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 無事なパトカーを使って菱神天を混乱する現場から遠ざける事で、大使や同僚を守ろうとした次の瞬間には、もう別の問題が浮上していた。

「うおっ!?」

 慌てて急ブレーキを掛ける。

 すぐそこの交差点が人で埋まっていた。スクランブル交差点に間違って入ってしまったようだが、信号は車道が青だ。この一〇〇人、二〇〇人を超えるひしめき合いは何なんだ……と呆然としていると、フロントガラスに『答え』がぶち当たってきた。

 いきなりの大騒動で群衆がパニック、という訳じゃない。

 正体は金色に輝く……硬貨?

 あんな色や大きさのもの、見覚えはないけど。

「オリンピック記念金貨だな。一つ一万弱。含有率の割には妙なプレミアがついていたはず」

 雹や霰のような金色の光を読み取り、膝の上の天が恐ろしく正確に答えてくれた。

 改めて外に目をやってみれば、それこそ不意のにわか雨のような感覚で降り注いでいる。ビルの屋上から落ちればボルト一本が凶器になるはずだが、誰も彼も両手を広げて自分から受け入れようとしている。通行人は地面にばらまかれた金貨の掴み合いになっているのだ。

 膝の上の菱神天の唇は止まらない。

「となると『金融を破壊する浪』辺りか。たかだか一〇〇万程度で東京の動脈を塞いで五〇億以上の経済損失を出すとは、いかにもあいつの手口らしい。……しかもあれ、タヌキやキツネが好む『木の葉の小判』だな。本当にろくでもない話だ」

「ちょっと待て、まさかこんな調子で他の道も……」

「封鎖しない理由がむしろ思い浮かばない。出るぞ、このまま立ち往生だと旧ソ連バカの由にまた狙撃される。幸いあの人混みだ、外に出れば紛れられる」

 拘泥していられなかった。

 元からきちんと閉まらない運転席側のドアを開けて、二人して転がり出るように外へ。人混みを縫い、車列の隙間を縫う形で歩きながら、

「どうする? 車がダメなら電車か。ZRは!?」

「待った。ホームの辺りがざわついている」

「今度は何だ!? そっちもトラブルか!」

「あの感じはドーピング愛好家の落かもな。『健康を破壊する落』。あまり近づきたいとは思えない。あいつは長命と死の前触れ、二つの象徴を持つ椿を使ってやりたい放題やらかすし。ホームに意味深な花を一輪供えただけで何が起こるやら」

 うんざりしたような声は止まらない。

「ちなみに、落は変装と撹乱のスペシャリストでもあるから気をつけろ。……何しろ特に運動してないインドア派なのに体脂肪率三%未満だからな。服の中に詰め物するだけでどんな体型にも化けられる」

「じ、じゃあ地下鉄は!?」

 慌てて歩道にある下り階段の方へ方向転換。

 だが。

 直後に。


 ぶわり、と。


 時間の感覚が、吹っ飛んだ。

 下り階段、その向こうで待つ、何か。

 魂を根こそぎ持っていかれそうになった。

 おふざけ系の科学論文に、こんなものがある。

 人間は分相応のスケールに安心を覚える、といったものだ。例えば食べきれないほどのデザートの山やホームシアターの馬鹿でかい画面で水着のグラビア映像を観たいと考えても、実際に目の当たりにすると認識が追いつかなくて恐怖を覚えるらしい。

 まるで蠢く大量の虫や、巨大なぬめる口腔を前にしたように。

 似ていた。

 地下鉄の出入り口という大きな喉奥から溢れるのは、甘い匂いのような何か。

 だけどその物量が、密度が、あまりにも大き過ぎて。

 捉え、きれな……!?

