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「少年、きたか」
手招きして僕たちを呼んだカントクは、その大きな体で長椅子の三分の二くらいを一人占めしていた。机の上には、十数枚の映画のチケットや秋穂祭のパンフレットなんかが散らかっている。何度も読み直したのだろう、映画雑誌の表紙を飾る女優さんの顔は随分とかすれていた。
「お久しぶりです。ここで上映してるんですか?」
「ああ。このサークル棟の一番奥の部屋が俺らの部室だ。ちなみに二階の方な。ん?」
そこでカントクはようやく由希に気付いたらしい。惚けたように、由希の姿を上から下まで何度か見て、視線を外さすに僕だけを呼んだ。
「少年、ちょっとこっちこい」
「はあ」
言われるがままにカントクのそばに行くと、そのままサークル棟の端へと引っ張られた。
由希からは少し離れているので、普通に話していても声は聞こえないだろう。なのに、カントクはやたらと小さい声で、なんだ、あの子。めちゃくちゃ可愛いじゃねーか、と言ってきた。
「少年とどんな関係なんだ」
「一応、友達ってことになるのかな。なんでもこの映画が見たかったみたいで、どこから聞いたのか、僕がチケットを二枚持っていることを知っていて。それで」
「俺のファンとかかなあ」
デレっとカントクが相好を崩す。
「違うと思いますよ。なんかこの映画を見ようっていう約束があったみたいです」
カントクのにやけ顔がなんとなく気に入らなくて、必要以上に強く否定していた。
「誰と?」
「さあ?」
二人並んで由希を見る。
由希は長机に置かれた雑誌を捲っていた。読んでいるわけじゃないだろう。紙を捲る感触を、その音を、楽しんでいるという感じ。
「画になるよなあ」
しばらく品定めするみたいに由希を見ていたカントクが呟いた。
「ああいう子は本当に稀なんだよ。可愛いだけじゃない。綺麗なだけじゃない。人を惹きつける何かを持った子っていうのはさ。ということで、少年。映画に出てもらえないか交渉してくれないか?」
「嫌ですよ。自分で頼めばいいじゃないですか」
「だって、なあ」
「だって、何なんですか?」
「……あんな可愛い子に拒絶されると辛い」
「はあ?」
僕は真剣に、本気で、顔をしかめた。
ちょっと待ってくれ。何言ってるんだ、この人は。ていうか、僕を無理やり連れて行こうとした図太い神経はどこに行ったんだよ。
「男ってそういう生き物だろう。美人の前では皆、臆病者に変わる」
「何を格言みたいなことを言ってるんですか」
思わず突っ込むと、カントクの丸い目がじっと僕を映していた。
「少年、なんか変わったな」
「え? そうですか?」
「ああ、変わった。前はなんていうかチョロかった。強引に頼めばなんでもやってくれそうな感じがした。でも、今は少し違うな。自分の感情を口に出来るようになった」
「それはいいことなんですかね?」
「当たり前だろう。流されてばかりのやつじゃ何も掴めないからな。欲しいものは強引にでも手繰り寄せなきゃいけないんだ。そんなわけで、頼むよ。これ以上断るなら土下座するぞ。いいのか、それでも」
なんで僕にそれが出来て、由希には出来ないのか。
まあでも、僕だって男だ。実はカントクの気持ちが分からないでもない。
「なら、こうしましょう。紹介まではします。でも、交渉は自分でしてください」
「ちえ、分かったよ」
「由希」
名前を呼ぶと、由希は雑誌をぱたんと閉じて、体を左右に揺らしながらこちらへやってきた。
「内緒話は終わった?」
「うん。それでさ。この人、実は僕にチケットをくれた人で今日見る映画の監督なんだけど、ちょっとお願いしたいことがあるらしくて」
「わたしに?」
「ほら、カントク」
「お、おう」
大きな背中を力いっぱい押してやる。
巨大な岩を触ったみたいに固くて、熱くて、びくともしなかった。それでも少しの勢いにはなったらしい。
「きょ、きょきょ、今日は映画を見にきてくれてありがとうございます」
「はい。楽しみにしています」
由希がにっこりと笑うと、カントクの顔が真っ赤に染まった。体も小刻みに揺れている。あまりに早すぎる限界だった。まさか、ここまでとは。
