「突然だけど、お願いしてもいいかな?」
見ず知らずの女の子に声をかけられた。
学校からの帰り道でのことだ。
一度聞いたら忘れるのはちょっと難しいと思わせる、とても綺麗な声だった。
「映画にね、連れて行って欲しいの」
小さな頃から見慣れた古いバス停。色あせたトタン屋根に、雨風にさらされ続けボロボロになった木の椅子。
そのそばに見慣れない女の子が立っていた。
オレンジとも黄色とも言えない街灯が、女の子の整った輪郭を黄金に縁取り、夜の闇の中から掬いあげる。どこか古臭い光さえも、彼女が纏えば何か神聖なもののように思えた。
僕が黙り込んだからか、彼女が可愛らしく首を傾げた。
「聞こえなかった?」
気付けば、女の子の瞳に映る自分の姿がさっきよりも大きくなっている。近い、近い。なんでこんなにあっさりと懐に入り込めるんだ。戸惑いつつ、やけに渇いた喉に唾を滑らせる。
「大丈夫、聞こえてるよ」
呟いた声はしかし、思っていたよりもずっと小さく、かすれてしまった。
今度は僕の方が聞こえているか不安になった。
でも女の子は、そっか、よかった、とその豊満な胸をなでおろしたので、どうやらきちんと届いているらしい。
「わたし、椎名由希って言うの。よろしくね、春由くん」
「はあ、どうも。ええっと、椎名さん?」
「由希って呼んで」
そう言って笑う、椎名由希は驚くほど可愛い女の子だった。
肩の辺りまで伸びた髪はパーマでもかけているのか、毛先は緩やかな曲線を描いている。肌は白く、そのせいだろう。何かをつけているわけでもないのに、血色のいい唇が目を惹いた。
風が吹くと、彼女の髪が揺れた。不意に甘い香りがした。何だろう。少しだけ考える。やがて答えに辿りつく。ああ、桜の匂いだ。
途端に僕を襲ったのは、あまりに強烈な感情の奔流だった。痛くて、苦しい。それから熱い。心臓がぎゅうっと締め付けられる。
学生服の上から左の胸に手を置いて、彼女の希望通りに名前を呼んだ。いろんなものを、そう。本当にいろんなものをごまかす為に必要なことだった。
「由希。映画に連れて行って欲しいってどういうこと?」
「明日、映画を見に行くんでしょう?」
「……明日は平日だけど」
「うん、知ってる。でも、あなたの通う高校は創立記念日でお休みでしょう?」
とても当たり前のことのように、彼女は、いや、由希は言った。明日の給食はカレーでしょう、だって献立表に書いてあったもの。そんな感じ。
「その休みを利用して、あなたは映画に行くんだよね。その為のチケットを二枚、持っているんじゃない? それとも、もう誰かを誘っちゃった?」
「なんで由希がそのことを知っているんだ? 誰にも言ってないんだけど」
数日前に友人たちに遊びに行こうと誘われたことを思い出す。用事があるんだって言ったら、特に朱音が理由をしつこく聞いてきたっけ。どーせまた一人で遊ぶんでしょう。あたしも連れてってよ。でも、僕は最後まで理由を話さなかった。
知り合いに見られるのは嫌だし、一緒に見るなんて拷問でしかない。何年経ってもネタにされるのが目に見えている。
目の前の女の子はそんな僕の気持ちなんて知らないように、ふふっと薄く笑った。
「うーん。秘密かな」
「どうして?」
「だって、秘密のある女の子の方が魅力的でしょう?」
どうやらきちんと答える気はないらしい。
それでもいくらか待ってみたものの、やっぱり答えらしい答えは返ってこない。由希の笑顔だけがそこにある。僕が返答を待っているのを知っていて、あえて黙っている。
根比べは僕の負けだった。
「誰も誘ってないよ。チケットはまだ二枚ある」
「じゃあ、連れて行って」
「どうして映画を見たいの?」
「……見ようって約束したから」
「誰と?」
由希は変わらず笑みを浮かべ続けているだけ。ただ心なしか、さっきよりも少しだけ悲しそうに見えた。光の角度が変わったからかもしれない。
僕が空を見上げると、由希もまた同じように顔を上げたのが分かった。
いつしか夜の闇はずっと深くなっていた。
雲は少なく、空には星々が瞬いている。ここで星座の一つでも見つけられたらかっこいいけど、残念ながら星を繋ぐだけの知識はなかった。
どこまでも広がる夜空に、僕はまだ何も見つけられない。
「そっか。約束したんだ」
「うん」
「約束なら守らないといけないよね」
星座の代わりにそんなことを言ってみる。情けないけど、これが今の僕の精いっぱいだ。
「分かった。一緒に行こう」
「本当に? ありがとう」
「確か、十時十分発の電車があったから、改札前に十時に集合でいいかな?」
「うん。大丈夫。明日、楽しみにしてるね」
僕たちは手を振って別れた。
一本しかない道を、由希は僕とは逆向きに歩いて行く。小さな背中が見えなくなってしまうのに、そう時間はかからなかった。
きっちりと彼女の姿が消えてしまうのを見届けた後、僕もようやく歩き出す。
頭の中で、出会ったばかりの女の子の姿が浮かんでは消えていった。
春の香り。華奢な体。風に揺れる髪を押さえた指は細く、ガラス細工のように繊細だ。長いまつ毛に黒く深い瞳。形のいい赤い唇。そんなものを一つ一つ思い出し、そして。
由希の声が僕の中で輪のように広がった瞬間、足を止めていた。
疑問が一つ、はっきりと浮かんだから。
あれ? 僕、由希に名前を教えたっけ?
答えは当然返ってこなくて、はぐらかすようににんまりと笑った由希の顔だけが頭の中に残り続けた。
高校一年の秋のこと。
こうして僕は椎名由希と出会った。