Hello,Hello and Hello



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 もともと走るのが好きだったわけじゃない。

 小学校の運動会では、大体、二番か三番だった。すごく速い奴らに交じっての二位なら自慢も出来るけど、運動会の短距離走は同じくらいのタイムの人たちと走らされるので、何を言ったところで出された結果が実力の全てだった。

 そんな僕が陸上部に入ったのは、竹下というクラスメイトに出会ったから。

 中学校に入学してから初めての席替えで隣の席に座った竹下は、僕と同じで新しい学生服に全然馴染んでいなかった。

「これから毎日、こんなものを着なくちゃいけないのか。地獄だと思わない?」

 日に何度も襟を触ってしまう気持ちはよく分かる。

 つい数週間前まで機能性重視の軽く動きやすい服ばかりを選んでいた僕たちにとって、学生服はやたらと重く、窮屈だ。あと妙な気恥ずかしさみたいなものがあった。

「確かに。早く脱ぎたいよな」

 同意すると、竹下は、お、と一瞬目を見開いて、それから妙に人懐っこい顔で笑った。

 学生なんてものを六年もやっていれば、ある程度の勘が働くようになる。ああ、こいつとは友達になれそうだ。

 よろしく、と差し出してきた竹下の手を僕は握り返した。

 小学生の時から陸上部だったという竹下は、普段は寡黙なくせに部活のことになるとやたらと饒舌になった。

 最後の大会でライバルに勝ったこと。夏の合宿の思い出。暑さには耐性があるけれど、寒さに弱いので冬のトレーニングが辛かったこと。先輩にも知り合いが多いこととか。

 陸上に興味はなかったけれど、一度だけ竹下に誘われて陸上部の見学に行ったことがある。

 竹下は速かった。

 百メートルなら三年生まで入れても部内で敵なしだ。

 国語のテストで、十三点というとんでもない記録を叩き出した男とは思えない。つい一時間前までテスト用紙の抹消方法を必死に悩んだ男ではなかった。燃やしたら、さすがにまずいよなあ、なんてバカなことを口にしていた男ではなかった。

 走る竹下は格好よかったのだ。それはもう、とんでもなく。  

 次の日、入部届けを持って行った僕を竹下は快く迎えてくれた。

 思ったよりも楽しそうだったんだろう、そんなことを言う竹下はどこか自慢げだ。

 僕は、そうだな、と頷いた。本当の理由は、気恥ずかしさから言えなかった。まあ、男同士だ。わざわざ全部、言う必要もない。

 新人戦では、さんざんな結果を残した僕と違い、竹下は表彰台の一番上に立った。快進撃は止まらず、一年生ながら地区予選を余裕で突破。県大会でも決勝まで残った。

 さすがに決勝まで行くと竹下クラスのランナーはごろごろいて勝つことは難しかったけれど、一年後、あるいは二年後には期待がもてるような結果だった。まあ、こんなところでしょ、とへらへらと笑っていた竹下より、応援していた先輩たちの方がずっと悔しそうだったのが記憶に残っている。

 三年生の引退の日、先輩たちが次々に語る言葉は、主に竹下に向けられていた。頑張れよ。お前ならきっと全国にだって行けるから。涙を浮かべ、エールを贈る先輩たちに、竹下は、はい、としっかり頷いていたっけ。

 なのに竹下は二学期に入ってすぐに、あっさりと部活を辞めた。

 竹下はもともと陸上に興味なんてなかったのだ。

 あいつの目的は、同じ小学校出身の二つ年上の先輩だった。

 竹下は彼女に恋をしていた。

 結論から言うと、竹下の恋は実らなかった。

 引退式の最後に、副部長と竹下の意中の先輩が付き合い始めたことを報告したからだ。

 一年生ながら部で一番足の速かった竹下は、三年生ながら部で一番足の遅かった先輩に負けてしまった。ああ、そうだ。あいつは負けたのだ。それでもへらへらと笑っていた。おめでとうございます。微かに震える声で竹下はそう言っていた。県大会で負けた時、まあ、こんなところでしょ、と笑っていた竹下の声も思い返すと震えていたかもしれない。

 あいつが退部届を持って行く時、僕は尋ねた。

 今でも、どうしてあんなに感情的になったのか分からない。ただどうしても許せなかった。

「おい、竹下。お前、いいのか。勝負すらしていなかったじゃないか」

 竹下はやっぱりへらへらと笑っているだけだった。

「負けたままでいいのかよ」

 苛立ちが募り、僕は叫んだ。

 周りのクラスメイトが驚き、奇異の目で僕を見た。ひそひそと何かを言っている。普段の僕なら気にすることを、その時の僕は無視出来ていた。ただの雑音だった。僕が聞きたかったのは、そんな声ではない。クラスメイトの、部活仲間の、友達の本音だ。

