Hello,Hello and Hello



 由希と八色公園に行くことになったのは、春休みの中で部活が唯一休みの日のこと。

 池を中心に整備された公園は一周五キロにもなり、八つのポイントから公園を眺めると全然違った景色が見えると言うことから、八色公園と呼ばれるようになったのだそうだ。

 平日だからか、公園は閑散としていた。夜になると花見をしている大人たちでにぎわうけれど、昼間はそうでもないらしい。

 でも、由希は想像していたよりもずっと喜んでくれた。

「うわあ、こんなところがあったんだねえ」

 物珍しそうにいろんなものを見て回る由希の後方で、僕はコートのポケットに手を突っ込んだ。そこに収まっている小さな物体の輪郭を指でなぞって、存在を確かめた。手のひらにすっぽり収まるくらい小さなくせに、やけに重い。いや、本当に重いわけじゃないんだけどさ。気持ちの問題で、質量以上の何かが付加されているらしい。

 僕が今日、ここに由希を連れてこようと思ったのは、誰にも邪魔されない場所で、昨日買ったこれをプレゼントする為だった。

 前提条件はクリア。

 あとは雰囲気とタイミングだけなんだけど、それがなかなか難しい。

 公園を半周してもなお、プレゼントはまだ僕のポケットの中にあった。

 由希と出会ってから、ふがいなさにへこむばかりだ。自分ではもう少しいろんなことがスマートに出来ると思っていたのに、由希の前だと急に上手く出来なくなる。どうしてだろう。

 木の葉に光が当たって、透けていた。影が出来て、僕の顔の上に、光の白と影の黒が織りなす鮮やかなコントラストが浮かび上がる。

 柔らかな日ざしの中で声をかけるタイミングを計っていると、逆に声をかけられた。

 由希の声とは違う、もっと低い声。

「おーい、そこの二人。ちょっと待ってくれい」

「え?」

 呼ばれるがまま声の方へ振り向くと、熊みたいに大きな体をしたおじさんがこちらへ向かって全力疾走していた。ドタドタと慌ただしい音が聞こえてくるかのよう。その形相は一目で分かるくらい必死で、僕たちは思わず足を止めてしまった。それが悪かった。 

