13
どこかで目を覚ました。
ステンドグラスから差し込む光や小鳥の鳴き声から察するに……もう夜は明けているのか。
近代的な造りではない。馴染みもない。西洋の教会だか礼拝堂だか、細かい分類は分からないけど、そんな感じの建物だった。
「おっと、気がついたみたいですよう」
目の前でそう言ったのは、ええと、シスター? それにしてはいやに扇情的っていうか、ボディライン隠す気ゼロっぽいんだけど……。
「……?」
「えへへ、自己紹介がまだでしたね。私は菱神箍で、あっちのが顕さん、失さん、向こうが浪さん、由さん、落さん、新さん、えと、夢さんとは顔を合わせていたんでしたっけ」
「待て待て、いきなりドバッと言われても分かるか」
ぐらつく頭を抱えるようにして、何とか長椅子から起き上がる。
癖で確かめるが、警察手帳も拳銃も無事だった。取るに足らない、とでも思われているのか。
「ここはどこだ、一体何があったんだ」
「天さんがあらかじめ体内に小細工を施していたようで。三半規管に異物がありますが、今のままでは取り出せません。天さんを無力化して、異物を遠隔操作されるのを防がないと」
「いぶ、つ?」
「妖怪絡みですよ。おそらく鵺(ぬえ)かな、天さんの癖みたいなものだし。遠隔地からの共振で揺さぶるんです、あなたのリンパ液を。マナーモードみたいにね」
鵺。
ギリシャ神話のキメラみたいに、複数の動物を組み合わせた怪物だったか。ガタイに反して鳴き声で人を病気にする致命誘発体だったはず。だとするとネクタイ斬撃もそっち絡みか、いや、伝承と合致しない。攻撃手段の起点は一つじゃないのかもしれない。
あるいは、カラーパレットやアドレス帳みたいに鵺っていう複合式の妖怪を利用して、いくつもの超常を集中管理しているのか。
「鵺は矢に射抜かれて成敗された。だから天さん関係は由さんの狙撃に頼ったんですけど、芳しくなかったようで」
「……、」
改めて、耳の後ろ辺りを人差し指で押す。
脳や心臓に爆弾、よりはマシか?
いや、菱神天としては、俺を攻撃する事で艶美をいたぶらなくちゃ意味がないんだ。だとしたら一発でおしまいの爆弾は逆効果。スナイパーがわざと獲物の手足を撃って転がし、もがき苦しむ様子を見せて物陰から味方が救出に飛び出さないか誘いをかけるのと同じだ。
いつやられたんだろう。
接触の機会はたくさんあった。シャワーを浴びると言った時は裸で背後から首回りに抱き着かれているし、パトカーでは膝の上に乗られて、そもそも最初に腕を極められた時も……。
「あっ、おにいちゃんが起きてる!?」
そんな明るい声に思考を遮られた。
髪の毛ぐるぐる巻きの……あれが顕で良いのか? とにかく女の子から、フライドポテトか何かで餌付けされていた夢がこっちに気づいたようだ。
「んん? んうう???」
「何だガキンチョ。いきなりすり寄ってくるな」
「……周り女の子だらけなのにあんまりドキドキしてないな。だがその良質な倫理があるからこそ面白い。ちなみにおにいちゃんは胸ある派? それとも胸ない派?返答次第では感謝の気持ちをあげるけど」
「お前は会話に順序を設ける事ができないのか!?」
「この反応は普通に巨乳好きだな。あーあ、落ちゃーん! 夢にも奇跡のブラ一丁おねがーい!!」
改めて見れば、夢の他にもたくさんの『菱神の女』がこちらに近づいてくるところだった。どこか艶美や舞と似た面影があって、でも、彼女達よりも錆びた刃の印象が強い人達。
「ふうん、これが艶美のデトネーターねえ」
「パッとしない顔ですやん。あかん、金運はなさそうですなあ」
「でも、ダメな子ほどレッスンに熱が入るものなの。ああ、体の芯が熱くなって……」