 でも竹下はへらへらと笑いながら、いいとも悪いとも言わないまま、去ってしまった。

 僕の憧れた竹下の姿を、その背中からもう見つけることは出来ない。そこにあったのは、十三点のテストを受け取った時と同じ背中。勝者ではなく、敗者のもの。

 あれから二年の月日が過ぎた。

 部活は続けていた。僕にしては頑張った方だと思う。そして二年をかけてようやく、一年生だった竹下が懸命に駆けていた場所に辿りついた。僕が憧れていた男がしていたみたいにスタートラインに指を添える。体重をかけた指の先が赤くなる。

 ピストルが鳴り、大地を蹴り出す。

 懸命に走った。

 だから、敗退してしまったことに悔いはない。

 何より凡人の僕が県大会の決勝までこられたのだ。十分じゃないか。ああ、そうだ。十分だ。なのに胸の奥がすっきりしないのはなぜか。

 息をあげ、とめどなくあふれる汗が頬と首を流れて行く。鮮烈な太陽の光に目を細め、熱い空気をたっぷり吸いこみ、僕はタイムを睨んだ。

 最高の走りだった。

 最高のタイムだった。

 それでも竹下のタイムにあと0.1秒、届かない。


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 次の日も、その次の日も由希はやってきた。スポーツドリンクやアイスなんかを持って。

 後輩に頼んでいたストップウォッチは、いつからか由希の手の中に収まっている。

「よーい」

 由希が告げる。

 足にぐっと力を込める。

「ドン」

 同時に僕は駆け出した。

 いい感じのスタートだ。前のめりだった体を起こしていく。体は軽く、足もぐんと前に伸びた。地面を踏みしめた力で、体を前に送る。腕を振る。由希の姿がだんだんと大きくなってくる。体のいくつかの場所に、痛みに似た熱が宿る。

 何度も何度も短い呼吸を繰り返し、肺に酸素を取り込んだ。

 ラストスパートだ。

 歯を食いしばる。

 前を行く影を睨み、追いかけた。

 由希の横を通り過ぎた瞬間、ぴっと小さな電子音が聞こえた。

 そこはもうゴールのむこう側。

 果たして、僕は望む場所に辿りつけたのだろうか。

 ゆっくりとスピードを落として立ち止まり、膝に手を置いて体を支えた。体の穴という穴から水分があふれているような気がする。ああ、くそ。しんどい。

「はあ、はあ、はあ。どう、だった?」

「自己記録更新ならず。あとちょっとなんだけどなあ」

「あー、ダメかあ」

 もう立っているだけの元気もなくて、僕はそのまま地面に倒れ込んだ。土の匂いがした。日に焼けている夏特有のものだ。汗で背中にシャツや砂が張り付いてきたけど、構うもんか。空は青く、世界は白く、照りつける光が肌を焼く。

 酸素を欲しがる体が呼吸を深くさせ、心臓がどくどくと波打っている。胸が膨らんで、沈んで、また膨らむ。体に力が入らない。体と魂が乖離しているかのよう。

「暑い」

 僕が呟くのと、影が僕の顔を覆うのはほぼ同時だった。

「お疲れ。ちょっと休憩しようよ」

 由希だった。

 彼女の手にはスポーツドリンクとお茶のペットボトルが握られていた。どっちがいいと聞かれたので、スポーツドンクを貰うことにする。礼を言いながら、上半身だけを起こし、ペットボトルを受け取った。

 ありがたいことに蓋は開いていたので、そのまま口をつけて半分くらいを一気に飲んだ。

 由希はお尻が地面につかないように器用にしゃがみ、ペットボトルの蓋を開けたり閉めたりしている。太陽でも見ているみたいに目を細め、やがて言った。

「何かさ、男の子って感じだね」

 僕はもう一度ペットボトルに口をつけて、今度はゆっくりと飲み込んだ。ごくりと喉が大きく動く。冷たい液体が体の中心へ流れ込んでいく。

「そんな風に倒れてさ。服とか髪とかが汚れるのを気にしないんだよね」

「当たり前だろう、そんなの」

「当たり前かあ」

「もしかして汚い?」

「いいんじゃない? わたしは恰好いいと思うよ」

 不意に今朝のテレビで天気予報のお姉さんが今日は昨日よりも暑い日になりそうです、なんて言っていたのを思い出した。スポーツドリンクを飲みきり、立ち上がる。

「顔を洗ってくる。由希は影に入って休んでて」

 何故だか、喉の渇きがさっきよりも激しくなっていた。


 わざわざ人気の少ない中庭にある水道まで移動した。

 頭から水を被って、熱を冷ます。髪が濡れて重くなったが、それでもいくらかすっきりする。そのままごしごしと雑に顔を洗うと、汗の混じった水が口に入って塩の味がした。最後に口をゆすいで吐き出し、蛇口から離れた。

