸の係留地がパラダイス座なのか。常川さんの場所なのか。
そして奇跡が起こって、笹沼が死んだ。常川さんの預かり知らぬところで炎にまかれて無残に死んだ。パラダイス座を潰そうとした罰で、呪われてしまった。パラダイス座は取り潰しを免れ、これからもあそこにある。
でも、俺はどうしてもこれを奇跡と呼ぶ気にはなれなかった。
だって奇跡はもっと美しくて、もっとご都合主義で、もっと後腐れなく幸せなものじゃないといけないはずだからだ。
俺はそのまま変わらず目的地へと向かった。嗄井戸の住む、銀塩荘だ。このときの俺の頭からは当初の目的なんかはすっかりと抜け落ちてしまっていて、ただただこのことを嗄井戸に伝えなくてはいけない、とそれだけが頭にあり、足を向かわせた。当初の予定を思い出したのは、不機嫌そうな顔で出てきた嗄井戸の顔が見るも無残なことになっているのを見てからである。うっかり言葉を失いそうになりながら、それでも俺は「話がある」と絞り出すように言った。
「僕には無い」
嗄井戸はそう言って無慈悲に扉を閉めようとした。慌てて悪徳セールスマンのように足を挟んでそれを止める。嗄井戸の顔がますます不機嫌になっていたが、気にしてはいられなかった。俺は形振り構わず続ける。
「大事な話だ。パラダイス座の話だ。奇跡が起きた。閉館は無くなったんだ」
「奇跡?」
その瞬間、嗄井戸の表情が変わったのがわかった。大きな目が更に大きくなり、口元が少しだけ緩む。完膚なきまでの引きこもり、世間との関係を断絶する男にはそぐわない、素晴らしい食いつきようだった。
「興味あるだろ」
「どれに? パラダイス座に? 奇跡に?」
「こういう面白いことにだよ」
不謹慎な物言いだったかもしれない。けれど、まず間違いなく嗄井戸は楽しんでいた。
俺は常川さんから聞いた『奇跡』の顛末を語って聞かせる。嗄井戸はその間、一言も口を挟まなかった。
「へえ、仇の家が炎上、ね。物騒な奇跡もあったものだ」
「話を聞いてくれないか。頼む」
そう言った瞬間、扉の抵抗がふっと緩まる。嗄井戸が無言で中へ入っていくのを見て、その背を追った。
一連のことを話しながら、俺はずっと嗄井戸の顔を見ていた。反応が気になったからじゃなく、顔の傷が気になったからだ。傷は控えめに言っても酷いものだった。悲惨というか惨い。一言で言うなら、うわあという感じだった。美形の顔が無残に傷つけられているというのは、なんというか、とんでもない悪徳な気がした。他の凡百の人間の顔が傷受けられているのに比べて、罪悪感が三割増しである。
でもまあ、幸いなことにそこまで痛がっている様子もない。話に聞き入っているからそう見えるだけかもしれないが、少しだけ安心する。
「俺は、正直な話そんな偶然があるなんて思えない。でも、アリバイがあるんだ。……常川さんは執拗に『従業員にも聞いてみるといい』って勧めてきた。自信があるんだ。動かしようのない自信が。放火があった日、ちゃんと常川さんはパラダイス座にいたんだ。放火なんてしていない。事件発生時刻に確かに常川さんはパラダイス座にいたんだ。こんなことってあるか?」
俺は解答を急かす子供の様にそう言った。本当は、真相を教えて欲しいと言うよりは、俺に同調して「ありえない」と言って欲しかった。キャストに言われても常川さんに言われても信じられない最低な自分を看破して、常川さんを信じさせてほしかったのだ。
「へえ」
けれど、嗄井戸は首を振って、俺の全く期待していない言葉を吐いた。
「話はわかったよ。なるほど、そうか。でもよかった。映画館を潰すなんて言語道断だからね。そんな奴、死んで当然だ。そんな無粋な奴を殺すなんて、常川さんはいいことをしたよ」
嗄井戸の言葉に息を飲む。そして、俺はゆっくり尋ね直した。
