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「ユヒテルは禁忌の山だ」
中年の男が、若い女の子に言い聞かせている。
「俺の親父も、またその親父も、山に近づこうとすらしなかった。なあアリス、年長者のいうことは聞いておくもんだぜ」
街にある、唯一の大衆食堂でのことだ。
アリスと呼ばれた女の子は看板娘、男は店長といったところ。親子かもしれない。
「山脈のむこうからやってくる人もいるわ」
「たしかにな。命知らずな旅人が時折やってくる。けれど、数年に一度だ。その一人がユヒテルを越えるまでに、一体、何人の旅人が死んでいるかわからない。なあ、悪いことはいわない、やめておくんだ。旅がしたいなら、首都にでもいけばいいじゃないか。どうしてあの山脈にこだわる?」
「だって、それは――」
アリスと呼ばれた女の子が言葉に詰まる。
ヨキは少し離れたテーブルに座り、彼らの会話に耳を傾けながら、ナイフとフォークを動かしていた。鉄板の上にある肉を、几帳面にサイコロ状に切り分けてゆく。全てを綺麗な立方体にしないと気が済まない。自分でも変な性格だと思う。
肉を切っているあいだも、アリスと呼ばれた女の子と男の会話はつづいている。
「あそこは悪魔が住む山だぞ」
「そんなの、いってみなきゃわからない」
「わかるさ。金鉱を探しにいった連中がどうなったか知っているだろ」
どうやらアリスは街を出て、北にある山脈を越えたいらしい。男はアリスの身を案じ、旅に出るのは仕方ないとしても山にだけはいかせまいとしている。
悪魔の住む山。その言葉を聞いて、ヨキは微笑む。なかなか素敵な響きじゃないか。
「ところで先輩、それ、僕の肉なんですけど」
ヨキが時間をかけてサイコロ状に切った肉が、いつの間にか減っている。みれば、対面に座っているシュカの口が、ネズミの頬袋のようにふくらんでいた。
「冷めると美味しくないからさ」
「だからって先輩が食べなくていいんですよ。それより、よく二人分も食べれますね。けっこうな厚さがありましたけど」
「ふふ」
「褒めてませんよ」
しかし、よくもまあそれだけ食べて太らないものだと感心する。シュカの体は細い。顔にも余分な脂肪は一切ついておらず、目元も涼やかだ。体温の低そうな顔つきと、はっきりとした輪郭は、氷の結晶のような印象を与える。その容姿とスタイルは、どれだけ食べても崩れる気配がない。太らないのだ。それは質量保存の観点から、とても理不尽なことに思えた。
シュカは随時、ヨキの皿にフォークをのばし、肉をひきあげていく。
ヨキは仕方なくもう一枚肉を注文することにする。晩飯を抜いては眠れない。しかし注文するにも、ウエイターであるアリスと、店長らしき男が話し込んでしまっている。注文するタイミングをうかがう。そのときだった。
「なあ、あんたもそう思うだろ」
ヨキが顔を向けていたため、興味があると勘違いしたのだろう。男がヨキに同意を求めて呼びかけてきた。
「あんた、旅の人間だろ? 普通あんな山に入ったりしないよな」
「あ、うん」
適当に相槌をうち、調子を合わせる。
「そんなに危ないのかい?」ヨキはたずねる。
「ああ。ロホがいるからな」
「ロホ?」
「ユヒテルに住む悪魔の名前さ」
開拓以前、この地には先住民がいた。ロホとは、彼らの言葉で『黒い瞳の悪魔』という意味だという。ちなみに、ユヒテルは『還る場所』なのだそうだ。
「ロホの吐息は滅びの風で、黒い瞳は生きとし生けるものを石に変える」
「信じているのか?」
ヨキがたずねると、男は壁際にある木製の棚をあごで指ししめす。
「ユヒテルを越えてやってきた旅人が山でみつけてきたものだ」
棚の上には、ネズミや小鳥の石像が置かれている。街の入口でみたフクロウと同じく、あまりに精巧で、異様な雰囲気の石像群。