だけど、それはどうだろう。誰のせいなんだ。かつての艶美が錆びた刃みたいな目をしていたのと同じく、彼女達にはちょっとした出会いが足りなかった、きっかけを与えてもらえなかった、それだけなんじゃないのか。
だとしたら。
菱神天や籤だって。
本当のところはどうなんだろう。
「……教えてくれ」
「何を」
全身に髪の毛を巻いた、顕とかいう女の子が端的に尋ねてきた。
聞きたい事は一つだけだ。
「菱神天。俺は自分の命を握っているヤツの素性さえ知らないんだ」
彼女達は顔を見合わせた。
やがて口を開いたのは、女教師みたいな格好をした、菱神失だった。
彼女はメガネのつるに手を当てながら、
「放課後の個人レッスンが三度の飯より大好物なこの私に全て任せなさい。菱神天。彼女は私達、普通の『菱神の女』とは発生の経緯が違うわ」
「?」
「人工的に『菱神の女』の性質を一般人に植え付けるプロジェクトがあるのは知っている?」
ああ。
確か、『菱神の男』側に属する、菱神恭(ひしがみきょう)の護衛にそんなのがいたような……。
「贅(ぜい)とか蒐(あかね)とか、そういう連中か?」
「分かっているなら話は早い。菱神天は、ハイブリッドなのよ。いいえ、多段ロケットとでも言うべきか。ただでさえ『菱神の女』だったものに、さらに人工手法で性質を上乗せしていった」
「ま、結局誰の手にも負えなくなって脱走しちゃうんだけどね」
とは、夢の言。
菱神失も頷いてから、
「『菱神の女』は、通常であれば生まれた瞬間に殺されるわ。何かの間違いや偶然や奇跡が働いて難を逃れたのが私達。どこまでいっても疎まれているのね」
「……、」
「だけど、天だけは違うのよ。彼女は力の増幅を望まれた、つまり『菱神の女』の中で唯一、祝福され期待された個体だった。何しろ、空飛ぶ金属塊は砲弾と呼ぶけど、大気圏を飛び出たらもう全く違う宇宙船になるでしょう? マスドライバーとか言うのかしら」
女教師モードの話は終わらない。
いつまでも、パサパサする話が続いてしまう。
「蜘蛛や蚕のように益虫となる『菱神の女』。何も壊さない『菱神の女』。そんなの現れたら確かに前提は崩れるわよね。あるいは逆にみんな依存するから優しくて柔らかい破滅の始まり始まりなのかしら。まあ結局、出来上がった天は宇宙まで上がれず、普通に砲弾と呼ばれるレベルに過ぎなかったんだけど」
何だ、それは。
希望を破壊する天。
真っ暗闇の部屋にある箱の中を手探りで調べるような有様。絶対に理解できないと思っていた。
だけど、違うじゃないか。
ちゃんとあるじゃないか。
希望を破壊するって、そういう意味だったのか。どこかの誰かと握手して。精一杯頑張ったけど『菱神の男』からの無茶な要求を叶えられなくて。後になってから掌を返して『やっぱり駄目だった』『俺は最初から分かっていた』『こうなると思っていた』って無責任な烙印だけ押されて。一人ぼっちになって。
菱神天は脱走したと言っていた。
でも、本当にそれは天の方からの脱走なのか。『何か』が起きた時に『菱神の男』達はさっさと逃げてしまって、彼女だけが置き去りにされたんじゃなくて? 帰還のタイミングを失って、帰るに帰れなくなったんじゃなくて?
何より、現にこうして今も天は野放しだ。『菱神の男』達は誰も最後まで彼女の面倒を見なかった。いなくなった時点でどこか諦めた。タイミングを失った彼女に、一緒に頭を下げるから帰ろうって言ってやる事ができなかった。何を望んでどこに身を隠すか、いつも隣にいたはずの天の心を分かってやれなかったから、足取りの追跡さえできなかった。
それで理解不能の化け物なのか。
分かり合えないのは何故だ?
