本屋を出た僕たちは、椎名さんが一度行ってみたかったという喫茶店に入った。
恐る恐る木製の重い扉を押すと、ちりんちりんと二度鈴が鳴った。お店の中は僕が普段聞くことのないクラシック音楽が静かに流れ、コーヒーの香りであふれている。
なんというか大人の空間だった。
時間が緩やかに、そしてとても優しく過ぎていく。
「いらっしゃい。あら、可愛いお客さんね」
店内にはまだ若く、とても綺麗なお姉さんが一人いるだけだった。僕たちの他にお客さんの姿はなくて、お姉さんは、どこでも好きな席にどうぞ、とにっこりと笑った。
僕がきょろきょろと店内を見回している間に、椎名さんはさっさと一番日当たりのいい席を選んで座ってしまったので、慌てて追いかけ彼女の向かいの席に腰を下ろす。
窓から差し込む三月の薄い光が暖かい。
思わず欠伸が出てしまい慌てて噛み殺すと、椎名さんはふふっと笑った。猫みたいね。そんなことを言われた。
「さて、何か頼まないと。瀬川くんは何にする?」
テーブルに広げたメニュー表を覗いてすぐに、げ、と出そうになった声を必死に呑み込む。
メニューはそう多くはなかったけれど、値段がやたらと高いのだ。コーラ一杯に四百五十円。紅茶なんて千円のものもある。一体、誰が頼むんだろう。社長とかかな。分かんないけど。
そんな中、椎名さんは慣れた感じでブラックコーヒーを頼んだので、僕も同じものを注文することにした。コーヒーなんて飲んだこともないのに。
「じゃあ、これ。さっき言っていた本」
注文を終えると、椎名さんが鞄の中から二冊の本を取り出した。その内の一つを受け取る。
これはさっき買ったやつじゃない。もともと椎名さんが持っていた本だ。
本屋から喫茶店にくるまでの間で咲いた本談義の中で、僕は椎名さんにオススメの本を教えてもらっていたのだった。
たまたま持ってきていたから、こちらも貸してくれるらしい。彼女が本を読み終わるまでの時間つぶしにちょうどよかった。
「多分、気に入ってもらえると思う」
「楽しみだな」
本格的に読む前に本をパラパラと捲っていると、コーヒーが運ばれてきた。
湯気と一緒に、独特の香りが濃く立ちこめる。
「ごゆっくり」
お姉さんは一礼して、再び奥へと戻っていった。後ろで一つに結ばれた長い髪が、どこか楽しげに右へ左へ揺れている。
別に意識して見ていたわけではないけれど、椎名さんがなぜか非難するように口を尖らせた。
「お姉さんを見てるの?」
「え?」
「ああいう人がタイプなんだ?」
「違うって。いや、まあ、綺麗だなと思うけど。長い髪がいいよね。女性らしいって言うかさ」
「ふうん。髪は長い方が好きなんだ」
椎名さんは自分の髪の先を少しだけ触って、ため息をついた。それから慣れた様子でカップを手にとり、口につける。ミルクも砂糖もなしだ。彼女の仕草は洗練されていたので、コーヒーを口にするという何のことはない動作すら絵画のように見えた。
ただ一つ。ここまでは、という注意書きを付け加えておかなければならないのだけれど。
椎名さんはコーヒーをゆっくりと口に含み、こくりと飲み込んだ途端、くしゃっと顔をしかめた。ううん、なんて呻いている。どうしたのだろう。
「苦っ。何、これ。まさかこんなに苦いなんて」
「え? よく飲んでるんじゃないの?」
「実は初めて飲んだの」
「それなのにいきなりブラックってチャレンジャーだ」
「だって喫茶店で本を読む女性って、ブラックで飲むイメージがあったんだもん」
まるで毒でも盛られた人のように呻きながら、椎名さんはテーブルの端に置いてあった小瓶に手を伸ばし、取り出した砂糖二欠片を真っ黒な液体に沈めた。くるくるとスプーンでかき混ぜほんの少し口をつけ、再び顔をしかめ、さらにもう一つ追加する。
それから恐る恐るコーヒーを口に含み、今度は、うん、と嬉しそうに頷いた。