「その悪魔はどんな姿をしているんだろう?」
「誰も知らないさ。ロホの姿をみたときは石になるときだ。このあいだ首都から金鉱を探しにきた連中もかえってこなかった。北の山脈はやめておけといったのに。ところで――」
男がヨキとシュカを見比べ、怪訝な顔をする。
「あんたたち、一緒に旅をしているみたいだけど、まさか恋人同士じゃないよな?」
ちがう。ヨキとシュカは年齢が近いため一見してわかりづらいが、部下と上司の関係にある。
ヨキはそれについて説明しようとするが、その前に、アリスが会話に割って入った。
「お客さんに失礼なこといわないで。顔の釣り合いが取れない恋人がいたっていいじゃない。素敵なことよ。外見じゃなく、内面で判断してるってことなんだから」
「たしかにそうだな。お姫様と召使、身分違いの恋のほうがロマンがあるもんな。悪かったよ。アリスのいう通り、人間は内面が大事だ。あんた、よっぽど綺麗な心をもってるんだな」
「そうよ。こんなに根暗な顔なのに、こんなに綺麗な人を連れてるんだから。きっと聖人のような心をおもちなのよ」
ヨキは真顔でそのやりとりを聞いている。
「それで、悪魔の山だっけ」
シュカが会話に加わる。ヨキの肉を食べ終わったのだ。ヨキは一口も食べることなく何もなくなった鉄板をながめながら、自分の扱いがひどすぎるのではないかと首をかしげた。シュカはそんなヨキのことなど気にもとめず、明るくアリスに話しかける。
「あなたはその山の向こうにいきたいのね?」
「そうなの。この街のことは好きなんだけど、遠くにいきたいって気持ちがずっとあって。自分でもなぜだかわからないんだけど」
アリスはうっとりとした顔でシュカをみている。初対面の人間はたいていその整った容姿に目をくらまされる。女であれば憧れるし、男であればだいたい惚れる。もちろん、ヨキはシュカのテキトーな性格を知っているので、間違っても惚れたりはしない。
ヨキは会話から外れて、ガラス窓の向こうに目をやる。
夜闇のなか、青白く光る山脈がみえる。それは悪魔が住むにふさわしい場所に思えた。
亀裂のように走る燐光は時折長くなったり短くなったりする。風に流れる様子はないが、ほのかに揺らめいている。
終末の風景があったとしたら、こういうものなのかもしれないな、とヨキは思う。
「俺たちはあれをみながら育ったから感覚がマヒしがちだが、あんなもの早々あるもんじゃない。普通じゃないんだ。危険だ。あんたもそう思うだろう?」
男がヨキに同意を求めてくる。一緒に説得して欲しいのだ。ヨキとシュカは旅人という名目でこの街を訪れている。旅慣れた二人が「危険だからやめなさい」といえば、アリスもあきらめるのではないか。そんな期待をしている。
ヨキは男の意図を察し、その誘導にのろうとする。彼は本気でアリスを心配しているし、何より、こちらに面倒事がふりかかってくるのを避けたかった。初対面の人間の個人的な事情に首をつっこむほど、おせっかいではない。
『あの山は危険だ。多くの場所を旅してきた僕たちでも越えられない。やめたほうがいい』
そう言おうとした。しかしシュカが早かった。
「とりあえず、いってみたらいいんじゃないかな」
晴れ晴れとしたシュカの口調に、アリスの顔が明るくなる。
「どこかにいきたいと思ったら、いってみるべきなんだ」
想定外の言葉に、男が抗議する。青白い光を放つ、死後の世界のような山。アリスがそこに足を踏み入れて死んでしまったらどうするのか。責任はとれるのか。
もっともな意見だとヨキはうなずく。
「大丈夫だよ」
それでもシュカはどこ吹く風だった。
「アリスがあの山脈を越えるまで、私たちが一緒についていく。心配ない、悪魔がいたとしても私たちが守るから」
手を取り合うシュカとアリス。
ヨキはそのとなりで、そっと頭を抱えた。