本当に努力を怠っているのはどっちなんだ。
そんな。
そんなの。
……錆びた刃みたいな瞳をしていた頃の艶美とどう違うっていうんだ……。
「なあ」
気がつけば、そう口に出していた。
問題は艶美や天だけの話じゃない。ここに集まっている『菱神の女』だけで区切って良い話でもない。そうだ、ようやくやるべき事が見えてきた。
俺が。
一人の警察官としてやるべき事は、最初から目の前にあったんだ。
それはとても簡単で。
それはとても困難な選択。
だけど言えよ。
今は男を見せる時だろう、内幕隼。
「俺は菱神天を見捨てたくない」
「……、」
「別に向こうのサイドにつくって訳じゃない。そもそも対立構造なんか作りたくない。ここで知り合ってしまった『菱神の女』は切り離さないし、知らない人だからで顔を背けても良い『菱神の女』なんて作りたくない、絶対に」
だから。
だからさ。
複雑な事なんか何もいらない。菱神の女は凶事を招く。そんな話を聞いた時、一番初めに頭に浮かんだ事を素直に邁進すれば良い。
だってそうだろう?
生まれてきた時からそうだったってだけで、誰にも救いを求めずに暗がりでうずくまるしかない人生なんて絶対に間違っているだろう。
だってそうだろう?
生まれてきた時からそうだったってだけで、あらゆる暴力を正当化して罪悪感も抱かない人生なんて絶対に間違っているだろう。
誰かが言ってやらなきゃダメだろう。
そうじゃないって。
お前は不器用過ぎるって。
痛みのない道はこっちにあるって。
誰か一人でも良い。ボロボロの手を引いて、彼女達を光の下に連れていかなくちゃいけないはずだ。世界の温かさを教えてあげなければならないはずなんだ。そしてそんな人間の到来をわざわざ待つ必要なんかない。なれば良いんだ、そう思ったのなら、今この瞬間に。誰に遠慮する必要もない、自分から名乗りを上げればそれで全部解決に向かうんだ。たとえ拙い一歩一歩であったとしても、確実に。
つまりは、
「俺は全ての『菱神の女』を助けたい。一人も諦めたくない、もう誰も仲間外れになんかしたくない。……すまない。今の今までこんな簡単な事も言ってやれずに警察官なんか名乗っていたのか俺は、くそ!」
14
菱神天には勝利条件がある。
どれだけ下準備をしようが、俺の体内に埋めた鵺の異物を使ってのた打ち回らせようが、その光景を菱神艶美に見せつけなければならない。見せつけて、感情を暴走させ、きちんと完全覚醒させなければならない。
究極。
たとえ俺が惨殺されても、それが菱神艶美に伝わらなければ意味はない。
「内幕隼、だったかしら。武器はどうするつもりなの?」
「刑事なら射撃訓練くらいしてるだろ。そんな小っちゃいリボルバーじゃないとアレルギーが出るって訳でもあるまいし、ほれ、どっさりあるから適当に選びなよ」
「失、由も。後でちゃんと話し合おう。借りるなら、そうだな、これくらいが限界だ」
「おにいちゃん、スタンガン程度で天ちゃんを倒せるって本気で考えてる?」
「いいや、これがベストなんだ」
「?」
となると、天のパターンは二つだ。
俺を捕らえて艶美の下まで連れて行くか。
艶美を捕らえて俺の下まで連れて行くか。
……イマドキならネットやスマホを使えば直接顔を合わせなくてもライブで目撃状況は作れる。
だが天はやらないだろう。
内幕隼ってレアな資源を使えるチャンスは一度きりだ。人肉を潰して果汁を搾り取ろうって時に、通信エラーなんかが重なったらアウトなのだ。たった一度のミスで、永遠に願いは叶わなくなる。まして菱神夢サイドにはサイバー戦争専門の顕がいるし、そもそも正規情報インフラを握る大企業の『菱神の男』が遮断してしまうリスクもある。
「すまない、誰か針と糸は持っていないか?」
「ど、こか、ぱっくり開いた、のか。私、縫合も、できる」
「これだけ雁首揃えてお裁縫セットを持ってる女の子は一人もいないのか!? 女子力低い集団だな!」
「それを真正面から言っちゃうあなたもモテ力には疑問の余地ありですねえー」