 今にも死にそうなほど息を切らしたその人は僕のそばまでやってきて、いきなり腕を掴んだ。

「いやー、助かった。ちょっときてくれ」

「な、何ですか」

「俺たちが今撮ってる映画のな、エキストラの人数が足りなくて困ってるんだ」

「いやいや、ちょっと待ってください。意味分かんないんですけど」

「分からないか、意味? というか、うん?」

 きょとんとした顔で振り向いたおじさんの顔は、よく見るとまだ若かった。二十代の半ばくらいだろうか。ぎりぎりお兄さんと呼べるレベル。

 その男の人の視線が、僕の後ろにいる由希だけに注がれている。髪に隠れた丸っこい瞳は、財宝でも見つけたみたいに輝いていた。

 何を考えているのか、手に取るように分かった。逃げ出したかったけれど、僕の手は掴まれたままなので叶わない。三秒くらい呆けてから、男の人は改めて僕を呼んだ。

「少年」

「嫌です」

 もし僕が一人だったなら、この人の言葉に圧倒されて早々に白旗を振ってしまっただろう。でも、今は違う。後ろに由希がいるのだ。

「まだ何も言ってないじゃないか」

「何を言いたいのか分かりますから。由希にも映画に出て欲しいんでしょう」

「そこを何とか」

「無理です」

 と、そこで成り行きを見ているだけだった由希が、はいと手を上げた。

「どうしてわたしのことを由くんが決めちゃうわけ?」

 二人して由希を見た。

「……出たいの?」

「だって面白そうだよ。それに今日の記念にもなるし」

 由希の言葉を、男の人は決して聞き逃さなかった。途端に声が勢いづく。

「そうだそうだ。少女のことを少年が決めるな」

 じゃあ、僕に聞かないで、最初から由希に聞けばいいじゃないか。ていうか、この人、さっきから由希と直接交渉しようとしないな。何でだろう。

「ね、やろうよ。由くん」

 若干、流れが面白くなかったけれど、結局、押し切られる形になった。分かったよ。そう言うしかない。

「本当か。じゃあ、二人とも出演決定だな。いやあ、よかった」

 僕たちの気が変わらないうちにという感じで、男の人が強引に話をまとめた。

 僕の負けだった。

 悔しいので、悪あがきくらいはしておく。

 きっともう何の意味もないことなのだけど。

「手、いい加減離してもらえますか?」


 撮影は、公園のベンチで行われていた。

 前後の流れはよく分からないけれど、どうやら喧嘩をしたカップルが再会するシーンらしい。

 僕たちを呼びにきた男の人はこの作品の監督みたいで、カントクと呼ばれると、おうっと、さっきまで僕たちに見せていた顔とは全然違う表情をした。雰囲気ががらりと変わる。

 カントクを呼んだのは少しふくよかな体型のお姉さんで、彼女は僕たちのそばまでやってくると僕と由希を交互に見て、最後には由希をその目に捉えた。

「どうしたんですか、この子。ものすごく可愛いじゃないですか」

「だろう。映画に出てもらおうと思ってな」

「いいですね、いいですね。次の映画ですか?」

「いや、この映画だけど」

「へ?」

 途端にぴりっと空気が張り詰めた。お姉さんは、いやいやいやいやと何回言ったのか分からないくらい、いやを繰り返す。いやいやいやいや。

「何を考えてるんですか。無理ですよね」

「そうかあ? 俺は見てみたいんだけど」

「気持ちは分かりますけど。わたしだって、演技仕込んでみたいですし。でも、この映画はどうするんですか。どこで使うつもりか知らないですけど、多分、全部持って行かれますよ」

「心配するな。ちゃんとこの映画も完成させるさ。ただ、まあ、ちょっとお前らに迷惑をかけるけどな。……無駄にはしない。信じろ」

 カントクは、ドンと思い切り胸を叩いた。

「……そういうことなんですか?」

「ああ、そういうことだ」

 たったそれだけの会話で通じるものがあったのか、お姉さんが諦めたように息を吐いた。

「はあ。分かりましたよ。何言ったところで無駄なんですね。とりあえずカントクは和葉ちゃんのフォローをお願いします。あの子、そういうところだけは聡いので、相当上手くやらないと気付いちゃいますから。絶対拗ねて、他のシーン撮れなくなります。それだけは許しません」

「分かった。すぐに行く。悪いけど、この二人に演技指導をしておいてくれ」

 それだけ言って、カントクはそそくさと走っていった。

 僕たちは名前も知らないお姉さんとその背中を見送った。

 さっきまでの空気はもうどこにもない。残ったのはカントクと同じくらい楽しそうなお姉さんの笑顔と、二人のやりとりの意味が分からないでいる僕たちだけだった。

「あの、今の二人の会話って」

「ああ、気にしなくていいよ。どうせすぐに分かるし。でも、そうね。一つだけいいかな。あの人は本当に自分勝手にやってるだけだから、君たちも遠慮せずに自分の意見を言っていいんだからね」

 僕と由希は顔を見合わせ、首を傾げた。

 

 結局、それから四時間近くも拘束された。

 一つのシーンを撮るのに、何度も何度も撮り直したせいだ。

 これを編集で組み合わせてワンシーンにするらしい。

 僕たちに与えられたのは、主人公たちの後ろを歩く通行人AとB。由希が僕より前に出ると目立ち過ぎてしまうということで、カントクの指示で僕は彼女を隠す壁のような役割もした。

 それでも撮ったばかりの映像を見ながら、カントクは、うーんと唸った。

「やっぱり目立ちすぎるな。どうしても少女の方に目がいってしまう」

 俳優さんたちに気をつかってか小さな声ではあったけれど、そばにいた僕や由希にははっきり聞こえた。実際には僕たちにだけ聞こえるように言っていたのだと気付いたのは、ほんの少し後のこと。

 声に反応し顔を上げた僕たちと、カントクの目線がばっちり合った。

「見てみるか?」

 こいこいと手招きされた僕たちは、言われるがままにノートパソコンの画面を覗き込む。数十分前の光景がそこに映っていた。

 画面の中心には、大学生のカップル。

 その後ろを歩くだけの二人の通行人。

 二人にセリフはないし、アップで映ることもない。ただ話をしているだけだ。けれど気付いた時、画面は次のシーンに切り替わっていた。あれ、なんでだろう。主人公たちの会話が全然思い出せない。記憶にあるのは由希の顔だけ。由希は僕と話をしながら、笑っていた。まるでたったそれだけのことが奇跡であるかのように。

