Hello,Hello and Hello



 その日の練習おわり。

 昨日までは僕が部室で着替えている間にふらっといなくっていた由希が、正門の前に立ち空を見ていた。太陽が山の稜線に沈みかけ、雲がオレンジ色を反射して、空一面が真っ赤に燃えている。傾いた日の光が、由希の影を長く伸ばしていた。昼間と比べると、その輪郭は少し曖昧で頼りない。目を逸らした瞬間に、消えてしまうんじゃないかと錯覚しそうなほど。

「あれ、どうしたの?」

 声をかけると、由希はこっちを向いた。彼女の明るい髪が、光に濡れていた。笑顔がとても綺麗だった。誰かの笑顔をこんなに綺麗だと感じるのは、生まれて初めてのことだった。

「助けてもらったお礼をしようと思って。コンビニに行こうよ。アイスでもおごってあげる」

「いいよ。別に大したことはしてないし」

「嬉しかったからお礼がしたいの。ダメかな?」

「別にダメではないけどさ」

「じゃあ、行こう」

 返事も待たずに由希は校門に背を向けた。僕はその背中を追いかけ、隣に並んだ。

 二つの影が揺れていた。ゆらゆらと揺れて、でも重なることはなかった。人一人分の隙間が、僕たちの間にある。なんとなく口にした言葉は、どこか卑屈な感じになった。何でだろう。

「由希って、やっぱりモテるんだね」

「そんなことないよ」

「でも、今日だって沢近に言い寄られてたし」

「ああ、あの子、沢近くんって言うんだっけ」

「名前、聞かなかったの?」

「……忘れちゃった。それに言い寄ってきたのは、きっと由くんがいたからだよ」

「いや、僕がいなかった時に声をかけられたんじゃないのか?」

「そうじゃなくてね。わたしが本当に一人でいた時って、誰も声をかけてこなかったの。見られてるのは分かるのよ。でも、きっと。うん。その時のわたしは人間じゃないんだろうね」

 独りだったの、由希は呟いた。どこか寂しそうな声だった。

 彼女の孤独は、僕をもまた寂しくさせた。

「じゃあ僕がいなかった時は怪獣にでもなってるってわけ?」

 だから僕はおどけた。怒ってくれていい。呆れられても、バカにされたっていい。

 悲しそうな顔以外なら、そう、なんでも。

 由希の悲しみを、孤独を、僕はどこか遠くへやってしまいたかったのだ。だってさ、今は僕が隣にいる。由希は独りじゃないのに。

 由希は一瞬だけあっけにとられて、あはははと笑った。

 僕の願い通り、悲しみを遠くへと放り投げた。

「そうよ。怪獣になって火を吐くの」

 わざとらしく口を大きく開けた由希は、目を吊り上げた。があああ。喉の奥からそんな声を絞り出している。町を壊してしまうような迫力は全然ない。僕もまたふざけ続けた。

「町を壊す?」

「もちろん」

「ヒーローと戦ったり?」

「当然」

「で、僕といる時だけ人間に戻る」

「そう」

「どうして?」

 由希の言葉が止まった。僕は再び尋ねた。

「どうして僕といる時だけ?」

 由希はふざけた雰囲気を漂わせたまま答えた。

「由くんは変な人だから」

「はい?」

「わたしに声をかけてきた変な人は由くんだけだったってことだよ」

 そっか、と話の流れで頷きそうになったけれど、よくよく思い返してみればそんな記憶はない。声をかけてきたのは由希の方だ。

「待った。由希が僕に声をかけてきたんだろう」

「そうだったっけ?」

「ほら、僕が練習してる時にさ。頑張るのねって」

「あ、コンビニあったよ。ほら、行こう」

 話の途中で由希は僕の手をとり、走り出す。二つの影が繋がった。由希の手はなんだか冷たくて、いつもより高くなった僕の熱で溶けてしまうんじゃないかと思うほどだった。


 コンビニでアイスを買って、駐車場の影に腰を下ろした。早々に外袋を外し、青色のアイスキャンディーに齧り付く。歯をたて薄い膜を破ると、甘く味付けされた氷が出てきた。これが美味しいんだよな。思い切り噛み砕くと、確かな歯ごたえと共に、心地よい音が響く。

「本当にそれでよかったの? もっと高いのでもよかったのに」

「これ、好きなんだ」

「まあ、確かに美味しいもんね」

 時間はもう夕時で、たくさんの人がコンビニの前を通り過ぎていった。

 犬の散歩をしているお姉さんや、耳をすっぽりと覆うヘッドホンをしている高校生。早歩きのスーツを着たおじさんは、今からまた会社に戻るのだろうか。自転車を走らせる二人の少年がぎゃあぎゃあと叫びながら家路を急ぐ。