「これなら飲めそう」
実のところ、大人っぽい椎名さんに少しだけ緊張していた僕は、それで脱力することが出来た。コーヒーを苦いと言って砂糖を入れている椎名さんは、どう見ても僕と同年代の女の子で、どこにも緊張する要素なんてなかったのだから。
「瀬川くんこそコーヒーをよく飲むの?」
「実は初めて」
正直に言った。椎名さんは、あはははと笑った。
「わたしと一緒だね。砂糖いる? それともブラックにチャレンジしてみる?」
「そうだなあ。せっかくだし、チャレンジしてみよう」
僕は椎名さんと同じようにそのままのコーヒーを口にした。途端に熱さと苦みで舌がえぐられ、顔をしかめた。舌がヒリヒリと痛んだ。どうやら火傷をしてしまったらしい。慌てて水を口に含んで、舌の先を氷に押し付ける。
「どうしたの? やっぱり苦かった?」
「舌、火傷した」
「瀬川くんは案外ドジなんだね」
そう言ってズズッとコーヒーをすする椎名さんがまた顔をしかめた。彼女はしばらく悩んだ末、僕と同じようにお冷を口にした。今度は何が起こったのか、はっきりと分かった。彼女の舌も、きっと僕と同じ状態のはずだ。
「ドジ」
僕がニヤニヤと笑いながら言うと、椎名さんはバツが悪そうに氷を口の中で転がしていた。
パラパラとページを捲る音だけが聞こえている。僕たちが本を読み始めてから、お姉さんは音楽を止め、うつらうつらと船を漕いでいた。気持ちよさそうだ。いい夢でも見ているのか、口もとが緩んでいる。
「ねえ」
呼ばれて顔を上げると、椎名さんが本を閉じてこちらを見ていた。僕も本に栞を滑らせ、同じようにパタンと閉じる。テーブルの上のコーヒーカップはすっかり空っぽになり、その横に置いてあるグラスの水も半分以下だ。
「どうかした?」
「『ハルヨシ』ってどういう字を書くの?」
「何、急に」
「いや、ちょっと気になって。珍しい名前だし」
「もしかして、その小説。名前に関するトリックみたいなものがあったりする?」
椎名さんはびくっと体を動かし、んーん、そんなことないよおう、と棒読みで否定した。怖ろしく下手くそな嘘だった。語尾だって上ずっているし。
少し考え、グラスの表面に付いていた水滴を指先に移し、ゆっくりゆっくりその水をテーブルの上に伸ばしていった。丸い水滴だったものが、線になる。その線が重なる。組み合わさって文字になる。やがて不格好な『春由』が現れた。
「こういう漢字」
「へえ。あ、偶然だね」
椎名さんは『由』の後に『希』と書いた。『由希』と僕は読んだ。
「一文字、一緒だ」
嬉しいな、と椎名さんは言った。
そんな風に本を読み、たまに雑談を挟んだり、ケーキを頼んだりしていると、気付けば五時間近くも経っていた。最後の最後まで、僕たち以外のお客はこなかった。
夜になると気温はぐっと下がり、色とりどりのライトで町は濡れたように輝いていた。
空には星も見える。
椎名さんがいくつかの星の名前を告げたので、どれがその星なのか尋ねてみたけれど、彼女が知っていたのは名前だけだった。
駅に椎名さんを送り届ける途中で、約束通り水色の本を借り受ける。ありがとう、と頭を下げると、どういたしまして、と彼女は言った。ハードカバー特有の重さが今は嬉しい。
「ところで瀬川くんは明日って忙しい? 今、春休みなんでしょう」
「陸上部の練習が午前中あるだけで、午後からは特に何も」
強いて言えば、この小説を読もうかなと思っていたくらい。
「じゃあ、午後からまた会えないかな? 本の感想も言いたいし、聞きたいし」
今日一日、本を読んで話をしただけなのに、随分と楽しかったことを思い返していた。僕が黙ってしまったからか、椎名さんは慌てた様子で付け加えた。
「あ、でも、別に明日までにそれを読んできてってことじゃないの。瀬川くんが今日読んでた本の話でもいいし。なんて言うか、わたし、今日はすごく楽しかったから」