「うるさいコスプレシスター。ちょっとコンビニかドラッグストア寄ってもらって構わないか。一通り揃えないと」
「買い物ならカードを何枚か持って行くとええですわ。お姉さんからのお近づきの証」
「浪、何で同じ会社のカードが何枚もゴロゴロ出てくるんだ。これも『木の葉の小判』じゃないだろうな。何にしてもこりゃあ後で全員まとめて大掃除だぞ」
「というかお店行くなら炭酸買ってきて、昼前のコンビニなんて人がいっぱいだから近づきたくもないし。でもって根本的に何するつもりなの?」
「大人をパシリに使うとは、新は追加で社会勉強まで必要そうだ。とにかくいるんだよ、針と糸。できれば金か銀の飾り糸が良いな。本物じゃなくても金属系なら何でも構わないが」
「えー?」
「ぶーたれるな、炭酸ならついでに買ってくるよ。……どっちみち、保険のためにスポーツドリンク辺りもほしいしな」
「……ん……」
「おにいーちゃん。顕ちゃんが野菜ジュースにしなさいって言ってるよ? 水筒に用意してあるってさ」
「それはありがたいが、スポーツドリンクは口から飲むために調達する訳じゃない。……あと何で軍隊コートの由や女教師の失が水筒にびくびくした目を向けているんだ。そんなに苦いヤツなのか?」
「い、いやあ、味はこの上なくフルーティでくせになる美味しさなんだろうけどさあ」
「顕の家庭菜園って遺伝子組み替えの権化なのよね。……というか、そもそもコンピュータ大好き人間の顕がバイオ関係の道に入ったのは自分の髪の毛から万能細胞調達してDNAコンピュータという『子』を作りたいとかいうトンデモ思想が根っこにあって、家庭菜園はその寄り道で複数の野菜を掛け合わせて遊んでいるんだって経緯を考えると、何だか野菜を食べているだけなのに顕の系譜っていうか髪の毛束を食べているかのような気分にさせられるから困ったものだわ」
だから、絶対に直に見せる。
たった一度のチャンスをものにするために。
そして現在、俺は多くの『菱神の女』に守られている状態だ。
菱神艶美は完全覚醒さえしなければ、ただの女子中学生。
内幕隼と菱神艶美。
天がどちらを捕まえて下拵えをするかは明白だ。よほどひねらない限り、絶対に艶美から手を出す。
だから。
「……、」
最終決戦は、昼下がりから夕暮れの中間くらいの時間帯だった。
学生達にとっては楽しい放課後の始まり始まり。
ZR御茶ノ水駅前、スクランブル交差点。
駅前の例に漏れず目の前に交番があるような立地だが、菱神天ならお構いなしだろう。
一定以上の人混みが、監視の目を欺く壁となる。それにいざとなれば髪の毛一本で虎を殺せると豪語する女だ、警官数名くらい一息で片付けてしまうだろうし。
俺はスクランブル交差点で信号待ちしていた。
耳にはインカム。
『由だぞ。中古ギターショップの屋上を陣取った。でも一九四一だと標的を貫通する。決断するなら周りの被害も考えてくれ』
「命令あるまで待機」
『箍でーす。シスターさんは交差点近く、大学方向で学生にビラ配りの真っ最中。ヤツがこっちに逃げたら人の山を誘導してぶつけるぜよ。浪さんはお金の力で来日中のサッカー選手を別の道に呼びつけているって。帽子とサングラス取ったら大パニックで順路を封殺できます』
「えげつないな。とにかく待機」
『……、んむ、―――』
「誰だ!? 顕か、落か。とにかく命令あるまで待機!」
つくづくピーキーなヤツらだ。将棋で言うなら金銀飛車角全部取っ払って桂馬や香車で埋め尽くすみたいな編成。
まあ、歩の一つに過ぎない俺からすればありがたいが。
そして重要な王将は二つ。
一つ目は菱神艶美。クラスメイトで一本三つ編みにメガネの八河巴ちゃんとおしゃべりしながら信号待ちしている。絶対に取られてはならない、俺達の王将だ。
そして二つ目は……、
『失よ。菱神天を目視で発見。スクランブル交差点の、あなたの対角線上についたわ』
「……、」
敵、盤上から取り除くべき王将?
