嗄井戸の住んでいる場所は小ぢんまりとした二階建てのアパートだった。屋根は薄汚れた朱色で塗られており、そこそこ年季が入っていた。二階に三部屋、一階に四部屋分のドアが見える。錆びた看板には『銀塩荘(ぎんえんそう)』と書かれていた。いや、よく見るとその上から無理矢理文字が上書きされている。『シルバーソルトハイツ』。……どうやら英語表記にしたかったらしい。
住所によると、嗄井戸の家は二階に上がってすぐの部屋のようだった。表札も何も掛かっていない無愛想な扉の前で、意を決してインターホンを鳴らす。ピンポーンという安っぽい音が辺りに響いた。
俺は嗄井戸がどんな男であるかを教授に殆ど聞いていなかった。このとき知っていたのは嗄井戸が英知大学の学生であること、優秀な学生であること、引きこもりであることの三点である。引きこもりである以上、マッチョな大男は想像していなかったのだが、それじゃあどういう、と言うとちゃんとしたイメージを持っていたわけでもない。精々、陰気そうでステレオタイプなガリ勉を想像したくらいだ。
だから、億劫そうな雰囲気を醸し出して扉から出てきた男を見たとき、俺はそれが目当ての人物だとはすぐには気付けなかった。出てきた男は、俺の想像よりずっと外れたところにいる人物だったからだ。
髪が白い。
馬鹿げた感想だが、それしかまずは出てこなかった。
白い肌に痩せた身体、身長は百八十センチある俺よりやや低いくらい、艶めいた、白い、髪。ぎょっとした。どう見ても同年代なのに、その髪は老人のような色をしている。
ビジュアル系バンドにハマっているんだろうか? と思うような奇抜な髪の色だった。けれど、それにしては服装が地味だ。黒のシャツに黒の綿ズボンという、真夏のビーチに全く似合わなそうな服装。ピアスをぼこぼこと開けているような様子も見えないし、髪の色以外に派手な所はない。となると、どうしてこんな色にしているんだろうか?
派手な所は他にないと言ったが、強いて他に派手な部分を挙げるとすれば、それは男の顔立ちだった。男は仏頂面をしているが、表情さえ抜きにすればまるで人形か何かのようなシンプルな美形だった。端正に作られた顔のパーツが収まるべきところに収まっている、という印象である。それがなんだか人工的に見えて、少しだけ気味が悪かったが、美形とは得てしてそういうものなのかもしれない。
正直に言って、ここまで端正な顔立ちをした男を俺は見たことがなかった。本当に何から何まで人形染みていた。人形なら、ここから出られなくても仕方がない。そう思わせられるほどだった。
「あ……どうも。元気か?」
白髪の男は俺のことをつまらなそうな目で一瞥すると、おもむろに口を開いて、「好きな映画は?」と、ただ一言だけ聞いた。
俺は当然のように不意を突かれた。だって、初対面の相手に尋ねるのが名前でも用件でもなく『好きな映画』なんて、どう考えてもおかしいんじゃないだろうか? まるで出だしから失敗したお見合いみたいだ。何と答えていいか迷っている俺に対して、男は視線で答えを急かしてくる。たまらず、俺は頭に浮かんだ一本の映画の名前を口にした。青い海、青いシルエット、迷宮への入り口。
「ドラえもん……」
言ってしまってから後悔した。よりによってどうしてドラえもんなんだろうか。大学生が口にするタイトルとしては、それは明らかに可愛らし過ぎる。常川さんと再会したばかりの所為もあるだろう。もっと他の映画のタイトルを言えばよかった。『ハリーポッター』だとか、『ゴジラ』だとか。両方とも観たことは無いが。
けれど、男は真剣な顔をして、こう尋ねてきた。
「ドラえもん? どれ?」
「あの、よく覚えてないんだが……ドラえもんが敵に捕まったりして……、そうだ、ホテルの地下に顔みたいな模様のゲートがあって」
「ああ、『ブリキの迷宮』だね」
「ブリキの迷宮?」
「なるほど、ドラえもんの映画か。僕は『魔界大冒険』が好きだな。パラレルワールドの概念をあれほど恐ろしく思ったことは無いね。しずかちゃんはいつだってドラえもんとのび太くんに助けて貰えるけれど、無数のパラレルワールドの中の一つには、きっとしずかちゃんが無残に殺されてしまう世界もあったんだろうね」