 濡れて束になった髪をかきあげ、校舎の影に入って一息つく。はあ。思わず息が漏れていた。

 壁に背中を押しつけ目を瞑ると、由希の笑顔が頭に浮かんだ。格好いいと思うよ。由希の声が耳の奥で何度も響いている。そのたびに幸福になり、胸が痛む。

 走ることに集中しなければならないのに、一体どうしてしまったのだろう。

 こんな感情は生まれて初めてだ。顔だけが未だ熱い。

 しばらくして目を開けると、見知った顔が僕の前を横切った。やけに――とは言っても、普段と比べるとだが――暗い顔をしている。夏の大会で活躍した、今、学校で一番の有名人。

 水泳部の竜胆朱音だった。

「あれ、朱音。何してるんだよ」

 僕の声でこちらに気付いたらしい朱音の表情の変化は、それはもう見事なものだった。一瞬でそれまで漂わせていた暗い雰囲気を自分の奥底にしまい込み、いつもとほとんど変わらない明るさを見せた。

「ん? ああ、ハルか。ちょっと休憩。教室に忘れ物しちゃってさ、取りに行こうかなって」

 なははは、なんて笑っているが、まあ、明らかな嘘だった。そもそもそんな格好で校舎の中へ行くわけがない。

 朱音が身につけているのは、学校指定のスクール水着だけなのだ。

 機能性もデザインも最底辺のもので、性別に拘わらず不評な水着。本来紺色のはずのそれは、水をたっぷりと吸収して黒くなっていた。髪も肌も水に濡れ、タオルで拭いた様子すらない。短い髪の先に水がどんどん溜まっては落ち、水をはじく肌の上をつーっと滑り落ちていく。

「何かあった?」

「……いや、別に」

「そう。まあ、何かあったら言いなよ。聞くくらいは出来るからさ。って、何、その顔」

 驚いてるの、朱音が言った。

「まさか、ハルからそんなセリフを聞くことになるなんて」

 確かに僕らしくないセリフだったかもしれない。

「夏だからね。僕も少しおかしいらしい。いや、ごめん。忘れてくれていい」

「そんな恥ずかしがらなくていいじゃん。でも、そーだね。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 朱音は進行方向を変え、僕の隣にやってきた。

 手を伸ばせば触れられそうな距離。でも手を伸ばさなければ届かない微妙な距離。朱音からは塩素の、いや、プールの香りがした。

 僕と同じように壁に背中を預けた朱音は、やっぱり僕と同じようにふうと息を吐いた。ああ、涼しい。独り言のように呟き、すうと空気を吸い込んでいる。てっきり、そのまま何か話し出すのかと思っていたけれど、朱音はしばらく黙り込んでしまった。

 どこからか吹奏楽の演奏が聞こえてくる。音の出処を探すと、二階にある渡り廊下の窓に、トランペットを演奏している二人の女生徒を見つけた。高く構えられたラッパから放たれた音が、夏の青にぶわっと広がっていく。

 朱音が口を開いたのは、その演奏が一区切りついた頃だった。

「とは言っても、本当に何かあったわけじゃないの。ただ前ほどやる気が出ないってだけ。最後の大会で全国まで行けてさ、自己ベストも更新してさ、燃え尽きちゃったみたい。今日だって、先生に頼まれて後輩の指導に来てるんだけど。なんかね」

 前みたいに泳げないんだ。

 最後の方は聞き取るのが困難なほど、小さな声だった。

 そんなことを言う朱音に、けれども僕は、大丈夫だよ、なんて呟いていた。朱音が僕の方を見たのが分かった。僕は吹奏楽部の二人を見ていた。演奏はまだ再開されない。

「だって、それでもまだ朱音は泳ぎ続けているじゃないか」

「これはもー習慣だから。歯磨きとかと一緒。しなかったらなんだか気持ち悪くなるの」

「うん。だから灯はまだそこにある。小さくなって、分かりにくいかもしれないけど。まだ消えてない。何度だって言ってやる。朱音なら大丈夫。きっともっと遠くまで行けるさ」