「由くんってさ」

 そう呟く由希は、とっくにアイスを食べ終えた僕の隣で溶けかかったアイスを舐めていた。

 僕が見ていることに気付くと、こういうアイスを食べるのって苦手なの、なんてはにかんだ。

 由希の言いたいことが別にあることは分かっていたので、アイスを食べ終えるのを待った。しばらくして、僕と同じように木製のスティックを口にくわえた由希が続きを紡いだ。

「誰と勝負しているの?」

「え?」

「誰か勝ちたい人がいるんでしょう?」

 どこか確信めいた声。

「分かるの?」

「まあ、なんとなくね。だってずっと見てたんだもの」

「ずっとって?」

「ずっとはずっとだよ」

 あはははと僕は何かをごまかす為に笑った。何言ってるんだよ、と。でも、由希は笑ってはくれなかった。じっと僕だけを見ていた。

 僕の乾いた笑いは夏の空気に溶け、だんだんと小さくなっていき、最後には消えてしまった。僕はボロボロになった靴の先を睨んだ。途端に傷ついた靴の先がぐにゃりと歪んだ。びっくりした。視界の全てが、僕の見える世界の全てが、輪郭を曖昧にして揺れている。

 瞬間、誰にも話すつもりがなかったことが、なぜだかするりと零れ落ちた。

 もう自分の中では整理出来ていて、納得していたことだと思っていたのに。

 喉を通り、口から吐き出した言葉の数々は、脈絡もないぶつ切りにされた単語の羅列だった。

 竹下という友人がいること。

 足が速かったこと。

 そいつに憧れの先輩がいたこと。

 恋が実らなかったこと。

 陸上をあまりにあっさり捨ててしまったこと。

 声は震え、体は震え、視界は揺れ続けていた。口からあふれ出る感情をただ吐き出した。ぼたぼたと駐車場に黒い染みが出来る。熱く、鋭い感情は、言葉という形を得てしまったからこそ、僕の中の柔らかいところを傷つけ続けている。

 話し終えてからどれくらいの時間が経っただろう。二分か、三分か。

「だから、あんな走り方になったんだ」

 由希がぽつりと呟いた。

「どういうこと?」

「由くんの走りはいつだって全力だった。でも万全ではなかった。きっと竹下くんへの憧れが強すぎるせいね。だからいつもあと一歩が届かない。そうか、そういうことだったんだ。ようやく分かったよ。わたしに出来ること」

 手のひらで思い切り目をこすって顔を上げる。世界はいつしか夜に染まっていて、立ち上がった由希の背後にたくさんの小さな光が瞬いている。昼も夕も夜も、彼女は美しい。

「ねえ、確認になるけれど、本当に由くんは竹下くんの記録を超したいの?」

「その為に走ってきたんだ」

「素直じゃないなあ。欲しいものがあるなら、ちゃんと欲しいって言いなよ。勝ちたいなら勝ちたいって言いなよ」

「……」

「ほら、言って」

「勝ちたい。僕は、竹下に勝ちたい」

「うん。いいよ。勝たせてあげる」

 由希は僕の手から木の棒を抜き取り、代わりに自分の持っていた木の棒を僕に掴ませた。そこには『当たり』と書かれていた。当たりなんて本当にあるんだ。初めて見た。てっきり都市伝説だと思っていた。

「ラッキーね。由くんには幸運の女神がついているみたいよ」

 自分で言ったくせに少し恥ずかしそうに笑った由希は、すぐに僕から顔を逸らした。後ろからでも少し赤くなった耳が分かった。


 次の日は、突然やってきた豪雨のせいで学校に行くことは出来なかった。

 その次の日もグラウンドのコンディションは最悪でとても走れる状況ではなく、僕がようやく由希に会えたのは、あのアイスを食べた夕方から三日後のことだった。

 柔軟をすませ軽く走っていると、いつものように由希がやってきた。僕は由希の姿を見て固まった。一方、当の本人は何でもない風に、やあ、なんて手を上げ、

「今日、今年一番暑い日になるらしいよ」

 そんなことを言った。

「いや、それはいいんだけどさ。どうしたの、それ」

 僕は由希の着ている服をさした。由希は、なぜだか僕と同じ学校指定の体操服を着ていたのだ。白い上着はうっすらと透け、下着の色や輪郭が何となく分かった。見てはいけないと思いつつも、視線はどうしてもそのラインに釘づけになる。

「買ったの」

「なんでまた」

「だって今日は汚れるかもしれないし」

「いや、聞きたかったのはそういうことじゃなくてさ、どうしてわざわざうちの体操服なわけ?」

「こっちの方が敷地内にいても怪しまれないでしょう。それよりも準備は出来た?」

 今さらのような気がしたが、なんだか由希が嬉しそうだったのでそれ以上はもう突っ込まず、頷くだけにとどめておいた。思いがけない雨のおかげでゆっくり休めたし、体調だっていい。県大会で自己記録を出した時もこんな感じだったっけ。