「はあ?」
「それがわかってたからこそ、僕達はあの物語を楽しみながら、少しだけあの物語に怯えていたんだな、うん」
俺はドラえもんを素直に楽しんでいたので、別に怯えたりはしていなかったのだが、男はうっとりしたような目つきでそう語った。引きこもりは自分の世界に閉じこもりがちなんだろうという偏見が元々あったのだが、今回ばかりはそれが綺麗に当てはまっているような気がする。
こいつは多分、人の話を聞かない。
「それで、他に何の映画が好き?」
男は全く俺を家にあげようとせずに、玄関に立ったままそう話し始めた。どうやら、客を招き入れるという選択肢はこいつには無いようだ。丁度いい。俺だってはみ出し者二人で仲良くお茶でも飲もうという気はない。あくまでビジネスライクに、この仕事を終わらせたいのだ。俺はわざとらしく溜息を吐いて、男に本題を切り出した。
「話したいのは山々なんだが、俺の目的はそれじゃないんだ」
「どういうこと?」
「俺は奈緒崎と言うんだが、お前の同級生で……つまり俺が言いたいのは、大学のことで……」
「大学?」
男が口にするその言葉は遠い異国の地名のようだった。現実味がまるでなくて、その話を切り出した俺が狂人であるみたいに。目の前の白髪の男が宇宙人で、たった今この星にやってきたと言われた方がずっとしっくりきた。宇宙人に地球の話をしても、そりゃあわかりっこないだろう。俺はすぐさま踵を返して帰りたくなった。
「そう、大学。というか、お前は……お前が、嗄井戸なのか?」
けれど、進級がかかっている以上、ここで退くわけにもいかなかった。俺が意を決してそう尋ねると、男はゆっくりと首肯した。
「そうだよ、僕が嗄井戸だ」
「じゃあ、」
「しかし、大学はもう行かない。もし僕に『学校に来てほしい』だとか、そういうことを期待してるならどうぞ帰ってくれ。どうせ高畑教授なんかからの差し金だろう? 全く、あの人にも困ったものだ。まるで義務教育じゃないか! 仮にも象牙の塔を名乗るなら、学生の自由意思を認めて欲しいものだね。まあ、ご足労どうも。それじゃあ」
そう言って、嗄井戸は躊躇なくドアを閉めようとした。慌てて足でそのドアを止めると、嗄井戸は綺麗な顔を思いっ切り不快そうに歪ませて、俺のことを睨む。
「……何?」
「いや、ちょっと待ってくれ。そうだ、俺は高畑教授に頼まれてきたんだ。お前を大学に連れ戻してくれって」
「それなら答えは言った。僕の答えはノーだ。帰ってくれ」
「そういうわけにもいかないんだ。俺の進級がかかってる」
「進級?」
「お前を大学に連れてこれたら進級させてやるって言われたんだ。だから、このままお前に閉じこもられてると困るんだよ!」
なりふりを構っている場合じゃないので、玄関口で大声を出した。正直、この様子だと大学に継続して通わせるのは無理そうだけれど、とにかくこの男を高畑教授の元に連れて行かないとどうしようもないのだ。
「頼む、少しだけでいいから……。高畑教授は、お前に会いたがってるんだ」
けれど、嗄井戸は少しだけくつりと喉を鳴らし、とても嫌味で楽しそうな笑顔を浮かべるだけだった。綺麗な顔に似合わない、醜悪な笑みだった。
「僕は会いたくないもんでね。君は残念だったが、これからはちゃんと勉強しろ」
そう言って、とうとう扉は閉められてしまった。叩きつけるような、容赦のない閉め方だった。
残された俺はあっさり途方に暮れていた。ここまでやって来て、得られた物が一つしかない。俺の記憶の奥深くに眠っていた『ドラえもん』の映画のタイトルである。全く嬉しくない成果だ。
白髪の男はなかなかに気難しい性格であるようで、今日はもうインターホンを鳴らしても出てこないような気がした。……頭が痛くなる。前途多難のようだった。俺は心理カウンセラーでもネゴシエイターでもない。