「お前、今何て言った?」
「常川さんはいいことをした」
「その前」
「死んで当然」
「少し後」
「無粋な奴」
「を?」
「殺すなんて、いいことをしたよ」
「それだ!」
「何? 説明してくれよ」
「奇遇だな。俺も説明して欲しいんだ」
「……何を?」
「のび太くんみたいな顔をするなよ。お前はドラえもんになる発言をしたぞ」
「それって解決役ってこと? ……せめてホームズ役とワトソン役で例えて欲しいんだけど……」
「常川さんは、笹沼を殺したのか?」
俺はしっかりと目を見てそう言った。嗄井戸はしばし目をぱちぱちと忙しなく瞬かせていたが、そのまま黙って頷いた。
「僕は長らく無神論者でね。神様は映画の中にしか存在しないものだと思っている。というわけで、そんな奇跡なんて起こりはしないよ。完ッ全に常川さんが笹沼殺しの犯人だろうね。いやはや、なかなか凄いことをするものだ」
「……嘘だろ」
「残念ながら、僕にはそうとしか考えられないよ。奈緒崎くんの期待に沿えなかったら申し訳ないけどね」
「そうなのか……」
全く期待に沿えない解答だったし、さらっとそれを言ってのける嗄井戸のことも信じられなかった。けれど、俺は何となく、腑に落ちたような気分にもなっていた。何と説明していいのかわからないが、何故だか俺は『嗄井戸が言うならそうなんだろう』と、思ってしまっていたのだ。このときの俺と嗄井戸の関係なんて、引きこもりとその同級生以上のものじゃない。それなのに、妙に俺は嗄井戸の言葉を信用していた。
理由は今でもわからない。しかし結果的に、俺の勘は合っていた。嗄井戸は少し考え込んで、こう続けた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「僕の予想が正しければ、常川さんは笹沼に何か贈り物をしたんじゃないか? それが何かわかればいいんだけれど……難しいか」
「いや、わかる」
俺はあのときその場にいたからだ。笹沼の奴が常川さんに笑う光景。
「……常川さんは北海道出身で、それで、クール便で蟹を」
「蟹! いいね。蟹はいいものだよ。あんなに強そうで格好良くて、皮を剥けばとんでもなく美味しい生き物は他にいない」
嗄井戸は楽しそうにそう言って笑うと、不意に真顔になってこう続けた。
「常川さんはまず間違いなくそのクール便に蟹以外の何かを入れたね」
「だが、爆弾とかなら流石に気付かれるんじゃないか? 笹沼だってそれほど馬鹿じゃない」
「それが爆弾に見えなかっただけだろう。僕の予想が正しければ、普通の人間はまずそれが凶器だなんて思わない」
黒い毛布をマントのように被りながら、嗄井戸はそう言った。
「一体、凶器って何なんだ」
「奈緒崎くん、君が言うなら、僕は別に探偵役を買って出てやっても構わないよ。だが僕は外に出られない。真実をどう扱うかは君次第だ。一任する。それでも君は聞きたいのか? 僕は何の責任も負わないぞ」
探偵役に相応しくない注意書きの多さだった。責任も何も無いし、多分こいつは好奇心だけで動いている。常川さんのことはあくまで他人事で、一つの興味深い事例の一つだと思っている。
それでいい。キザったらしい前口上も、『さて』から始める解答編も、面倒なことは全て引き受ける。
「いいから俺に丸投げしろ」
「オーケイ、謎は全て解けた。終幕だ。傑作だったな」
嗄井戸はそう言って、ボロボロの顔でにんまりと笑った。
なんだかとても、楽しそうな笑みだった。
俺は、再度常川さんのもとに足を運んだ。正確に言うならパラダイス座に向かった。俺は映画を観ないから、この場所にくるのは殆ど片手で数えられる程度である。小さい頃に母親に連れられて観たアニメ映画が最初で最後かもしれない。それが『ドラえもん』だったかどうかは定かじゃない。