「おおおうえええあああああああああああううううああああああああああああああああ!!」

 耐えられなかった。

 顔を背け、体を折り、気がつけば歩道に嘔吐していた。

「ふんふふんふふんふん、ふんふふんふふんふん☆」

 あどけない少女の声が聞こえた。

 だけど、ボロボロと涙を流す俺の視界はぼやけていて、何も見えなかった。

 誰だ。

 誰かいるのか。

「……『倫理を破壊する夢』。餓鬼(がき)かひだる神(がみ)でも利用してパン屑一つ落としただけで掴み合う、粉塵爆発寸前みたいな欲望の空間を作ったな。餓鬼はものを食べようとすると目の前で燃やされ、それでまた食料を求めてさまよう。となると光を起点にして、犠牲者のスマホやケータイの画面から……今回『は』膨大な食欲かな。とにかく誘発点滅信号でも放っているのか。しかもそれだけの地獄絵図で自分だけ無傷とは、相変わらずえげつない」

 傍らの天が、俺の背中をさすりながら呟いていた。

 あの白い魔女さえ言った。

 えげつない、と。

「ここもダメだな。ほら立て、夢に喰われるぞ」

「ちょっと待て……うえ、地下鉄の人達は、放って……」

「夢ならよほどでない限り、相手は殺さないさ。死には清算の意味があるからな。とはいえ、待っているのが天国か地獄かは当人の価値観次第だが。ま、環境に流されて極限状況だからで全て済ませる事に気楽さを覚える者もいるだろうし」

 ほとんど引きずられるように、再び走り出す。

 こんな調子で後どれくらい『菱神の女』が混ざっている?

 ぐわんぐわんと錯乱する頭を振って、息も絶え絶えに質問する。

「逃げ切れるのか、こんなの……」

「一つだけ心当たりがある」

「?」

「徒歩だ」

 菱神天はさらりと言った。

「意外に思うだろう、だが事実だ。東京も防犯カメラが増えたし、今は真正面から顔を捉えなくても歩行パターンや顔周辺のカラーパレット化でも獲物を追えるらしいが、逆に要点さえ分かっていれば相変わらず欺ける。まして今は車の足を止めて狙撃のサポートをするため、浪だの落だのが一般人の洪水を作っている最中。足に気を配り、俯いて自分の顔に影を落とし、とにかく目立つな。後は人の流れに逆らわなければ抜け出せるさ、この地獄からな」


5


 無事に抜け出したのか、あるいは泳がされているのか。

 俺には判断がつかなかったが、菱神天は何だか意味不明なチェック項目を埋めて一息ついたようだった。

「問題なさそうだ」

「……ああそうかい」

「となると、連中はセオリー通り宿泊先をしらみ潰しに叩いていくはずだ」

「アンタ自宅は」

「現住所不明。そうでなくてもダメだな。お気に入り君の自宅も張り付かれているだろう」

「ならホテルや旅館か?」

「宿泊名簿や防犯カメラを調べられたらアウトだ。『生産を破壊する顕』はサイバー戦争のエキスパートで、軍需企業の生産ラインにだって割り込んで不良品を乱発させる怪物だぞ。人物検索くらいお手の物さ」

「軍需……って、おい」

「比喩じゃないぞ。ヤツはぬりかべって妖怪の力を踏み台サーバーに組み込んでいてな、言ってみれば信号の流れを止めるプロだ。自分が上手に潜るんじゃなくて相手方のセキュリティやファイアウォールを遮断して、固めて、無効化させるスペシャリスト。よほど異形な防御システムでもない限り太刀打ちできない。周回遅れの官公庁なんて狙い放題だ」

「ならどうしろってんだ。ネット喫茶や個室ビデオだってカメラはあるし、橋げたの下で段ボールを組み立てるのだってそれはそれで悪目立ちするぞ」

 若い女性の路上生活者は完全なゼロとは言わないが、比率で言えば圧倒的に少ないのも事実だ。

「一つ心当たりがある。宿泊名簿の扱いが雑で、性質上防犯カメラの取り付けも難しい、それでいてリーズナブルな宿泊先が」

「何だそりゃ? そんな便利なものがどこにあるんだ」

 怪訝に思って尋ねると、菱神天は悪戯好きのような瞳で即答した。

「そこらじゅうにあるじゃないか、ラブホテルが」