「でも、本当に僕は竹下に勝てるのかな?」

「うん。大丈夫。由くんはいつものように全力で走って、ただわたしを信じて、わたしを見ていればいいの。簡単でしょう?」

 妙に自信満々に突き出してきた由希の拳に自分の拳をコツンとぶつけて、それを返事にした。それから由希はゴールへ、僕はスタートラインへ向かった。

 いつものように目を瞑って、最高のスタートを切るイメージを頭の中で繰り返す。屈伸をし、足の腱をぐっと伸ばす。バクバクと体を内側から蹴りあげる心臓に手を当てる。ゆっくりと呼吸をし、夏の空気を肺いっぱいに取り込んだ。

 目を開ける。

 青い空が、白い光が、ゴールの横に立っている由希が、目に入る。

 いつしか心臓は落ち着いていた。

 スタートラインに立つ。スタートを切る準備をする。由希が手を上げる。前を見る。

「よーい」

 全ての音が消えていた。

「ドン」

 たった一つ。その声だけが聞こえた。

 僕は走り出した。最高のスタートだ。前かがみの体勢のまま体を押し出す。スピードが乗ってきたあたりで上半身をしっかり立てる。風が流れる。景色が流れる。体は今まで感じたことのないスピードで、前へ前へと走っていく。

 十メートルを超え、二十メートルを超える。はっ、はっ。地面を足の先で掴まえ、思い切り蹴りつける。

 三十メートルが過ぎ、四十メートルも過ぎる。これは本当に行けるんじゃないか。

 そして五十メートルを迎えた頃、僕はいつものように前を行く影を睨んだ。

 決して追い越せない影。

 僕はそいつに竹下を見ていた。でも、

「ヨォォォシィィィくぅぅぅん。顔を、上げろおおおぉぉぉ」

 由希が僕を呼んでいた。

 普段、こんな大声を上げ慣れてないのだろう。若干、裏返っている。

 声の通り、僕は顔を上げた。ゴールを見た。由希がいた。顔を真っ赤にして、叫んでいた。

「前を、見ろおおおぉぉぉ」

 なんだ、あれ。何をしているんだ、由希は。

 思わず笑ってしまった。

「わたしはここにいる」

 両手を広げ、叫び続けている。

「飛びこんでこぉぉぉい」

 由希は、わたしを信じて、わたしを見ていればいいと言っていた。

 だから僕は由希を信じた。

 由希だけを見ていた。

 ああ、そうさ。それはとても簡単なことなんだ。だって――。

 一歩進むたびに、由希に近づいた。なのに、もっともっと速くと思ってしまう。由希のところへもっと速く。一秒でもいい。一瞬でもいい。もっと速く。

 世界の中心に由希がいた。

 それ以外は何もなかった。

 一歩、二歩、三歩。決してスピードはゆるめない。それどころか増していく。

 最後の一歩はぐっと足に力を入れて、由希の言葉の通り、彼女が広げた胸の中へ飛び込んだ。夏なのになぜだか甘い春の香りがした。桜の匂いだった。

 瞬間、ピッという電子音が聞こえ、同時に世界がぐるりと回った。へ。自分の間抜けな声だけが耳の奥に残る。

 気付いた時、僕は仰向けに倒れていて、由希が僕の首に手を回し、体の上にいた。恐らく地面に衝突する瞬間に体を捻らせて、僕を下に敷いたのだろう。

「いってー」

 打ち付けたのは背中のはずだが、体中が痛い。咳き込んでしまい、呼吸が出来ない。痛みに悶えている僕の首から手を外した由希は、僕の心配など全くしてくれなかった。自分の手のひらを見てばかりいた。てっきり抱きとめてくれるものだと思っていた僕は、思わず叫んだ。

「何、するんだよ。背中、めっちゃ打っただろう」

 でも由希は僕の言うことなんか意に介さず、満面の笑みで僕の目の前に手のひらを差し出す。

「ほら、見て」

 何のことだか分からなかった。今は背中の痛みの方が重要だった。お腹に感じる由希のお尻の感触の方が重要だった。反応が微妙だったからか、由希は拗ねたように唇を尖らせた。