よろしくないのは、俺が常川さんと再会してしまったことだった。それだけで俺は、まだ何も達成していないのにも関わらず、妙な達成感を得てしまっていた。それで、俺はすごすごと下北沢を後にすることになってしまった。
変な一日だった。帰り道には常川さんはおらず、冷え冷え屋敷だけが俺のことを見送っていた。
「あちゃー、駄目だったか」
次の日、俺は高畑教授のもとへ行き、事の次第を説明した。嗄井戸は白髪のとんでもない奴で、いきなり好きな映画の話を聞かれ、挙げ句の果てに大学には行かないとすげなく断られたこと、全てを話した。高畑教授は何だかよくわからない笑顔を浮かべているだけで、俺に対する慈悲は少しも汲み取れなかった。
「あの、それで……」
「うん? 嗄井戸くんは駄目だったんでしょ? となると奈緒崎くんを進級させるわけにもいかないかなって。それにしても、嗄井戸くんは変わらないなぁ。彼、映画が好きでね」
「ちょっと待ってください、あの」
高畑教授はあろうことかそのまま嗄井戸の思い出話に移行しようとしたので、俺は慌ててその言葉を遮る。過去編よりも感傷よりも大事なものが傍にある。きょとんとした顔の教授に対して、俺はもう一度言った。
「本当に駄目なんですか? 俺は、嗄井戸のところに行きました。……俺は、それで、大学に来るよう言ったんですけど」
「でも、奈緒崎くんは連れ戻すことに失敗したよね。それなら駄目だ。試験の点数においても、嗄井戸くんを連れ戻すことでも、進級条件を満たせなかった。だったら私は君の進級を認められない」
「でも……」
「あと一週間あげよう。その間に嗄井戸くんを連れ戻すことが出来たら、そのときは君を進級させてあげる」
高畑教授は前と変わらず、少しも譲らない瞳で俺を見ていた。穏やかだけれど有無を言わさない強い口調。
教授はどうしても嗄井戸高久を連れ戻したい。理由はわからないけれど、それだけはわかった。
相変わらず俺に選択権はなかった。俺にはもう一度嗄井戸の家に行くしかないのだ。
というわけで、俺はすぐさま行動を起こし、嗄井戸の所へ向かった。相変わらず無愛想な白いアパートである。荒々しくドアを叩き、ファンファーレみたいに高らかにインターホンを鳴らすと、たっぷりと時間をおいて、嗄井戸が姿を現した。さっきまで眠ってでもいたのか、目が潤んでいる。
「……ん? ああ、君か」
「昨日振りにおそようさんだな。暢気なもんだ。寝てるくらいならちゃんと授業に出ろ」
「別に寝てない」
「寝てただろ。額に跡ついてるそ」
カマをかけてやると、嗄井戸はあっさりと騙されて額を手で拭った。どうやら本当に眠っていたらしい。本当に暢気な奴だ、と思うとなんだかとてもイラついた。俺はどうしてこんな自分勝手な引きこもりの家庭訪問なんかしているんだろう。
「前回の話だったら、答えは変わらない。僕は外に出るつもりなんかないし、大学もいかない。これ以上そうやって督促されるなら、大学なんかもう籍を抜いたっていいんだ」
嗄井戸は鼻を鳴らしながらそうやって言って駄々をこねた。まるで子供のような振る舞いだ。さしずめこの部屋はわがまま王子のお城か? 笑えなかった。俺も高畑教授も、どうしてもこの男を呼び戻したい。
「おい、中にあがらせろ」
「え、」
「そんなにこの部屋面白いのか。だったら入れろ」
俺は玄関口しか見たことのない嗄井戸の部屋に強引に割って入る。靴を投げ出すように脱いで、「おじゃましまーす」とおざなりに言った。
もっと怒られるかと思ったのに、嗄井戸は案外すんなりと俺の侵入を許した。抵抗するのが面倒になったのか、それとも別の理由なのかはわからなかった。
陰気臭そうな部屋の中は案外明るく、アパートの扉からは想像出来ないほど広かった。部屋の壁に、映画のポスターらしきものが所狭しと貼られている。物は多いが意外と綺麗に掃除されており、引きこもりの住む家とは思えなかった。
「中は広いな」
「アパートの三部屋分をぶち抜いてワンルームにしてるからね」
「へえ、ということは二階全部お前の家なのか?」
「そうなるね」
「そうなるねって、お前……」