ああ、なんだろう。これ。椎名さんが僕と同じ気持ちを抱いていたことが、すごく嬉しい。
「いいよ。明日も会おう」
「うん」
別れ際に椎名さんは、あ、と宙を指さした。少し前、白く色づいていた声はもう目に見えない。春なのだ。何かが始まる季節。冬は今、一番遠いところにある。
「あの星なら分かる」
そうして彼女はオレンジに強く輝く光の名前を告げた。
「アークトゥルス。ハワイではホクレアって呼ばれている喜びの星よ」
部活も終わり廊下を歩いていると、バタバタと大きな足音をたてて、丸く膨れ上がった白い物体が横を通り過ぎて行った。春休み中の学校、ことさらに部室のある別棟はゆっくり時間が流れていくので、速く動くものはやたらと目に付く。で、だ。今の一体、なんだろう。
視線と思考を一瞬でかっさらっていった物体の正体を歩きながら考えていると、後ろからごつんと頭に衝撃がやってきた。
「いって。なんだ?」
「ちょっと、ハル」
続いて僕の名前を呼ぶ、聞き覚えのある声。
「朱音。いきなり叩くのはなしだろう」
犯人の名前を呼びつつ振り向くと、同級生の竜胆朱音がプリプリと頬を膨らませ仁王立ちをしていた。その右手には真っ白なレジ袋が握られている。さっきの白い物体の正体はこれか。どうやらパックのジュースを詰めているらしい。
後輩への差し入れだろうか。
去年の夏から朱音は水泳部の部長をやっているのだ。
「いや、今のはハルが悪い」
「僕が一体、何をしたって言うんだ」
「何もしなかったのが悪いの。クラスメイトとすれ違ったんだから声くらいかけてよ。ハルはそーゆーところがあるよね。我関せずっていうかさ。よくないよ」
なんだか理不尽な気がしたが、朱音の言う通り事なかれ主義な僕はおとなしく頭を下げることにした。触らぬ神にたたりなし、なんて言うだろう。
「悪かった。朱音って気付かなかったんだ。ぼーっとしてたから」
「あたしに存在感がないって言ーたいの。声をかけてもらえるかもと思ってちょっぴり期待したあたしの乙女心を返せ」
「驚いた」
「何がよ」
「朱音にそんなものが備わっていたなんて」
ぷつん。
あ、なんか今、聞こえないはずの音が聞こえた気がする。
「あんた、あたしのことをなんだと思ってるの」
元々ややツリ目気味だった瞳が完全に吊り上がり、両手に持ちかえた鈍器を朱音はぶうんと振り回してきた。朱音の体は細いけれど、水泳で鍛えているから筋肉がしっかりとついているのは知っている。そう、腕相撲が僕より強いってことも。だから、結構本気で危なかったりする。僕は必死に避けた。避けまくった。
「ちょっ。危ないから、止めてくれ」
「うるさーい」
「分かった、悪かった」
「何が分かったっていうのよ」
「えっと、それは」
「何も分かってないじゃない」
「いや、だから。そう。朱音がとても魅力的な女の子ってことをさ」
叫ぶのと同時に、ひゅんと鼻先を鈍器がかすった。心臓の音が一際大きく聞こえて、トクトクと小刻みに震えだす。一瞬だけ体が冷えて、その後すぐに汗がどばっと出てきた。
僕の必死さが伝わったのか、朱音はようやく攻撃を止めてくれた。
「なんか、そーゆーことをさらっと言うのは本心じゃない感じがして嫌だな」
「じゃあ、なんて言えばよかったんだ」
「もーいーよ。ハルに期待したあたしも悪かったから。痛み分けってことで」
いや、痛い目みたのは僕だけなんだけど。と、喉のところまでせり上がってきた言葉を今度は必死に呑み込んだ。火に油を注ぐだけなのは目に見えている。同じ過ちを犯すものか。
「で、あんた、何してるの?」
「何って、練習が終わったから、部室に向かってたんだ。そっちは?」
「みんなで部室の大掃除中。新入生がくる前に片付けておこうと思ってさ。手伝ってくれてもいーよ。そしたらジュースあげる」