違う。
これはチェスじゃなくて将棋だ。取った駒は自分のものにできるんだ。だから待っていろ、お前もちゃんとこっち側に入れてやるからな、天。錆びた刃みたいな時間はもう終わりにしてやる。
『菱神籤については位置情報不明。警戒して、どこから奇襲を仕掛けてくるか分からない』
「了解、命令あるまで待機」
『ああ、今まで壇上から睥睨し続ける日々だったけど、強い声で指示されるのも体の芯が疼く……』
車道の信号が一斉に青から黄に、そして赤へ。
間もなく始まる。
大勢が交差点に溢れ、全てが一度だけすれ違う。
『おにいーちゃん』
インカムから声があった。
そして隣に小さな影が立った。夢は悪戯好きの瞳でこちらを見上げ、肉声で言う。
「じゃ、始めよっか」
「ああ」
息を吸って吐いて、心の中でカウントする。
一つ。
二つ。
三つ。
カッチン、と。
LEDを束ねた歩行者信号が、一斉に赤から青へと切り替わっていく。
その瞬間。
対角線上にいた俺と天は、ほんの刹那だけ目が合っていた。
天は笑っていた。
俺がどうだったかは知らない。
ザッ!! と。
ついに人の海が動く。菱神天も消える。おそらく俺も紛れたはずだ。
人混みの中で、隣の夢が手を繋いできたのが感触で分かる。だがいちいち目線は投げられない。
クラスメイトと一緒の艶美はまだ異変に気づいていない。特徴的なツインテールが人混みの中で揺れている。
艶美達に魔手が届く前に、何としても食い止める。
それだけを考えて周囲を注意深く観察した時、意外なほど艶美の近くに白い頭が迫っているのが見えた。
菱神天!?
『……落、だ。内幕、まずい!』
「ああ、天のヤツが見えた。艶美の近くに……!!」
『違う! お前が手を繋いでいるの、夢じゃ、ない。籤!! 気をつけろ!!』
……え?
喉が一瞬で干上がる。
いつ入れ替わった? というか本物の夢はどうなった!?
慌てて振り解こうとした時には手遅れだった。
ミシィ! と手首の骨に万力めいた圧搾がかかる。握力じゃないっ、袴姿の袖か何かを絡めて雑巾絞りみたいに巻き込まれたか。さらに膝の裏を蹴られ、跪かされる。群衆の頭の海へと沈められてしまう。直前に白い頭が動くのも見た。くそっ、何もかも後手後手か! このままじゃ艶美を連れ去られる!!
とにかくインカムに向けて叫ぶ。
「由、上から天は見えるか!? 顕、カメラは! とにかく全員に知らせろ、失でも箍でも落でも良い、誰か頼……!!」
言い終える前に耳元を刈られた。インカムを奪われる。
くそ、こんな所で終わらせてたまるか。
どんなに泥臭くても良い。俺は必ず艶美を守って天を止めなくちゃあならないんだ!!
「ひっ、ひゃあああああああああああああああああああああああああああああああん!!」
直後に素っ頓狂な悲鳴を上げたのは袴姿の籤だった。
というか俺がまだ動く方の手を使って、腰の辺りで袴を留める蝶結びの紐を掴んだからだ。
俺は籤の上着の袖を巻かれて腕を取られている状態だ。だからずるりと上着をずらせば可動域が増えて縄抜けのように脱出できる。とにかくはだけさせればこっちの勝ち。そして上着だけだと難しいんだ。だから往来で袴ごと脱がせてすまない籤!! でも多分ぎゅうぎゅうの人混みのおかげでかえって気づかれにくいと思う!!