ぶち抜くくらいなら他の部屋に引っ越せばいいのに、と思わずにはいられなかったが、黙っておいた。学費といいこの部屋といい、嗄井戸は案外金持ちなのかもしれない。
ただ、まあ、異様な部屋だった。一人暮らしの俺のワンルームに比べて遥かに広く、壁三方に備え付けられた棚に大量のDVDやらビデオが、まるでレンタルビデオ店か何かのように収まっている。いや、その例えは適切じゃないかもしれない。どちらかというと、その様子は図書館に似ていた。天井まで届く記録と物語の塔。その塔から出されたDVDやビデオは床に乱雑に積み上げられ、そこでもまた小さな塔が出来ている。
また、東側の壁を覆うように大きなスクリーンが掛かっていた。きっと映画を観る為の専用の装置なのだろう。その対面、部屋の中央には四人掛け出来そうな大きなソファーがあった。窓に遮光カーテンまで掛かったその部屋は、まるで小さな映画館だった。
スクリーンでは今も映画がかかっている。何の映画かはわからないが、画面全体が青く映っている。外国人が出ているから多分洋画だろう。我ながら頭の悪い理解だった。
嗄井戸は俺をリビングに招き入れただけで仕事は果たしたと思ったのか、さっさとソファーに戻って寝転び始めた。ソファーには枕代わりのぬいぐるみと黒い毛布が掛かっており、嗄井戸はそれに包まりながらスクリーンを観ている。やっぱり観ながら寝てたんじゃないか。
「何観てるんだ?」
「『グラン・ブルー』」
嗄井戸は素っ気なくそう言った。恐らく、それが映画のタイトルなんだろう。
「へえ、面白い?」
「面白いけど、面白いとかそう一口に言えない映画だよ。ここには人生があるんだ」
「うわ、めんどくさい感じがする」
経験則から言って、そういう大袈裟なことを語る人間の八割は面倒臭い。
「『グラン・ブルー』に描かれている海は凄く綺麗で、きっと本物の海よりずっと青い」
嗄井戸は俺の言葉が聞こえていないのか、うっとりとした声でそう言った。映画は途中な上、日本語字幕すらついていなかったので俺には内容がちっともわからなかった。男がイルカと会話し、イルカが嬉しそうに泳ぎ回る。もしかするとこれはとても悲しいシーンなのかもしれないが、俺にはその辺りすら汲み取れなかった。
「……観ないの?」
「映画を観に来たわけじゃない。……高畑教授が、もう一度行けって」
「またその話か……」
「その話以外にお前に用なんかねえよ」
嗄井戸は露骨につまらなそうな顔をして、スクリーンの方へ眼を遣った。俺よりイルカや海の方が大事らしい。それならそれで結構だ。もう俺に出来ることはない。
正直な話、俺は大分自暴自棄になっていた。この引きこもりに振り回されるくらいなら、いっそ潔く留年した方がマシなんじゃないだろうか? そんなことまで思っているくらいなのだ。俺はいつでも諦めが早く、そして、くだらないプライドを守るのに必死だ。
「返事は?」
「変わらない」
涼やかに嗄井戸が言う。俺は軽く頷いて、踵を返した。
「……じゃあ帰る」
「帰るのか?」
その瞬間、寝ていた嗄井戸が飛び跳ねるようにしてこちらへ近づいてきた。その俊敏さにぎょっとする。あまりに驚いてしまった所為で。俺は嗄井戸の過剰反応に気が付かなかった。
至近距離で真摯な目をしてくる嗄井戸を見つめて二秒。ペースに飲まれないように少しだけ距離を取って、言った。
「帰るだろ、普通。お前は学校に来ないんだろ。それならそれでいい」
こんな辛気臭い部屋で、この引きこもりと一緒に過ごしていられない。相変わらず外に出るつもりはないようだし、そうなると俺がここにいる理由も無い。さっさと立ち去ろうとした瞬間、俺は嗄井戸の細い腕に掴まれ、そのまま床へ転倒した。
悶絶する俺に、積み重なっていたDVDの山がどんどん降ってくる。一つ一つは軽い一撃でも、束になってかかって来られるとそれなりの痛みになる。打撃の雨に晒されながら、俺は必死でもがいた。DVDを払いのけつつ、俺は涙目で起き上がった。
「だ、大丈夫か?」