「ごめん。先約ありだ」
僕の言葉に朱音は形のいい眉をひそめた。
「また? なんか、最近、付き合い悪くない? そー言ってこの前みたいに一人で遊びに行くとかじゃないでしょーね?」
「違う違う。今日は本当に人と約束してるんだって」
「ふーん。じゃあ、仕方ないか。残念。でも、少しくらいは付き合ってよ」
「だから、用事が」
「掃除じゃなくて、あたしの休憩によ。そんなに時間とらせないって。ジュースも持って行かないといけないしさ。ぼーっと歩いていたくらいだから、時間に余裕はあるんでしょう?」
朱音の言う通りだった。約束の時間まであと四十分はある。
「まあ、それくらいなら」
「決まり」
朱音は指をパチンと鳴らし、ジュースの固まりを柱のそばに置いた。それから締め切られていた廊下の窓を一つ一つ開け始めた。
透明なガラスがスライドするたびに、朱音の短い髪がサラサラと揺れた。さっきまで暴れていたせいか頬は蒸気し、ピンクに染まっている。
「あー、風が気持ちいい」
「確かに」
同じ窓から顔を出すと、朱音は何だか変な表情を浮かべて、ひえ、なんて小さく悲鳴をあげた。全く失礼なやつだ。そのまま少しだけ距離を置かれた僕は、割と本気で傷ついていた。
その傷ついた心を少しでも癒そうと、遠くの山々を眺めた。今日は天気がいいから、ずっと遠くまでよく見える。うっすらと残るピンクは桜だろうか。あるいは梅か。
「先輩たちさ、卒業していったじゃない?」
僕から少しだけ離れた窓の枠を指でなぞりながら、朱音は言った。
声にさっきまでの覇気がない。
「そうだね」
「なんかさ、急にいろんなことが怖くならない? これからの一年のこととか、その先のこととか。あたし、ちゃんと上手く出来るのかなあ」
ああ、朱音が僕を呼び止めたのは、これを聞きたかったからなのか。
でも、朱音は相談する人間を間違えている。
確かに僕と朱音はもうすぐ最上級生で、共に部活の部長だ。
ただ朱音にいたっては、それに加えて学校中の期待を背負っていた。去年、あと一歩というところで全国出場を逃した朱音にかかる重圧は僕の比ではないだろう。
僕はくるりと体の向きを変え、手すりに背中を預けた。そして胸を反るようにして上を向くと、屋根に半分だけ隠れた太陽を見つけた。白い光に目を細める。
眩しいな、そんなことを思う。
太陽じゃなく、僕には朱音が眩しかった。
負けて悔しいのは当然だ。
そう思えない奴はきっと、選手ですらない。でも、やる前から怖いと思うのは、朱音にはそれだけ必死になって積み上げてきた何かがあるからだ。
僕にそういうのはなかった。
大丈夫とか、出来るさとか、在り来りで当たり障りのない言葉ばかりが思い浮かぶ。でも、それらを伝えたところで、空っぽの僕の言葉じゃ何も解決しないだろう。それでもいくらか考えてみるけれど――
ああ、やっぱりダメだ。
半分に欠けた太陽が僕の肌をチリチリと焼いた。あーと口を開けると、歯の裏のあたりまで出かかっていた陳腐な言葉たちがいくらか蒸発したのか、やけに喉が渇いた。
口の中にはもう、何も残っていない。
「そういえば、知ってる? 数学の松江ちゃん、今度結婚するらしい」
結局、話を変えて逃げることを選択する。
そんな僕らしい不誠実さを、しかし朱音は何も言わずに見逃してくれた。
「嘘。相手は誰よ。体育の自見先生? それとも国語の米くん? 結構、噂の多い人だったけど、ついに一人に決めたんだ」
「え? 松江ちゃん、そんなに噂多いの?」
ちょっとショックだ。清楚系の美人教師だと思ってたのに。
「まだまだハルも甘いよね。気を付けないと、悪い女に騙されちゃうよ?」
朱音が笑う。
僕もまた笑う。
当たり障りのない時間だけが流れていく。
いつか。
僕にも全てを懸けられるものが見つかるだろうか。
頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを考えていた。
朱音と別れ、約束通り椎名さんと合流した。彼女はわざわざ僕の学校の近くまで迎えにきてくれた。電柱に背中を預ける椎名さんを見つけると、彼女はこんにちは、と笑った。
「どうせなら部活の見学でもしてくれればよかったのに」
「そうしたいところなんだけどね。瀬川くん、一人で走っているわけじゃないんでしょう」
「そりゃ、部活だからね。他の部員と一緒だよ」
「うん。だったら、やっぱりダメだよ。そこはわたしの踏み入っていい場所じゃないもの」
「別に、バレないと思うけどなあ」
「そういう問題じゃないの。これはわたしが自分で決めたルールだから」
そんな他愛もない話をしながら、椎名さんの提案で学校近くの河川敷に移動する。黄色い菜の花の周りを、真っ白な羽をした蝶が飛んでいた。まるで踊っているかのようだ。
椎名さんは楽しげに、蝶の止まっていない花に手を伸ばした。そうして、彼女の指先が花弁の一つと繋がった。
僕の方を見ずに、椎名さんが尋ねてきた。
「ねえ、どうして瀬川くんはさ、本屋でわたしにあの本を取ってくれたの?」
そっと彼女の指が離れると、花弁が微かに揺れた。振動が近くに咲いている他の花たちに伝わると、それに反応した蝶たちが一斉に空へと飛んでいく。風に乗り、まるで泳いでいるかのように優雅に飛ぶ蝶の行方を、椎名さんは最後まで目で追っていた。
「君が取ってくれって頼んだからだろう?」
「うん。でも、瀬川くんも同じものを探してた。欲しかったんでしょう。なのに、どうして?」
「先に見つけたのは椎名さんだ。だったら購入する権利は君にある」
「少しも葛藤しなかったの?」
葛藤、はなかったと思う。ただ残念だと思ったくらいで。
僕が答えなかったのを肯定だと受け取ったのか、椎名さんは、あのね、と呟き立ち上がった。僕たちの身長は大体同じくらいなので、目線もまた同じ高さにある。
「本当に欲しいものは、自分から手を伸ばさないと手に入らないんだよ」
「何それ。誰かの名言?」
「ううん。先人(わたし)の教え」
と、椎名さんは僕の方へと手を出した。握られていた拳が、花が咲くように開いていく。
「手を繋いでくれる?」
「え?」
「お願い」
「……別にいいけど」
さっき彼女が菜の花にしていたように、彼女の指の先にそっと触れる。それから僕の指は彼女の指をなぞり、やがて二人の手のひらが重なる。
瞬間、お互いがしっかりと力を込めて、二つの手がようやく繋がった。
「うん。わたしが言いたかったのはこういうことなんだけど、分かるかな?」
僕は首を横に振るしかなかった。
全く、これっぽちも分からない。
「いつか瀬川くんにも分かる時がくればいいんだけど」
小さく呟いた彼女の声は聞き取りづらく、尋ね返すと椎名さんはごまかすようににっこりと笑った。
「何でもない。それより、今日は何して遊ぼうか」
その後、二人でいろんな所に行った。
ゲーセンで遊び、ボーリングをし、映画を見た。時計の針が六時を過ぎ、椎名さんを駅まで送っていく途中で、知った顔に会った。
クラスメイトの御堂卓磨だ。
どうやらバスケ部の仲間たちと遊んでいたらしい。
「よお、ハルじゃん。何してんの?」
卓磨は他の皆に、先に行っておいて、と手で合図を送った。
「何してるってわけでもないんだけど、まあブラブラと。卓磨は部活帰り?」
「まあな。これからカラオケ行くんだけど、一緒に行くか?」
「止めておく。バスケ部に知り合い少ないしさ。それに僕も一人ってわけじゃないし」
「そっちも部活の奴らと一緒とか?」
「いや、部活の皆じゃないんだけど」
尋ねられて、ふと考える。