常川さんに会いたいという旨を受付の女の子に伝えると、案外すんなり取り次いでくれた。常川さんは元からフレンドリーに来客を受け入れる性質だったらしいし、俺と常川さんは、一応旧知の中である。
「ああ、奈緒崎くん。どうしたのかな」
「常川さん、お話があります」
「それは、ここじゃ駄目な話?」
「あまりよろしくないと思います。もし常川さんの手が離せないようだったら、再度出直しますが」
常川さんは少し考えるような素振りを見せていたが、やがて、柔和な笑顔と共に口を開いた。
「私の家――君が言うところの『冷え冷え屋敷』でどうだろう。相変わらず寒いが、大丈夫かな?」
俺が大きく頷くと、常川さんはいつものような笑顔で、俺を先導する。笑ってしまうほど普通だった。これから起こることが想像出来ないくらいだった。
久しぶりに足を踏み入れた冷え冷え屋敷は、思い出の中とは違っていた。多分、物が少ないのもクーラーが相変わらずガンガンと利いているのも、前と同じだろうに、カーテンの閉め切られた部屋は電気を点けていても薄暗かった。
寂しい部屋だ。寒いからそう感じるのかもしれないし、物が極力排された空間だからそう思うのかもしれない。とにかく、この部屋は人の住む家というより、本当に倉庫のような感じだった。生活感が無い。
嗄井戸の部屋と同じく、壁には高級そうなスクリーンがかかっている。ここで俺は、常川さんに映画を見せて貰ったのだ。
「相変わらず凄いスクリーンですね」
「実はね、これとは別にもっと凄い映写室があるんだよ。私が個人的に使っているものだから、奈緒崎くん達には見せてあげなかったけれど」
「え、そうなんですか」
「閉店後のパラダイス座さ」
そう言って常川さんは悪戯っぽく笑った。確かにその通りだろう。
「それで、奈緒崎くんはどうしたの? 君は映画に興味が無いんだと思っていたけど」
「ああ、そうです。俺、全然映画を見なかったんです。だから気付かなかった」
「気付かない? 何に?」
「映画を見る人でも、事件の真相を即座に暴くのって難しい。だって現実と映画は違うものだって思い込んでるから」
「事件? 穏やかじゃない物言いだね」
「でも、俺の知り合いの、嗄井戸って男は違うんです。だって、嗄井戸にとって映画は現実だから。それが世界の全てだから」
「つまり、どういうこと?」
「常川さん、笹沼さんを殺したのは貴方ですね」
まさか自分がこんなセリフを言う日が来るとは思わなかった。でも、仕方がない。今の俺は嗄井戸高久だ。引きこもりの名探偵の口である。
常川さんは黙っていた。次の言葉を待っている。
嗄井戸の言葉を待っている。
「『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画があってね」
そう嗄井戸は話し始めた。
俺が素直にその映画を見たことがないと言うと、嗄井戸は散々俺の教養の足りなさを罵り(ここで危うく殴り合いの喧嘩に発展しかけた)、その後で静かにその映画のあらすじを語り始めた。
「舞台はシチリア島の小さな村でね、その村には教会兼映画館をやっている小さな『パラダイス座』があったんだ。Cinema Paradiso」
俺はその名前に聞き覚えがあった。多分、少しでも映画を見る人間ならすぐにピンとくるだろう、その名前。
「常川さんの映画館の名前と同じ……」
「多分、ここから取ったんだろう。その映画館に勤める映写技師のアルフレードと、映画に魅せられ彼に懐く少年トトの交流の話なんだ。村の娯楽は映画館しかないんだけど、何せ場所が教会だからね。その映画にはとある酷い処置なんかもされていたんだけど、その処置に怒る住人達も、新作映画の封切りに殺到する住人達も、なんだかとても愛しいんだ。監督が、そういうのを描くのが上手い人でね。トトとアルフレードはどんどん絆を深めていくんだけれど、ある日事件が起こる」