仕方なくカントクの代わりに口を開こうとすると、それよりも早くカントクは言った。
「それで、あの、もしよかったらですね。今度、俺の映画に出てもらえないでしょうか?」
由希の方へ大きな手が差し出される。
「お願いします」
「うーん」
「ダメですか?」
「うーん」
「どうか、この通り」
由希は少しだけ意地悪そうに笑った。
「とりあえず、映画を見てから決めていいですか?」
小悪魔の笑みとかいうやつだった。
二十人くらい入れそうな部屋に、十二個のパイプ椅子が置いてあった。四つの椅子が三列に並び、僕たちは二列目に腰を下ろす。床が古いせいか、椅子がガタガタと揺れて落ちつかない。僕たちの他にもあと三人ほど客がいて、開始時刻と同時に部屋の明かりが落とされた。
学校の授業でも使われる会議用のスクリーンに、やがて映像が映し出される。
淡々と続く日常の中で、男の子と女の子が出会い、別れ、そしてまた出会うだけの、どこにだって転がっている物語。
宇宙人が攻めてくることもなく、怪獣が町を壊すこともなく、世界は何の危機に陥ることもなかったけれど、何かがきちんと宿っていた。
僕が映っていたのは、喧嘩別れをして悔やんでいた二人が公園のベンチで再会する重要なシーンだった。ピントはズレているが、僕だと分かる。たった一人で歩いている。
僕が出ていることに気付いたのか、由希が脇腹をつんつんと突いてきた。
いたずらする由希の指を掴んで、僕は彼女の方をちらっと覗いた。
隣の由希は、けれどもこちらを少しも見ていなかった。ずっとスクリーンばかりを見ていた。とてもとても真剣な目で。
こう言っては悪いけど、たかだか文化祭の自主製作映画だ。そこまで真剣に見るものではない。なのにどうして、由希はそんなに真剣に見ているのだろう。
暗闇の中、映画の光で縁どられる由希の横顔はとても綺麗で、残りの五分間、僕はずっとその横顔に見惚れていた。
正門前のバス停に辿りついた時、ちょうどバスが角を曲がっていくのが見えた。テールランプの赤い光が小さくなって、やがて消えた。
次のバスは十分後らしい。
僕と由希以外には誰もいないバス停で、僕たちはプラスチックのベンチに腰掛けた。
「由くん、すごく緊張してたねえ」
由希はニヤニヤと笑いながら言った。でも映画は面白かったね、と。
「最後の主人公の告白がいいよ。いいなあ。わたしもあんな情熱的な告白をされてみたい」
嬉々として語る由希の感想を、僕は聞き流していた。映画の感想よりも聞きたいことが一つあって、そのことばかりを考えていたのだ。聞こうか、聞かないでおこうか。散々悩んだことだけれど、結局、疑問は僕の口から流れ出た。
「だったら、どうしてカントクのお願いを断ったんだ?」
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十数分前の出来事だ。
部室から出てきた僕たちを、カントクは待っていた。
「映画、どうでした?」
「はい。すごくよかったです」
「本当に?」
緊張していたのだろう、カントクは深い息を吐きだした。ぐっと右手を強く握ったのが分かった。ぱあっと笑顔が輝いた。
由希も笑って頷いた。
そして、やっぱり奇跡は起こりませんでしたね、そう言った。
「だから約束通り、お断りしようと思います」
「え?」
隣で成り行きを見ていた僕も、輝いた顔をしていたカントクも、由希が何を言ったのか分からなかった。由希がなぜそういう答えに至ったのか、その理由が分からなかった。
僕たちの表情で何を考えているのか悟ったのだろう。
言い間違いでも聞き間違いでもないことをはっきりさせるように、もう一度由希は告げた。
「ごめんなさい。映画に出ることは出来ません」
頭を下げ、サークル棟からさっさと出て行く。
僕は呆然と立ち尽くすカントクと由希の背中を何度か見比べ、由希と同じようにカントクに一度頭を下げてから、彼女の背中を追いかけた。
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僕の質問に由希は、約束したから、と答えた。
「ねえ、由くんの目から見て、台無しなシーンはあった?」
「……なかった」
「だったらやっぱりわたしは映画に出ないよ。約束だもの」