とにかく時間がない。
天の魔手はもう艶美のすぐ近くだ。ほとんど人垣を薙ぎ倒すように進んでいく。ああ、ああ、今度ばかりは本当に公僕失格かも。だけど届け、間に合え! 一瞬で良い、最後の舞台に立たせてくれ!!
助けたいんだ。
艶美だけじゃない、お前も!!
目の前にはびっくりした顔の艶美と巴ちゃん。
そして汗だくの俺と、汗一つない涼しい顔の菱神天。
髪の毛一本で虎を殺し、ネクタイの重さでパトカーの防弾ドアを潰し切る怪物。
真正面から立ち向かっても勝てない。
だから俺は、この位置取りしか考慮していない。中古ギターショップを背にするこの位置取りしか。
「やれ」
そして告げる。
命じる。
「やれ! 由、俺を挟んで天を狙撃すれば通行人にまで突き抜けない!!」
直後だった。
菱神天が、爆ぜた。
いいや、恐るべき速度でこちらの懐に潜り込み、片手一本で俺の襟を掴んで吊り上げた。手足に鉄球付きだっていうのに、相変わらずどういう体の造りをしてるんだ、こいつ。
パフォーマンスじゃない。
位置関係を変えて、狙い通りの狙撃をできないようにするためだ。
だけど良いのかな。
意外と連携が上手くないな。動的な離別とかいうののせいか? 籤は報告し忘れていたのか。俺の耳からインカムを取り上げたって。つまり、いくら叫んでも由には届かない。
そして俺は最初から菱神天を倒せるなんて思っていない。
三半規管には小細工済みで、しかも相手は『菱神の女』。万全でも、拳銃があっても、逆立ちしたって勝てない。
何より。
「お前は倒すべき相手じゃない。だから俺はお前を倒さない」
「な」
「証明してやるよ、今。社会にお前の受け皿はちゃんとあるって教えてやる。お前と一緒にお天道様に頭を下げてやる男はここにいるって! だからここだけ歯を食いしばれ、どんなに辛くても、もう一度全部やり直すために!!」
「ちょっと待て、しま……!!」
ようやく気づいたようだが、もう遅い。
警察官の仕事は格好良く犯人を糾弾する事じゃない。
法律の正しさを武器に、追い詰められた弱者にドヤ顔でトドメを刺す事なんかじゃない。
今教えてやるよ、菱神天。
俺の生き様を。
お前をきちんと理解する。菱神天が何を考え、何を望み、何を拒んで、どう動くか。それを読み解いたからここまで来た。訳知り顔の『菱神の男』には辿り着けなかった場所まで。
だからもう怖がるな。
俺は理解不能のモンスターなんかじゃない。お前が理解不能のモンスターじゃないように。
スーツのあちこちには金属製のワイヤー、飾り糸が縫い込んである。こいつがどれだけ化け物でも、手を離すよりもこっちの方が早い。
具体的に何がって?
答えは簡単。
スタンガンだ。
ズバチィ!! という炸裂音が響き渡った。
ポケットの中の機材から、電極に巻きつけたワイヤーを辿って、それを縫い付けたスーツ全体に高圧電流が渦を巻く。それはあちこちに仕込んでいたスポーツドリンク入りの小さなビニール袋を焼き切って中身をばら撒き、不用意に布地を掴んでいた天の指先にまで絡みついて……。
最初から、華麗に勝利なんて考えちゃいない。
カウンターの一発でも決められれば御の字。
菱神天と一緒にこっちまで感電して体を地面に投げ出す。スポーツドリンクで伝導率を高めたのも手伝ったのか、頭の中が白く埋まる。だけど大丈夫、地上には失も箍も浪もいる。
だから安心してバトンタッチできる。
意識を手放せる。
たとえお前がここまでキレイに飛ばなくても、身動き取れない間に他の連中に任せられる。
菱神天。
いつかきっと、お前にも同じものを見せてやる。誰かに安心して背中を預けられる道を。絶対に、約束だ。だからもう、涙を流すのも忘れた子供みたいな顔で道を踏み外すのはおしまいにしよう……。