「事件?」
嗄井戸の語り口は、まるでその悲劇を実際に見て来たかのようだった。嗄井戸は、静かに言う。
「パラダイス座が火事になるんだ」
「常川さんも、『ニュー・シネマ・パラダイス』は知ってますよね」
「ああ、勿論だ」
映画では、愛しいパラダイス座は火事で焼け落ちてしまうのだという。そのときに大切なアルフレードの目も失われてしまって、彼は二度と映画を見ることが叶わなくなる。その話を聞いたとき、胸が詰まった。なんて映画だ、なんて話だと無責任に思った。その後も、映画は続いていく。
けれど、重要なのはそこじゃなかった。
常川さんは完全に俺の言いたいことをわかっているだろう。でも、独りでに真相を語ってくれる様子はない。あくまで俺の口から、真相を暴かせるつもりだ。逆に言えば、それすら出来ないくらいなら、もうこの事件に関わるな、ということなのかもしれない。
俺は真っ直ぐに常川さんを見て、ここから逃げ出したりしないことを誓う。俺は嗄井戸に真相を教えられてしまった。そうなったらもう、暴くしかない。
「常川さんも知っての通り、『パラダイス座』を燃やしたのは、映画のフィルムでした。出火元はそれなんです。あの頃映画用に使われていたニトレートフィルムはニトロセルロースが使われていた所為で燃えやすかった。アルフレードも映画の中でそう言っていたそうですね。実際に、日本でも何件か、ニトレートフィルムが原因の火災が起きている」
ニトレートフィルムは二十五度以下で保存しないと自然発火する可能性のある、取扱いの極めて難しいフィルムだ。大量のフィルムを所蔵・保管している日本フィルムセンターでも、一九八四年に同じように火災が起きている。その日も気温は三十五度から八度を超えていた。そして、フィルムは発火してしまった。
「常川さんがいつもクーラーを効かせた家に住んでいたのもこれが理由だ。常川さんは、ニトレートフィルムを所持しているんでしょう? それも、大量に。それの自然発火を防ぐ為に、常川さんはずっとクーラーを効かせていなくちゃいけなかった」
「……面白い話を知ってるね」
「ただの暑がりだと言うなら留守中にクーラーを掛けていく必要はない。あのクーラーは、常川さんの為じゃなくフィルムの為だったんでしょう? ……もしかして、笹沼が言っていた『金になるもの』って、そのフィルムだったんですか?」
それは貴重で高価で、とっておきの宝物だったに違いない。パラダイス座を常川さんは愛していた。フィルムだってそうだ。だって常川さんは、映画が大好きなのだ。
それを笹沼は奪おうとした。だから殺した。殺すしかなかったのだ。
「私の財産なんて、フィルムくらいのものだからね。それで?」
「つまり、笹沼さんを殺したのはパラダイス座を燃やしたのと同じ凶器ですよ。貴方が持っていたニトレートフィルム。笹沼の家に入れるのは簡単です。それを蟹と一緒のクール便に入れて、一緒に送ればいいんですから。蟹と一緒に送られてきたフィルムの束に違和感を覚えども、笹沼がそれを危険なものとみなすことはないでしょう。……笹沼は映画を観ない。送られてきたそれを、ただの金の卵としか思えず、暑い部屋に置いてしまう。焦ることはありません。相手は何の警戒もしないんですから、勝手に発火してくれるのを待てばいい。温度が引き金になるんだから、発火するのは九割方日中でしょう。日中、常川さんは仕事に出ている。……完璧なアリバイがある」
そして、火事は起こった。笹沼は死んだ。パラダイス座と映画を守るという常川さんの目的は、見事に果たされたのだ。