 これが一本の映画だったなら、僕はきっとこの間に起こった出来事を追うことは出来ないだろう。あるいは全てを見終えた時、記憶に残っているのは由希の笑顔だけかもしれない。

 お姉さんの言う通り、物語は全部持って行かれてしまった。

「なあ、少年。もったいないと思わないか。これだけの華がある人間なんてそうそういないぞ。少女の物語をもっと見てみたいだろう?」

 ようやく僕は、さっきのカントクとお姉さんの会話の意味を理解していた。

 つまりカントクはこのシーンが使えなくなることを分かった上で、わざわざ時間と労力を割いたのだ。由希という女優を手に入れる、たったそれだけの為に。

 しかし由希は首を横に振った。

「これ、大丈夫ですよ。心配しなくても使えます」

「いやいや、少女は本人だから分からないかもしれないけどな、これは使えないんだよ。皆が皆、君を見てしまう」

 思っていた手ごたえがなかったせいで、カントクは慌てた。気付けば由希と直接話をしている。焦っているからか、あるいは監督としての性か。

「じゃあ、賭けでもします?」

 含みのある顔で由希が提案した。

「もしこのシーンがわたしのせいで台無しになったとしたら、その時はカントクさんのお願いを一つ、何でも聞いてあげます」

「それは俺が少女で映画を撮りたいと言ったら、それに従うということか?」

「はい。でもそれはきっと奇跡でも起きない限り無理ですよ。そして、奇跡は何度も起こるものじゃないんです」

「どういうことだ?」

「……奇跡なんて一度起こればラッキーで、二度起こるなんてことはないんだろうなあ、ってただそれだけの単純な話です。いや、どんな奇跡にだってそれ相応の対価が必要だから、一概にラッキーとも言えないんですけどね」

 由希の言葉の意味が僕には全く分からない。

 カントクもどうやら同じようで、少しだけ考えた風だったけど、結局、分かったの一言でいろんなものを呑み込んだ。カントクとしては由希で映画を撮れればそれでいいのだろう。

 いつしか日は落ち、闇が濃くなっていた。

 カントクたちは慌てて片付けを始めた。

 ぼうっとその様子を眺めていると、カントクが僕に気付き、こちらへやってきた。

「お疲れさん」

「長かったですね」

「助かったよ。まあ、少年たちが出るのは十秒くらいなものだけどさ。演技するって面白かっただろう」

「いや、僕はもうこりごりです。目立つのはむいてない」

 僕たちは離れたところから、由希を見ながら話をした。

 当の由希は、大学生のお姉さんに囲まれて何やら盛り上がっている。

 女が三人集まれば姦しいなんて言うけれど、五人も集まってしまえば会話を止めるのは不可能だ。女の子って遺伝子レベルで会話が好きな生き物なのよ。母さんと妹にそんなことを力説されて育った僕としては、会話が終わるのをただ待つしかない。

「で、実際、今日のシーンは使うんですか?」

「そうだなあ。このままじゃ当然使えないな。一応、少女との約束だから編集に組み込んでみるけどさ。仲間内で試写会をして、評判が悪かったら差し替えだな。その時はあいつらにまた頭を下げて撮り直しだろうなあ」

「そうですか」

 僕に言えるのはそれくらいなものだった。後はカントクの決めることだったし、あるのはカントクと由希の約束だけだ。

「お、そうだ。チケットを渡しておこう。来年の秋にある文化祭で、今日撮ったやつを公開するから見にこいよ。最高の映画に仕上げてるからさ」

「来年? 今年じゃないんですか?」

「今年は多分、間に合わねえから。この作品を作り終えて、俺は大学を卒業するんだ。それでな、いつか絶対にプロの映画監督になる。楽しみにしてろよ」

 カントクの手からチケットを受け取る。

 ポケットに強引に突っ込まれていたからだろう、随分とくしゃくしゃになっていた。手のひらで伸ばしてみるが、皺は取れない。矢坂大学と掘られた赤い印が少しだけ滲んでいた。