「もうこんな部屋二度と来るか! 何なんだよ!」
「も、申し訳ない……」
「一体何なんだよ!」
めずらしくしおらしい態度で言う嗄井戸に対して声を荒げた。一体何だって言うんだ。わけのわからない指令を受けて、わけのわからない男の部屋に来させられて、謎の映画を観せられる。俺の状態が不条理過ぎて泣けてきた。けれど、意外にも、途方に暮れたような顔をしているのは俺よりも嗄井戸の方だった。
「君がそんなに早く帰ると言いだすなんて思わなかったんだ……何か気に障ったんじゃないかと思うと、こちらとしては気にもなる」
「何なんだよ、……わけわかんないな、お前」
「別に。ただ、入ってくるくらいなら、……そこまで早く帰らなくてもいいだろ」
歯切れの悪い回答だった。……もしかして、寂しいんだろうか? と思ったのだが、それを口にしたら何だかもっと気まずくなりそうだったので、俺は大人しく腰を下ろした。かといって、それにコメントがつくこともない。相変わらずスクリーンの中の登場人物は何を言っているのかわからない。
「なあ、これ何語?」
「イタリア語と英語」
「わかるのか?」
嗄井戸が静かに頷く。教授が言っていた“優秀”というのは即ちこういうことなんだろうか? それとも別のことなんだろうか? 全く分からないまま、映画だけが進む。相変わらず言葉はわからないが、『グラン・ブルー』はサイレント映画でも通用するんじゃないかと思うくらい、画面が雄弁な映画だった。このまま観ていてもそれなりに楽しめる。
嗄井戸は俺を引き留めてきた癖に、映画に集中して少しも俺のことを見ていなかった。映画を観ているんだから当然かもしれないが、会話が無い。けれど、どう話を切り出していいものかもわからない。
嗄井戸の顔はぼんやりとしていて、まだどこか眠たげだった。余計に何を言っていいか困った。
そこでようやく思い出した。そういえば、映画オタクが喜びそうというか、関心を持ちそうな話題なら一つ俺にはストックがある。
これだけDVDがあるんだし、筋金入りの引きこもりのようだから、映画館なんかには興味が無いかもしれないが、映画を見ない俺が嗄井戸の関心を引ける話題なんてこれしかなさそうだった。
俺はさも今気が付いたかのような顔をして、嗄井戸に尋ねた。
「そうだ、お前パラダイス座知ってるか? あの、小さな映画館」
「知ってる」
意外にも、嗄井戸は即答した。そして、更に意外なことに、大きな目をぎらぎらと輝かせている。どうやらこの話題は嗄井戸の琴線に触れたらしい。引きこもりであるが映画オタクでもある。引きこもりである前に、映画オタク。俺は少しその目に気圧されながら続けた。
「あそこ、閉館するんだってよ」
「え、嘘、本当に?」
「本当だ。館長直々に聞いた」
「……そうなのか。全く嘆かわしいね。映画は娯楽でもあり、芸術でもあるんだ。易々と発表の場が失われていいはずがないのに」
嗄井戸は心の底から遺憾そうな顔をしてそう言った。まるで自分の身が切られているかのような顔だ。
「俺、あの映画館の館長と顔見知りなんだよな。冷え冷え屋敷の主人で、夏場はよくお世話になった」
「冷え冷え屋敷って何?」
「あそこのおっさん暑がりでさ、クーラーガンガンに掛ける人なんだよ。家はいっつも涼しくてさ、真夏なんかはたまに中入れてくれて、あれには本当に感謝したわ」
「へえ」
俺の発言に対して、嗄井戸はにやりと笑った。俺の無知を嘲笑うときのような笑顔でもなく、単なる微笑みでもなく、例えるならば――そう、まるで褒められたがりの子供のように、屈託のない笑みだった。
何を誇っているのかはわからないが、とりあえず笑顔の中身は俺に教えるつもりがないようで、嗄井戸は何度かその言葉を確かめるように、「冷え冷え屋敷、冷え冷え屋敷か」と呟くだけだった。その笑顔は少し好ましい反面、表情が案外ころころ変わるこの男のことが、少しばかり気味悪かったのも確かである。
「僕もその冷え冷え屋敷に行ってみたいね」
「は? お前外出れんのかよ。だったら大学来い」
「それは無理だな」