「これが、今回の火事の真相です。これは計画的な放火だったんでしょう? 大事なコレクションのフィルムを切ってまで、常川さんは大切なものを守りたかったんだ」
そうまでしてでも、常川さんはパラダイス座を守りたかった。
その愛情だけは正しかった。でも、それだけだ。
「……面白い話だね。君の友人は大した名探偵らしい」
「嗄井戸は、切られたフィルム、そのタイトルまで当てました」
「……そんなことまで出来るのか? その子は超能力者か何かなのかな?」
「エスパーじゃないかもしれないですけど、あいつは外しませんよ。……どうやら奴は、常川さんと同じく、死ぬほど映画を愛しているようですから」
この凄惨な事件の謎解きをしているというのに、あいつの目はキラキラと恐ろしいほどに輝いていた。映画のことが本当に好きなのだとわかると同時に、その姿は白髪と相まってとてもおぞましく見えた。全てを話し終えた後に、嗄井戸は無邪気な声でこう言った。
「ところで奈緒崎くんは、常川さんにこの事件の真相を暴きにいって、罪を償わせるつもりなのかな? 確かに、大事なフィルムを切るなんて許されないからね」
それを聞いて、俺は麗しの優先順位を知り、密かに震えた。嗄井戸の中では殺人よりも映画のフィルムを損壊したことの方が罪で、映画館を不届きにも潰そうとしたことは他の何より悪なのだ。
それを聞いたとき、俺はこの事件を暴こうと決めた。これを殺人事件として糾弾出来る登場人物が、一人でもいないといけないんじゃないかと思ったからだ。
その役を担えるのは俺しかいなかった。責任を取ると、嗄井戸に約束してしまったからだ。
「タイトルがわかる? 私が所有しているフィルムすらわからないのに、どうしてタイトルがわかるって言うんだ?」
「美しいからです。映画は総合芸術です。観て楽しく、心を震わせ、美しくなければいけません。細部に神は宿るんです。だから、常川さんがそこを外すとは思えない、そう言っていました」
「それじゃあ聞こう。私が切り取ったフィルムのタイトルは何かな?」
俺は、嗄井戸が言っていた映画のタイトルを、心の中で復唱する。
「『ヴィッジュの消防士たち』」
その名前を聞いた瞬間、常川さんの表情が凍った。どうやら正解だったようだ。ああ、確かに。そうでなくては。そこまで合わせないと美しくない。
「『ヴィッジュの消防士たち』は『ニュー・シネマ・パラダイス』で、パラダイス座が火事になったシーンで、アルフレードが上映していたフィルムです。尤も、俺は見たことがありませんけれど。……常川さんがどれほどのコレクターだかはわかりませんが、こんなに美しい殺害方法を選んだんだから、使用したフィルムはこれ以外に無いだろう、と」
「……なるほど、美しい……美しい、ね。それにしても、『ヴィッジュの消防士たち』を知っているとは思わなかったよ。君の友人は映画が好きなんだな」
「友人と言っていいかはわかりませんが……」
「『ヴィッジュの消防士たち』のフィルムは、私のコレクションの内の一つだった」
俺はハッとして常川さんの方を見た。常川さんはもう俺の方を見てはいなくて、ただじっと、奥の扉を眺めていた。俺が想像もつかないような映画のフィルムが収められているはずの部屋だろう。
「常川さんは映画を愛している。『ヴィッジュの消防士たち』のフィルムが切り取られているはずだ。もし、常川さんが本当に潔白なら、……切られてないフィルムを見せてください。そう、嗄井戸の奴が言ってました。もし、常川さんが犯人じゃないのなら……俺に、『ヴィッジュの消防士たち』を見せてくれませんか?」
