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 その瞬間、頭は真っ白になっていて、論理的な計算なんて何もできなかった。

 ただ、嫌だった。

 確かに事件の元凶は菱神夢だ。そこに情状酌量の余地はない。菱神天の口を封じて、菱神籤の体を調べて、『菱神の男』だの『菱神の女』だのの仕組みを逆手に取って、菱神グループを倒して日本全体を金融崩壊で借金漬けにする。そんなの絶対止めなくちゃならない。

 だけど、この構図が嫌だった。

 菱神夢は満足して菱神夢の道を進んで、何一つ不満のない幸せな人生と思っているのかもしれないけど。

 ボロボロに錆びた刃のような瞳。

 それが、何となく。

 もしも艶美のヤツが誰とも打ち解けずに成長していたらこうなっていましたみたいな、そんな像を見せられるのが嫌だった。

 石を投げる側に回りたくなかった。

 だから。


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「な、あ!?」

「正気か、お気に入り君! くそっ!!」


 叫び声が遅れて響いた。

 とにかくがむしゃらだった。敵とぶつかり味方にも命を使い捨てられる、そんな菱神夢の生き方がどうしても許せなかった。

 それしかなかった。

 だから割り込んだ。とっさに飛び出して、菱神夢の細い腰目掛けて体当たりした。

 直後に全てが終わった。

 UAVの群れから大量の空対地ミサイルが放たれる。俺は自分の体の制御もできずにそのままコンテナから飛び出す。菱神夢。一〇歳くらいの錆びた少女を抱えたまま。

 そこは時速一二〇キロで流れる死の世界。

 結局、こうか。

 死にもの狂いで体を張っても裏目にしか出ないか。

「っ!!」

 一層夢の体を抱え込んで、せめて自分がクッションにならないかと願った。おそらく墜落と同時にバラバラになっておしまいだろうけど、何もしないで諦めるのは嫌だった。

 頭が真っ白になる。

 焼ける。

 記憶の連続性がなくなり、痛みの感覚が消え、時間が無限に引き伸ばされていく。

 そして。

 そして。

 そして。

 ・

 ・

 ・

 いつまでそうしていただろうか。

 ひょっとしたら途中で何か絶叫していたかもしれない。喉が内側から引き裂かれたような痛みを発していた。

 でも、それだけだった。

 どこかが折れている様子はない。おろし金にかけたように肉がズタズタになる事も。ただ高速道路の路肩でへたり込んでいて、腕の中には小さな夢がいた。

 彼女も無事だ。

 その事実にホッとしている自分がおかしかった。でも、間違っているとも思いたくない。

 トレーラーは走り去っていた。

 ミサイルの雨はどうなったんだろう。

 爆発は……したと思う。でもトレーラーの残骸はないし、高架も落ちていない。天や籤が、二〇発以上のミサイルを何かしらの飛び道具で迎撃したっていうのか? 巡洋艦のCIWSだってそこまで高精度じゃないぞ。

 そして極め付け。俺が尻餅をついているのは地面ではなく、くの字というかブーメラン型というか。変わった形の、壊れて使い物にならなくなった航空機だった。

「UA……V……?」

 呆然と呟く。

 あの状況で相対速度を合わせてキャッチしたっていうのか。だとしたらどれだけ神業なんだ、菱神顕……?

 対して、俺は結局何もできなかったか。

 命をなげうっても裏目に出て、ミスは勝手にリカバリーしてもらって。本当、何をやっているんだ。

 夢サイドがこちらに集中している隙に天や籤が追跡を振り切ったのがせめてもの救いか。

 俺はどうなんだろう。

 実際。

 菱神天や籤の加護もなく、腕の中には極悪な夢。それにこいつの仲間は大勢いる。チャチなリボルバー一丁でどうにかなる相手じゃないのは散々思い知らされた。ひょっとしたら、本当に詰んだかもしれないな……。

 そんな風に思っていた時だった。

 なんか風向きが変わってきた。

「もじもじ……」

「あん?」

 なんか腕の中の菱神夢の様子がおかしい。顔を赤らめ、潤んだ瞳でこっちを見上げている。

「ソワソワソワああ敵と分かっていても思わず飛び出してしまう命を顧みずに助けようとしてしまう何の力もないのにううん何の力もないからこそ打算抜きで美しいっていうかそんな良質の正義感見たらいいえ倫理を目の当たりにしてしまったら大量の気泡緩衝材のツブツブを前にしたっていうかもう夢ちゃん的に最高のオモチャを見つけちゃったんですけどソワソワソワ」

「……おい、何が起きようとしている。最初から説明してくれ」

「は、はふう。とりあえずおにいちゃんって呼んでも良い……?」

「説明だ!!」

 思わず叫ぶ。まったく推理マニアの艶美といい、こいつらの思考は読めない事が多すぎる!

 が、何故だか夢の方がキョトンとした。

「というか、おにいちゃんにはむしろこっちが聞きたいくらいなんだけど」

「お兄ちゃん呼びやめろ。具体的に何を?」

 うん、と意外なほど素直に夢は頷いた後、


「何で天ちゃんにくっついて世界滅亡大作戦なんかに手を貸していた訳?」


 意味が。

 全く理解できなかった。


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 情報を整理したい。

 つまり、何が起きて、どうなった?

