世界の果てのランダム・ウォーカー



 しかし、ヨキがみたものは悪夢だった。

 朝起きたら、シュカもアリスも石になっていて、山小屋の女性が笑っている。その瞳はこの世の憎悪をすべて塗りたくったように黒い。倒そうとしたのだろう、シュカはナイフを持ったまま、彫像になっている。ヨキはそれをみて、激しい後悔に襲われる。やはり一緒に起きて見張っておけばよかった。

 深層心理にある悲観的な想像力が、そんな悪夢をみせたのだろう。

 現実はのん気なものだった。朝陽のまぶしさで目がさめる。

「ちょっと薬を盛りすぎたかな」

 シュカはもう旅装になっていた。

「みんな準備できてるよ。朝ごはん食べたら、いこ」

 女性は相変わらず影のかかったようなところがあったが、明るい表情で手をふり、ヨキたちを送りだしてくれた。


 旅も終わりに近づき、シュカが決めた湖の脇を通るルートにさしかかる。これまでずっと登りつづけていたため、高度があがっている。おかげで山々が見渡せ、雄大な景色が広がっていた。そして山と山のあいだ、エアポケットのように空いた小さな平地に湖がみえる。

「すごい!」

 アリスが感嘆の声をあげる。

 湖が、宝石のように真っ赤だった。空と山と、赤い湖が織りなす強烈なコントラスト。

「なるほどね。石化の正体がわかったよ」 

 シュカがいい、「僕もわかりました」とヨキがつづく。

「え、どういうこと?」

 一人だけわからず、アリスは不満そうな顔をする。赤い湖と動物が石になる現象とがうまく結びつかないのだ。

「まあ、いってみればわかるよ」

 シュカはルートをそれ、湖にむかって歩き出した。



 油断すれば滑り落ちてしまいそうな斜面をシュカは軽やかに駆けおりてゆく。

 ヨキは慎重に足を出し、ゆっくりくだろうとする。

「大丈夫かい?」

 不安だろうと思い、後ろにいたアリスに手をさしのべる。しかし、

「すごい、こんな湖があるなんて」

 アリスは興奮しながら、シュカにつづいて駆けおりてゆく。

 ヨキは手をさしだしたままの姿勢で静止する。

「足の怪我が完治したみたいで僕は嬉しいよ」

 誰もいない岩場にむかっていってから、しょぼしょぼと斜面をくだっていった。

 湖の脇、干上がったところに無数の石像が転がっていた。水鳥や蝙蝠、トカゲ、そして動物だけでなく植物までもが灰色になっている。色の失われた世界。終末というものがあったとしたら、こういう光景なのかもしれない。

「湖の水が、みんなを石にしたの?」

 アリスがたずね、シュカがうなずく。

「普通の水じゃないんだ。アルカリ性というんだけどね、それがとても強い。そして強いアルカリ性の水に動物が長時間浸かると、表面が石灰化する。石灰岩というものがあるくらいだから、それはもう石なんだよ。湖が赤くみえるのは、アルカリ性を好む微生物が大量にいるから。他の生命はここでは生きれない。石にならない限りね。しかしここまで強いアルカリの湖があるとは驚きだよ」

 青白い輝きは火山ガスで、生物石化の原因は強アルカリ性の湖によるもの。

「これが悪魔の正体だったのね」

 アリスは謎々が解けた子供のように嬉しそうな顔をする。一方、ヨキは無感動だった。

「ヨキ、そんながっかりした顔するなよ」

「別にそういうわけじゃないですけどね。悪魔がいなくて、旅が無事に終わりそうなことは喜ばしいことです」

 それでも心のどこかで期待していた。いまだ観測されたことのない、生命を石化させる存在との邂逅を。

「いつでも世紀の大発見ができるわけじゃないさ。がっかりすることじゃない。この繰り返しが私たちを前に進めるんだ。いつか未確認生物にも出会えるよ」

「たしかに」

 ヨキのちょっとだけ消化不良な気持ち。それも旅の終わりには吹き飛んだ。

 尾根を歩いているときだ。

 絶景だった。

 空が、すぐそこまで迫っている。自分たちよりも高いものはない。視界を遮るものもない。折り重なる山々や赤い湖がみえる。そして山脈のむこうに広がる街さえ見渡せる。尾根を歩いていると、世界の天辺を闊歩しているような気分になれる。

 雄大な景色は心を清々しくしてくれる。洗い流してくれる。ヨキはフルスケールの世界を感じることが好きだった。これだけ広いなら、悪魔だって天使だって、どこかにいるかもしれない。彼らに会いにゆく。自分の知らない何かを探しにゆく。

「夜も歩きたいな」

 日が暮れたあと、テントで休んでいると、アリスがせがんできた。旅の最初にみた風景を忘れられないのだろう。シュカに目配せをすれば、いいんじゃない、という。

「湖をこえたら旅は終わりなんだ。今夜が最後だろうから、夜風にあたるのも悪くないさ」

 異論は無い。もう安全なところまできているし、なにより、ヨキも夜が好きだった。

 ヨキは歩きはじめてすぐ、手に持っていたランタンの灯りを消した。

 夜闇のなか、あちらこちらに、ほのかに青白い燐光が浮かび上がる。夜光虫が飛んでいるような優しい光だ。最初の夜にみた輝きからすれば残り火のようなものだけれど、旅の幕引きにふさわしい、控えめな美しさがあった。

「私さ、なんでこんなに旅に出たいと思っているのか、自分でもわからなかったんだ」

 アリスがいう。

「でも、今はわかる。多分、こんな風景を見たかったんだ。見たことがないからイメージなんてなかったんだけど、世界にはまだまだ私の知らないことがたくさんあって、それを求めてたんだと思う」

 ヨキとシュカは最初から気づいていた。アリスが山脈を越えたかった理由。首都への旅ではだめだった理由。それは単純なこと。首都は誰もが知っている。ユヒテルの向こう側は誰も知らない。それが決定的な違い。

 まだみぬ風景。

 未踏の領域。

 常識を超えた巨大生物。

 想像を絶する自然現象。

 そういう知らない何かを求める衝動が、人のなかには深く静かに流れている。それは人を雪山に登らせたり、深海に潜らせたりする。ときとして命の危険をともなうが、その衝動が大きくなったとき、とどめておくことはできない。ヨキとシュカはその衝動が尊いものだと知っている。それが人を前に進めると信じている。だから調査官として世界を巡っている。

「アリス、それを好奇心というんだよ」

 ヨキはいう。

「大切にするといい」