勿論、犯行に使われていたフィルムが他の物である可能性は十二分にある。そもそも、『ニュー・シネマ・パラダイス』に合わせる必要なんて本当は無い。そもそも常川さんが俺にそれを見せる義務もない。無理矢理家宅捜索でもしなければ、常川さんの犯行は露見しない。切り取られたフィルムが見つかっても、言い逃れはいくらでも出来る。
でも、俺は――正確に言うなら嗄井戸の奴は、確信していた。
「これは復讐だからね」
嗄井戸は、まるで自分が犯人であるかのような顔をしてそう言った。
「映画を愛する者が、映画を冒涜する人間に対して行う復讐だ。ただ放火するだけなんて赦せないよ。そうじゃないと、映画に申し訳が立たないだろう?」
映画を冒涜した人間を、映画で殺す。その為には、最高のお膳立てをしなくちゃならない。それこそ、映画のように、隅々まで手が回されていなくてはならない。
嗄井戸はそう考えたのだ。名探偵さながらに、一人の映画好きとして。
「火事になるのは不幸だった」
「……え?」
「映画の話だよ。『ニュー・シネマ・パラダイス』。パラダイス座が火事になるシーンは、見る度に胸が痛んだ。アルフレードと同じくらい私は身悶えた。けれど、直前のあのシーン。上映される『ヴィッジュの消防士たち』が、あんまり楽しそうだから、私は何も言えなくなってしまう」
俺はその映画を観たことがないので、何とも反応出来なかった。それが、この上なく歯がゆく思えた。こんなことなら、ちゃんと映画を観ておけばよかった、と思った。
「『ヴィッジュの消防士たち』。あれはいい映画だよ。私が持っているフィルムでもない限り、おいそれと見られないだろう。正当な方法ではね」
「……そうなんですか」
「でも、私にはそれをもう、君に見せてあげられない」
常川さんは静かに言った。クーラーが効いた部屋の中で、機械音だけが鳴っている。
「それじゃあ……」
「ああ、切ってしまったよ。大切なフィルムだったのにな。愛していたのに」
それは痛ましい自白だった。恐ろしい犯罪についての話をしているというのに、何とも美しい言葉だ。
「ああ、奈緒崎くんに言われた通りだ。私は笹沼にフィルムを送りつけ、殺した」
淡々と、常川さんがそう告げる。ある種望んでいた言葉だったのに、味わったそれはどうしようもなく苦い。
「やっぱり、パラダイス座の為に殺したんですか」
「あの男が死ぬかどうかなんて本当はどうでもよかった。賭けだったんだ。私の愛した映画で、あいつが痛い目に遭えばそれでよかったんだ。あのケチ屋敷が燃えたら少しは反省するかもしれないってね」
でも、そうはならなかった、と続ける。
「あいつは燃え盛る部屋に飛び込んだ。親愛なる映写技師アルフレードのように。でも、そこに映画を愛する気持ちなんてなかった。『貴重な映画のフィルムだ、きっと高く売れる』と言い含めておいたからね。火種が何なのかすら知りもせずに、金の卵がおじゃんになると思って燃え盛る部屋に飛び込んで、煙にまかれて死んだんだ。ただ、それだけだ」
「……殺すつもりはなかったんですか」
「殺すつもりはなかったけれど、死んでくれてよかったと思っている」
ぞくりとする言葉だった。そう言う常川さんには迷いがない。映画を軽んじて踏み躙った笹沼に、嗄井戸が向けたものと同じ表情だった。
「私は後悔していないよ。あいつが死んだのは天罰だなんて、そんなことまで思っている。後悔なんて出来るものか。あいつは、私の大事なものを、踏み躙ったんだ」
そう語る常川さんは、もう俺の知っている常川さんじゃなかった。冷え冷え屋敷の優しいおじさんではなく、大事なものを守る為にどんなものでも犠牲に出来てしまう強い意思が見える。
俺にはそれほど愛せる何かが無かった。それに気が付いたとき、俺はこの事件の真相を聞いたときよりもずっと失望していた。それがどういうことなのかはわからない。冷え冷え屋敷の中で、クーラーだけが悠々と自分の役割を果たしていた。