「待て待て待て! 陰謀を企てていたのは菱神夢を中心としたグループだろ!? 人魚だの何だの利用して、性転換して『菱神の男』から『菱神の女』に鞍替えした籤を参考に、逆に『菱神の女』から『菱神の男』側に切り込んで菱神グループを内側からズタズタにするとかいう……!?」

「おおう、カバーストーリーにしては練ってるな。でもそれ、全部天ちゃんの一人語りだよね? 客観的根拠ってあるのかな」

「……っ! そ、そうだ、菱神籤だって」

「『信頼を破壊する籤』。やだー、絆とか繋がりとかそういう不可侵があるほど生き生きと裏切る菱神なんだけど」

「うそ、だろ」

 頭の中で全てがガラガラと崩れていく。

 大前提から真っ白になっていく。

「じゃあ、そもそも何だったんだ? 菱神天が誘導して警察と自衛隊がかち合ったところからやり直しだぞ!?」

「天ちゃんはね、希望を破壊するんだよ? 日本壊滅なんて小さな事は言わないってば」

腕の中でもぞもぞしながら夢は笑う。

「彼女の狙いは最初からただ一つ。完全覚醒すれば地球人類の四分の一を死滅させると言われる最強最悪の『菱神の女』」

 いや。

 ちょっと待て、まさか……!!


「菱神艶美。『人間を破壊する艶美』の接触不良になってる配線を繋ぎ直す事だよ、おにいちゃん」


 あ。

「あああああああああああああああああ!?」

「つまり」

 くすりと笑って夢は小さな人差し指で俺の顎をなぞりながら、

「自衛隊との逃走劇も、パレード突入も、たまたま一人の刑事を人質にしたのも、みんなブラフだった。どうでも良かった……内幕隼、世界で唯一菱神艶美の凶暴性を抑え込み、可愛らしい女の子に留めておけるおにいちゃんと無事コンタクトを取れれば。あらゆる知的殺人を網羅し個人の限界をはるかに超えた神業的な被害をもたらす艶美ちゃんのセーフティである内幕隼を掌握できれば。短期にせよ長期にせよ天ちゃんはおにいちゃんとがっつり絆を育んで、依存度を高め、コントロールできる環境を整えるつもりだった。もちろん間接的に菱神艶美を操るためにね」

「……、」

「露骨な演出はなかった? 裸のスキンシップしてきたり、おっぱい押し付けてきたり。くすくす。ダメだよー、男は狼だけど女は狼を飼い慣らして犬に退化させちゃうくらいの『人』なんだから、これくらいで情を移しちゃあ」

 艶美。

 菱神艶美。

 普段何気なく隣にいる推理マニアだけど、やっぱり『菱神の女』の一人。しかも相当イレギュラーなのはぼんやりと伝え聞いている。

 まさか、本当にそこが核なのか。

 それしかないのか。

 その成否を懸けてこれだけの怪物がいがみ合っている。つまり本当の本当に、たったそれだけで……世界滅亡クラスのカタストロフになってしまうのか!?

「何でなんだ」

「うん?」

「何で菱神天は破滅にこだわる!? そうまでして! おとぎ話が現実のものになったら四分の一が死ぬんだろう? 四人に一人って事は、おおよそ地球全家庭に一人か二人の割合だ。間接的な大混乱まで含めれば地球全土がメチャクチャになる。天だって生き残れる保証はないだろう!?」

「『希望を破壊する天』」

 夢は呆気なく言ってのけた。

「とはいえ、別に私達は倫理とか生産とかに縛られているって訳じゃない。好き嫌いがあるのは否定しないけど、あくまで一番手に馴染むツールってだけ。だから壊したいからには、壊したい理由があるんでしょ。今から調べて、まして理解できるとも思えないけど」

 頭がぐらつく。

 もうダメだ、本当についていけない。永遠に追いつく事のできない相手を止められるなんて思えない。

「でも良かった」

 一方、夢はとことん気楽だった。

「菱神艶美のコントローラー、ううん、デトネーターかな。とにかくおにいちゃんが天ちゃんの手元から離れたのは大きいもん」

「そんな、ものなのか?」

「天ちゃんがいくら粉かけたって艶美ちゃんは動かない。おにいちゃんが目の前でじわじわと惨殺されていくくらいインパクトがないとダメ。ただ死ぬんじゃなくて、もっと尊厳を奪う方法でね。これで、ようやくゲームセットが近づいてきた。私達でおにいちゃんを守り続ける限り、主導権はこっちで握れるんだから」

 そうじゃない。

 そんな話じゃない。

 菱神天は規格外の『菱神の女』だ。その怪物が、こんな迂闊な展開を許すのか?

 何か保険のようなものは仕掛けていないのか。

 そういう意味での質問だったんだけど、

「あ」

「おにいちゃん?」

 間近の疑問に答えられなかった。

 パン! と耳の裏で変な炸裂オンがあった。ぐるんとそのままシカイがまわって、

「おにいちゃん!?」