「意味が分からないな。一体、誰とどんな約束をしたって言うんだ?」
由希の目は、彼女の少しすれた赤い靴の先を追いかけている。二つの靴の先はまるでキスでもしているかのように、くっついたり離れたりを繰り返す。
「ついでだからもう一度聞くけど、由希はさ。この映画を誰と見ようって約束したんだ?」
由希は息を吸い込み、上を向いて吐き出した。それから揺れる足を止め、立ち上がった。
自動的に由希を見上げる形になる。沈む夕日が逆光になって、その表情は分からない。
「わたしたちはね、どこにもない約束をしたの。過去、現在、未来のどこにももう、その約束は存在しない」
「どういうこと? 由希は約束をしたんだろう?」
「確かに約束をした。でも、もう存在しないの。したことさえなくなっちゃった」
「よく分からないんだけどさ。だったら守らなくてもいいんじゃないのか」
「ううん。それでも、わたしにとっては大切なことだから」
由希の声にはきちんと何かが宿っていた。強固なものだった。それは決して僕にどうにか出来るものじゃない。それだけははっきりと分かった。
やがてバスがやってきた。
由希が、ん、とこちらへ手を伸ばしてくる。僕はその手を出来るだけ優しく掴み立ち上がった。由希の手は細く冷たく儚かった。少しでも力加減を間違えてしまえば、たちまち壊れてしまいそうなほど。
「よかったら、明日もわたしと会ってくれる?」
「学校が終わった後になるけれど、それでもいいなら」
「もちろん」
「じゃあ、明日も会おう」
僕たちは約束した。
確かにこの世界に存在する約束だった。
次の日も、その次の日も僕たちは一緒にいた。
本屋に行ったり、図書館で勉強に付き合ってもらったり。
由希はすごく勉強が出来て、僕が解けない問題を根気強く教えてくれた。
気付けば、由希と出会ってから一週間になろうとしていた。
「由くんはさ、いい子だよね」
「おだててもお茶までは出ないけど」
勉強を見てもらったお礼に、コンビニで肉まんをおごったところだった。
「ちぇ、出ないのか」
寒いねえ寒いねえ、なんて下手くそな音頭をとりながら、次第に明かりの灯っていく町を僕たちは歩いた。寒いのって苦手なの、と口にした由希は、手をこすり、指の先に息を吐きかけていた。日に日に季節は冬に近づいている。今日より明日。明日より明後日は、きっと寒い。
郵便局の前を通り過ぎ、駅まであと少しというところまでくると、まるで解き方を間違えた問題を正すような優しい口調で、由希はこんなことを言った。
「ねえ、由くん。あんまりわたしのことを信用しちゃダメだよ」
「どうして?」
「わたしはあなたに、とてもひどいことをしようとしているんだから」
言って、由希は首を横に振った。きゅっと強く目を瞑り、三秒が経った。やがて開かれたそこには不思議な光が宿っていた。あれはなんだろう。戸惑い? 恐怖? 怒り? あるいは決意だろうか。やがてその光も霧散していく。
「ううん。何でもない。忘れて」
由希は顔を隠すように、一つ二つと僕の前へと駆けて行った。
「明日も会える?」
なんとなくこのまま由希が消えてしまいそうで、僕は彼女の背中へと声を放った。
途端に由希がくるりと回って僕の方を向く。スカートが風を孕んで少し膨らんだ。髪がなびいた。まるで踊っているかのようだった。初めて会った日と同じく、心臓がドクンと痛んだ。
「えへへ。初めてだね。由くんの方からそうやって約束してくれたの」
「そんなに喜んでもらえるなら、明日からずっと僕が誘おう」
「本当に?」
「約束する」
「嬉しいな」
いつものように、由希とは駅前で別れた。
由希はちぎれるんじゃないかってくらい手を振っていた。僕もまた力いっぱい振り返す。二人の距離が少しずつ、でも確実に離れていく。
いくらか距離が離れた頃、由希は手を下ろし、僕の名前を呼んだ。
「由くん」
瞬間、僕の体は凍りついたみたいに固まってしまった。
由希はさっきまでの笑顔が嘘のように表情を変え、とても小さな声で何かを呟いた。
雑踏の中でその綺麗な声はかき消され、僕のところまで届かない。
でも、唇の動きで何を言ったのかは分かった。
最後の瞬間、由希はとても悲しそうな顔でこう言ったのだ。
――うそつき。