「もっと嬉しそうにしたら?」

「え。でも、何が?」

「タイム。ほら、ちゃんと見て」

 何を言われたのか理解するまでに、およそ十秒。目の前の現実を受け入れるのに、さらに五秒。由希の手もとのストップウォッチに表示されたタイムに焦点が合っていく。

 百メートルの新記録だった。

 竹下のタイムを超えていた。

「何で?」

 途端に涙があふれてきた。瞳の奥で、由希の笑顔が滲んでいる。タイムレコードも滲んでいる。ああ、もう見えないや。

「由くんにはもう竹下くんを超えるだけの実力はあったんだと思うよ。でも憧れが強すぎて、無意識に力をセーブする走り方をしていたの。ゴール前の五十メートルを切ると、途端に下を向くよね。そのせいでちょっとスピードが遅くなってた。前を向いたまま走ったらいいのにそれをしなかった。ううん。出来なかったんだよね。ずっと前を走っているはずの竹下くんが、前からいなくなっちゃうのが怖かったから。由くんは本当に竹下くんに憧れてたんだね」

 僕は目を手で覆い、歯をぐっと噛みしめた。そうしないといろんなものが零れてしまいそうだったから。何より、由希にこんな顔を見られたくなかった。

「本当にすごい奴だったんだ。あいつが今まで陸上を続けていたら、僕なんか目じゃないくらい速くなっていたはずなんだ。僕はそれが見たかった。ああ、そうだ。僕はあの竹下よりも速い竹下を見たかったんだなあ」

 でも、そんなものはいなかった。

 分かっていたことだ。あんなに努力して、願って、由希に協力してもらって辿りついたその先に、僕が望んでいたものは何もないなんてことは。それでも――

 由希が僕の腕を剥がし目に溜まった涙を、その長い親指で拭ってくれた。右に、左に。またすぐに溜まる涙を、そのたびに。

 視界が晴れて、僕はようやく辿りついた場所に何があったのかを理解する。

「おめでとう。由くんはよく頑張ったよ」

 由希がいた。

 その言葉があった。

 多分、僕の頑張りはそれで全部報われたのだと思う。


 帰りに僕たちはまたコンビニに寄った。

 お礼に今度は僕がアイスをおごると言ったら、由希は何の迷いもなく三百円もするカップアイスを選んだ。いや、まあ、いいんだけどさ。少しだけ迷って僕もまた由希と同じアイスを選ぶ。由希は苺で、僕はラムレーズン。今日くらいは奮発してもいいだろう。お祝いだし。

 二人並んで前と同じ場所に腰を下ろすと、そこに蝉の死骸が転がっていた。

 もうじき夏も終わる。

 由希はじっと命の宿っていない抜け殻を見続け、呟いた。

「蝉ってさ、六年くらい土の中にいるんだよね」

「アブラゼミはそうらしいね。他にも十七年くらい地下生活を送る蝉もいるって何かで読んだことがある」

「うん。それで一週間だけ地上で暮らして死んでいく。何か意味はあるのかな」

「……一応、子孫を残すっていう役割はあるけど」

「メスはね。でも、オスは違う。一匹のオスが何匹ものメスと交尾をしちゃうから、自分の子孫を残せないオスもいるよ。蝉のメスは生涯に一度しか交尾をしないから。ねえ、そのオスの一生にも意味はあるのかな」

 なんだか切実そうに由希が言ったから、僕もちゃんと考えて言葉を返すことにした。

「命の意味はそれぞれで、僕が軽々しく否定も肯定もしていいものじゃないと思う。だけどさ、きっと懸命に生きたはずだ」

「懸命に生きても、それだけじゃ意味はないよ」

「僕はそうは思わない。それは由希が教えてくれたことだよ。必死になってどこかに辿りつけば、そこに欲しかったものはなくても、別のものが見つかることだってある。僕も、見つけたんだ。それに蝉って実は一月くらい生きるらしい」

「うそ」

「本当。なんでも育てるのが難しいから飼育だと一週間くらいしか生きられないんだって。それで勘違いしてる人も多いけど、野生の蝉は一月くらい生きるってさ。テレビでやってた。だから、きっと何かを見つけるさ」

 最後の言葉は気休めだった。

 由希に笑っていて欲しかったから言っただけの安っぽい嘘。

 正直、僕は蝉がどう生きようと、どう死のうと、どうでもよかった。それでも由希が望むなら、僕は精いっぱい祈ろう。彼らの一生がどうか意味のあるものになりますように。

 ようやく由希はカップを手に取り、少し溶けたアイスに口をつけた。美味しい美味しい、なんて言い続ける由希を見ながら、僕もまたカップのふたを外す。

「ん? そういえば結局、由くんは何を見つけたの?」

「秘密」

 さすがに言えるわけがなかった。だから代わりにこう言った。

「でも、僕はきっとこの夏のことを一生忘れないと思う」

 いつか今日が過去になって、大人になって、遠く遠く色褪せてしまっても。

 暑い夏の日。

 流した汗と涙。

 甘いアイスの味。

 桜の匂い。

 そして手に入れた大事なもの。

 由希はプラスチックのスプーンを口にしながらこう呟いた。

 陰になっていてその表情は見えない。

 ただその声は少しだけ拗ねているかのように聞こえた。


 ――うそつき。