嗄井戸は今さっき自分が引きこもりであることを思い出したかのように、目を逸らしながらそう言った。この男は、外に何かトラウマでもあるんだろうか? これだけ映画フリークなんだから、てっきり映画が見たくて外に出てこないだけだと思っていたんのに、これじゃあまるで外の世界に怯えているみたいだ。
一体何がこいつにあったのかはわからない。俺の仕事はこの男を連れ戻すこと。様々な思惑が好き勝手に展開していく様子は映画みたいだと言えなくもなかったが、俺は自分の物語で精一杯なのだ。
「僕は『ギルバート・グレイプ』のボニーなんだよ。いや、ギルバートと言ってもいい」
「何だ? また映画か」
「それも、良い映画だ。主人公のギルバートはアイオワ州の小さな町から生まれてから一度も出たことがないんだ。知的障害を持つ弟のアーニーと、外にまともに出れないくらい太った母親のボニーに縛られてね。ギルバートは家族思いだから、その二人を見捨てられないんだ。色々な要因が、彼を小さな町と小さな家に閉じ込めているんだけど、そこに母親とトレーラーで旅をするベッキーがやってくるんだ……そして、ギルバートの世界が変わる」
「お前は別にデブじゃないだろ」
「そういうことを言ってるんじゃない。全く、これだから教養の無い奴は困るよ」
「思うんだけど、映画も教養に入るのか? 単なる娯楽だろ?」
「はあ?」
嗄井戸が心底こちらを軽蔑したような顔をしてそう言った。
「当たり前だろ。映画っていうのは総合芸術なんだ。愚かしい人間が作った唯一にして至上の代物だよ。映画を単なる娯楽だと言い放てるような人間に、まともな奴はいないね。まあ、元より留年ギリギリな男の頭の程度なんて知れてるか。どうせ、親にろくな教育すら受けさせて貰えなかったんだろ?」
「……は?」
「その点だけは同情するよ。程度の低い家庭で低俗なものを消費して生きてきたんだろ? そんなの僕なら耐えられないからね。子供が子供なら親も親だ」
「……親は関係ないだろ」
「関係あるさ。君のような出来損ないを育てた責任がある」
嗄井戸の顔は表情がとてもわかりやすい。顔立ちが過度に整い過ぎているからだ。その顔が、醜悪に歪んでいる。まるでわざとこっちを怒らせようとしているみたいだった。その挑発の意味を悟るべきだったかもしれないし、それにまんまと乗らなければよかったのかもしれない。けれど、俺はそんなに冷静な人間じゃないのだ。
気が付けば俺は、嗄井戸の顔を思いっ切り殴り飛ばしていた。細身の身体が綺麗に吹っ飛び、床に転がってDVDの塔を崩す。しまった、と思ったときにはもう遅い。けれど、無責任に行いは物凄くすっきりする。俺の感情は理性よりもずっと奔放に出来ていた。
「何が映画だ。何が物語だ。何がギルバートだ。何が外に出られないだ、何が役者だ!」
嗄井戸はまるで初めて怒られた子供のような顔をして、俺のことを大きな目で見つめていた。瞼がぱちぱちと拍手のような音を立てるのを聞いていたが、恐らくは幻聴だろう。
「お前なんかここで一生引きこもってればいいんだ」
捨て台詞を吐くと、ほんの少しだけすっきりした。その後は、大きな目から逃れるようにさっさと逃げ出した。このままいるとどうにかなりそうだった。
扉を閉める寸前、嗄井戸が何か言ったような気がしたが、そんなことはもうどうでもよかった。どうせあの男はこの部屋から出られないのだから。
苛々しながら銀塩荘を去る。このアパートへの来客が珍しいのか、近隣の住民が遠巻きに俺のことを見ている気がした。よほど久しぶりの来客なのかもしれない。ともあれ、このときはもうどうでもよかった。この世で自分が一番理不尽な目に遭っているんじゃないかというとんでもない被害妄想を抱え、ただただ鬱屈としてしまっていた。
陳腐な言い方だけれど、本当に理不尽な不幸なんていくらでもあるというのに。
ここでお決まりの言葉でも据えておこうと思う。実はこのとき、裏ではとんでもないことが起こっていたのだが、俺も嗄井戸も、このときはそんなことを全く知る由もなかったのだ。