椎名さんとの関係って何なのだろう。知り合いなのか、友達なのか。言葉を濁していると、椎名さんが僕の肩からひょっこりと顔を出した。
「こんばんは。瀬川くんの友達ですか?」
「え?」
椎名さんの顔を見た途端、卓磨の時間が完全に停止した。再起動まで五秒くらい必要だった。気持ちは、まあ、分からなくもない。逆の立場だったら、僕も同じようになっていただろう。
「は? えええ。ちょっと待て。誰だよ、この美人。うちの学校の子じゃないよな? ていうか、え、え、お前、まさか」
結構、珍しい光景だった。
普段、成績優秀でスポーツも万能の卓磨は同級生たちと比べて頭一つ分くらい大人っぽい。どんな難しい問題を前にしても、涼しい顔で解いてしまう。
その卓磨が僕と椎名さんの顔を、あんぐりと口を開けて交互に見返していた。
「待て、卓磨。君は何か勘違いをしている」
「何が勘違いだ、裏切り者」
「いや、だから待てって。僕は別に何も裏切っていない」
弁明をしようと卓磨を宥めていると、椎名さんが僕の服の端をちょいちょいと引っ張った。何だろうと思った瞬間、彼女は僕の耳に手を当て、ふっと息を吹きかけてきた。ぞわっという感覚と共に、僕は耳を押さえ、ひう、なんて声を上げてしまう。寒気が背中を走り抜け、頬が熱くなる。何なんだ、一体。
そんな僕を、卓磨が親の敵を見るような目で睨んでいた。
「おい、何が何も裏切っていないだ。何言われたんだ。好きだよとか言われたのか。完全にいちゃついてるじゃないか」
「いや、今のは違うって。椎名さんからも説明してくれ」
「ええ、瀬川くんにはわたしの気持ちが届かなかったの?」
椎名さんはわざとらしく体をくねらせ、爆弾を落とした。
ぐうの音も出ないほど完璧なとどめだった。
ちくしょう、と卓磨は叫んだ。
僕の頭を軽くどつき、夜の街へと走っていく。ハルの裏切りものー、爆ぜてしまえー。大きな声が木霊している。卓磨の姿が見えなくなった後、僕は尋ねた。椎名さんは、あはははとずっと笑っていた。
「今のわざとだろう?」
「何のことでしょう?」
顎に手をあて、とぼけている。
「完全に確信犯だ」
「まあまあ。それとも瀬川くんは嫌だった?」
「え?」
「わたしとそういう風に見られるのは嫌だった?」
「……嫌ではないけど」
「そ。なら、いいじゃない。それよりわたし驚いちゃった。瀬川くんもさ、同級生とかを呼び捨てにするんだね。なんかそういうイメージがなかったから」
「親しい人は大体呼び捨てにしてる」
「そうなんだ。じゃあさ、わたしのことも由希って呼んで。わたしは瀬川くんのことを、これからずっと由くんって呼ぶから」
「ハルじゃなくて?」
「わたし、春って嫌いなの。でも由は好き。おそろいだもん。だからあなたは由くん」
「春が嫌いって、どうして?」
「……春になって、暖かくなって、雪が溶けてしまったら。見えなくなったら。皆、雪のことなんて忘れちゃうでしょう? 確かに積もっていたはずなのにね。なんだかそれが悔しいの」
漢字は違うけれど、彼女も確かにユキだった。
椎名さんも誰かから忘れられたことがあるのだろうか。
彼女のことを何一つ知らない僕には、簡単に否定も肯定も出来ることではなかった。
ただ春のことが嫌いと言われたことだけが、やたらと胸に刺さっている。
春と雪は一緒にはいられないと、そう言われたような気がしたから。
「ねえ、由くん。わたしのこと、由希って呼んで」
それでも彼女が望むなら、僕は彼女のことを由希と呼ぼう。
「分かったよ、由希」
途端に由希の顔が赤くなった。
「うわあ、名前呼びって思っていたよりもやばいね。そう言えばわたし、お父さん以外の男の人にそう呼ばれたの初めてかも」
頬を指先でぐにぐにと動かしている由希を見ておかしくなったけれど、頭の片隅で、心の端で、何度も何度も彼女の言葉がリフレインしていた。
――わたし、春って嫌いなの。