「あれ、二枚ありますよ」

「少女を誘えよ。俺はそういうのに鈍い方だが、カメラを通せば大抵のことは分かる。だからさ。頑張れよな。映画は男から誘うっていうのが作法なんだぜ」

 カントクはわけの分からないことを言いながら、笑顔で僕の背中を思い切り叩いた。

 めちゃくちゃ痛かった。


 カントクたちと別れてしばらく歩くと、一本の大きな桜の木が見えてきた。

 残念ながら満開はもう迎えてしまっていて、いくらか寂しいものになっていた。白い花弁は少なく、木にはもう緑の葉がいくつか茂っている。季節は次へと移ろい始めているのだ。

「さっき、カントクさんと何を話してたの?」

「大したことじゃない。そういう由希はお姉さんたちと何を話してたんだ?」

「秘密」

「秘密かあ」

「女の子に秘密はつきものなんですよ」

 少しだけ丁寧な言い方をして、由希は桜の下に駆けて行った。ざあと風が吹いて、ひらひらと花弁が舞う。スカートが揺れている。ふわふわの髪も揺れている。

 途端に背中がじんと痛んだ。熱くなった。カントクの大きな手が背中を押してくれていた。

 心はもう決まっていた。

「由希」

 少し離れたところにいる彼女を大声で呼んだ。

「なーにー?」

「渡したいものがあるんだ」

 ポケットに入れておいたプレゼントを取り出す。もう後には引けない。由希へと近づいて行く。たった数メートルの距離なのに、やけに息が上がる。百メートルを全力で走った時よりも鼓動が速い。

「これさ、よかったら貰ってくれないか?」

 僕は丁寧に包装されていた箱を渡した。ようやくポケットの中が軽くなる。女の子にプレゼントなんて家族以外には初めてのことだったので、やたらと緊張する。

 呑み込んだ唾が大きな音をたて、喉を通っていった。

「開けてみて」

 由希は言われるがままに、箱からピンク色の小瓶を取り出した。

「桜の香水?」

「うん。春になって、皆が雪のことを忘れてしまうから春は嫌いだって言ってたけどさ。ずっと桜の香りを漂わせていたら、桜を見るたびに思い出してもらえるかもしれない」

 春が嫌いなの、と由希は言った。

 だからずっと考えていた。

 冬が終わって、春がきて、雪が溶けてしまっても思い出してもらうにはどうすればいいか。悩んで出した答えがこれだった。

「そっか。これは春の香りなんだね」

「そう。だから」

 春のことを嫌いだなんて言わないで欲しい。

 続く言葉は呑み込んだ。だって、何も言わなくても全部伝わっているはずだから。

 由希はいくらか続きを待っていたけれど、僕が何も言わないことが分かったのか、代わりに言葉を継いでくれた。

「でも、本当かなあ」

「多分」

「あー、自信ないんだ」

「僕はもちろん思い出す。というか忘れないし。でも他の人のことに関しては絶対とは言えないだろう」

「それでいいよ」

 由希は言った。由くんが思い出してくれるなら、それでいい。

 僕たちは並んで桜の木を眺めた。甘い香りがした。この香りがする度に、僕は由希のことを思い出すだろう。ああ、忘れてなんてやるもんか。

「それで、もう一つわたしに渡すものがあるんじゃない?」

 はて? 他に何かあっただろうか。

 僕が考えていると、じれったそうに由希は先に答えを告げた。はあ。わざとらしくため息までついている。

「カントクさんから渡されたものは、わたしにはくれないのかな?」

「なんだ、知ってたんだ」

 僕は反対側のポケットに入れていた二枚のカラーペーパーを取り出した。本当は日を改めて誘おうかと思っていたけれど、まあ、いいか。随分と皺の入ったチケットを由希に差し出す。

「これ、映画のチケットです。よかったら、一緒に見に行ってくれませんか」

「はい」

 頷いた由希は、でも、と付け足した。

「もう一度、誘って欲しいの」

「どういうこと?」

「由くんが本当にわたしのことをちゃんと覚えていてくれるのか、試そうと思って。来年の秋にこの桜の香水をつけて会いに行くからさ。そしたら由くんからまた、一緒に映画を見ようって誘って。だからチケットは二枚とも由くんが持っていて」

「分かった」

「絶対だよ」

「ああ、約束だ」

 僕の言葉に、由希はやたらと嬉しそうな表情をしていたにも拘わらず、小さな声で呟いた。それは彼女が浮かべた表情とはとても結びつかない、ひどく冷たい音をしていた。


 ――うそつき。