 朱音は僕や竹下とは違うから。

 本当に本気で水泳に取り組んでいるから。

 そんな続く二言は、口にはしないけど。

「……なんか、ハル、変わったね」

 どこが、と尋ねると、前はそんなことを言うキャラじゃなかった、なんて言われてしまった。

「前までのハルなら、あたしが気付かなかったら、それこそ声をかけてなんてこなかったよ。何度無視されたか分からないし。みんなの輪の中にいても一歩引いた場所からみんなを見てるの。で、嘘っぽい笑顔を浮かべて、当たり障りのない言葉を言ったりしてさ。でも、今のは違った。分かるよ。今のはハルの本音だった。初めてかも。だから、ふふ。ちょっと、嬉しい」

「夏のせいだよ。暑いから意識が朦朧として変なこと言ったんだ。ごめん」

「だから照れないでいいって。うん。でも、よし。ハルが太鼓判を押すなら、もーちょっと頑張ってみようかな。あ、そうだ。相談ついでに一つだけお願いしてもいい?」

「僕に出来ることなら」

「頑張れって言ってくれない? あたしって、単純だし。多分、もっと頑張れると思うから」

「そんなことでいいの? 他のみんなにたくさん言われているだろう」

「ううん、違う。そんなことがいーの。だから、お願い」

「分かった。頑張れ」

 朱音は目を瞑り、耳に全神経を集中しているかのようだった。

「うん」

「頑張れ」

「うん」

「頑張れ、朱音」

「うん。頑張る」

 すっと目を開けた朱音は正真正銘いつもの人気者だった。明るくて、優しくて、不器用で、どこまでも真っ直ぐな女の子。夏の太陽のように眩しい。

 彼女を見ていると、つい目を細めたくなってしまう。

 僕の左からやってきた朱音は僕の隣でUターンして、もときた方へと歩き出した。

 と、少しばかりその体が小さくなったところで、なぜだかこちらを振り向いた。影を出て真っ白な強い光の中にいる朱音は、体中に光を反射する水滴を纏い、キラキラと輝いて見えた。

「ねえ、あたしも頑張るからさ」

 そして僕に向かって、拳をぐっと突き出す。

「ハルも頑張れ」

「ああ、なるほど」

 思わず、そんな言葉を呟いていた。

 これは確かに。

 少しむず痒くて、でも心地いい。

「どうしたの?」

「いや、これは確かに頑張れそうだなって思ってさ」

 僕の返答に、朱音は少しだけ頬を赤く上気させ、得意げにこう言った。

「でしょ?」


 朱音との会話でようやく取り戻した落ち着きは、しかしグラウンドへ帰った途端に一気に吹き飛んでしまった。

 グラウンドの端にある大きな木の下に由希はいた。

 誰かと話していた。

 男にしては少し長めの髪が似合っている、なかなか格好いい奴だ。サッカー部のユニフォームを着ているそいつの名前は確か、沢近だったか。クラスメイトの佐竹が、やたらと足の速いサイドが入ったんだ、なんて自慢していたのは三ヶ月前のこと。

 少し離れたところでは、サッカー部の奴らが数人、由希たちの様子をうかがっていた。その内の一人と目線が合うと、慌てた様子で散っていった。

 何となく状況を把握する。由希はどうやらナンパまがいのことをされているらしい。あの容姿だし、別に不思議なことじゃない。

 それを踏まえて、さて、どうするか。どうするのが正しいのか。

 そこで、はたと気付く。

 僕は今、どうかしたかったのか?

 そんな疑問に、少しだけおかしくなる。

 暑さのせいで僕は本格的にどうかしているらしい。らしくない。でも、まあ、悪くない。こういうのは、全然悪くないぞ。

 話をしている二人の方へ近づくと、由希が僕に気付き、こちらに駆けてきた。

「どうしたの?」

「ちょっとね、面倒なことになっちゃって」

 僕たちがそんな会話をしている間に、沢近もやってきた。それに反応して由希は僕の背に隠れ、入れ替わるように僕は一歩前に出た。

 たったそれだけで、沢近は開きかけた口をつぐんだ。いや、つぐむしかなかったのだ。

 体育会系の部活において、先輩とは神に等しい存在である。実際、沢近が由希に声をかけたのだって、僕がいない時だった。多分、タイミングを待っていたのだろう。

 僕はにっこりと親しげに笑い、沢近に話しかけた。

「君、沢近だっけ。三年が抜けて、部活も大変だろう? 佐竹ってたまには顔を出すのか?」

 内容はなんでもよかった。僕と、元サッカー部キャプテンである佐竹の関係だけが伝われば。

 沢近は言葉の裏側にあるものをきちんと把握し、悔しそうにしつつもしっかりと頭を下げてから、部活仲間のもとへ帰って行った。