日本橋は江戸のころと変わらず人通りが多くにぎわっている。
香澄は地味な着物とかんざし姿で、風呂敷包みを抱えて浅田屋の前に立っていた。風呂敷には掛け軸が一幅包んである。役どころは父を亡くした貧乏士族の娘だ。金に困って掛け軸を売りに来たという設定である。
元々は久馬が売り込みに行く予定だったらしいが、彼の描いた筋書きの役割を、艶煙が書き換えさせたのだ。いわく、若い娘のほうが浅田屋源助も興味を惹かれるだろうし、何より久馬は大根役者だからできるだけ芝居に関わらせたくないらしい。
浅田屋は江戸一番の呉服店であった三井越後屋ほどの大店ではないが、それでも庶民には入りづらい店構えだった。出入りする客も身なりがいい。貧乏人がおいそれと入れる店ではないのだ。
しかしためらっていても仕方がない。香澄は思い切って暖簾をくぐった。するとさっそく手代が声をかけてくる。
「いらっしゃいませ。今日はどのようなご用件で?」
お世辞にも身なりがいいとはいえない香澄を、対応に出てきた若者は無遠慮にじろじろと見た。仕方がないとわかっていてもいやな気分を味わいながら、艶煙に言われたとおりの言葉を伝える。
「旦那様にお目にかかりたいのですが」
「どのような御用で?」
「あの、こちらの旦那様は、掛け軸がお好きだとうかがいました。ぜひ見ていただきたいものがあるんです」
手代は、香澄が抱えている風呂敷包みへちらりと目を向けてから、
「少々お待ちください」
と言い置いて奥に消えた。
ほっと一息ついて、香澄は店内を見渡す。かつて呉服店といえば、反物を売り、それを仕立てて客に渡す商売だった。広々とした畳敷きの店の壁一面にしつらえられた棚に反物が並び、梁からは見本の着物がさげられている。香澄自身も呉服店で胸に反物を当てて、気に入りの生地を探したことがあった。
しかし昨今、洋服を着る者も現れ、呉服店も変わり始めている。欧米から輸入されたレースやドレスも並び、以前よりも店内が華やいで見えた。香澄も洋装に憧れてはいるが、残念ながらまだ袖を通したことはない。
「掛け軸を持ってきたというのはおまえさんかね?」
繊細なレースをうっとりながめていた香澄は、声をかけられてそちらへ目を向けた。やってきたのは五十絡みの男性だった。浅田屋の主人、源助だ。
洋服をあつかっていてもさすが呉服店の看板を背負っていると言うべきか、上等な和服を身にまとっている。彼はにこやかな笑みを浮かべていたが、香澄の頭からつま先まで視線を往復させ、品定めすることは忘れなかった。
その眼差しに気づかなかったふりで、香澄は手はずどおり、彼に掛け軸を売り込む。
「はい。これなのですが……」
風呂敷包みをとき、座敷に膝をついた源助の前に掛け軸を広げた。
そこにはほっそりとした女性の後ろ姿が描かれていた。菊花が華やかな着物を身にまとった彼女の、かすかにふり返った美しい顔には、どこか憂いを帯びたほほえみが浮かんでいる。軽く伏せられた眼差しは足下に咲く花に向けられていた。
「おや、美しい女性だね」
香澄の役目はこの掛け軸を彼に売りつけることだ。香澄は勇気をもらって、源助に話し続ける。
「あの、これを買ってはいただけませんか? 父が亡くなって、生活が苦しくて……その……」
憐れみを誘うようにうつむき弱々しく訴える。他人の同情を誘うような仕草などこれまでにしたこともなかったが、久馬を見返すためならばいくらでも演じてやろうと思っていた。
「それは大変だね」
香澄の熱演に心を揺さぶられたのか、源助は気の毒そうに目を細めてうなずいた。
「いくら欲しいんだい?」
「十円です」
「十円か……」
たしかに美しい画だ。しかしその価値が十円もするものなのか、香澄には判断できない。香澄の父や兄の給金ならばたやすく買えるが、一般的に十円が高額であることくらいはわかっている。この金額には久馬も渋い顔をしていた。どうやら新聞記者である彼の二ヶ月分の給料に相当するらしかった。
考え込んでいる源助が答えをだすのを待っていると、客の間を縫うように洋装の女性が近づいてきた。首元にレースをあしらい、足首まで丈のあるスカートの赤いドレスが人目をひく。しかし彼女はそのドレスに負けないくらい、はっきりとした顔立ちの、美しい女性だった。
「どうされたのですか?」
「お多恵」
どうやらお内儀らしい彼女は、夫の隣に膝をついた。
「こちらのお嬢さんが、この掛け軸を十円で買って欲しいと言ってね」
迷っている源助の言葉に、彼女は穏やかな眼差しを掛け軸へ向ける。しばしの間じっと見つめて口を開いた。
「綺麗な画ではありませんか。買ってさしあげたら?」
「だがね、十円だよ?」
金をだししぶっている様子の源助を見て、香澄は焦った。何がなんでも買ってもらわなければ困るのだ。まさかすごすごと久馬たちの元へ持ってかえるわけにはいかない。
だいたい、そんなことになっては、また久馬に何を言われることやら。
「そうだな。お嬢さんがうちの店で働いてくれるというなら、買ってあげてもいいが」
「え……」
思いがけない提案に、香澄はぎくりとした。何せ彼は、若い娘が大好きだというのだ。まさかさっそく目をつけられたのだろうか。
「実は先だって、住み込みの女中が一人辞めてしまってね。奥の手が足りないそうなんだよ」
彼は妻へ確認するように目を向けた。
辞めたのではなく、辞めさせたくせに、と喉まで出かかった言葉を香澄は呑み込む。
もしここで断れば、彼は掛け軸を買ってくれないかもしれない。
けれど自ら貞操を危機にさらすなど、嫁入り前の娘がすることではない。それくらいわかっている。わかっているが……。
「三月ばかりは少ない給金で働いてもらって、その先は他の女中と同じように支払うということで、どうだい?」
源助にそう訊かれて、香澄は迷った。うなずけば掛け軸は買ってもらえるのだ。少なくとも、久馬に馬鹿にされることはない。
「旦那様、そんなに急に答えはだせないでしょう。また後日でも……」
多恵にそう口添えされ、源助が「それもそうか」とうなずきそうになる。それを見て香澄は慌てた。とっさに、
「それでお願いします! 働き口も探していたんです!」
と、彼の提案を呑んでしまった。
一度口から出た言葉をなかったことにはできない。
源助の表情が明るくなる。
「そうか! それはよかった。助かるよ」
嬉しそうな彼の笑顔は女中を見つけられた喜びによるものだと、素直に受け止めていいのだろうか。
晴れて掛け軸を源助に売りつけることに成功したが、香澄は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
無事役目を果たし、十円を持って約束の小料理屋へ向かった香澄は、合流した久馬と艶煙に事の次第を伝えた。話を聞き終えた艶煙は、くっくと喉をふるわせて笑い、久馬は額を押さえ、大きく溜息をついた。
そして、
「おまえって、やっぱり馬鹿なのか?」
と、しみじみとつぶやいた。
「な、なんでですか……!」
「馬鹿だと思っていたが、本物の馬鹿だったんだな。誰が女中奉公をしろと言った? 俺たちは掛け軸を売ってこいと言ったよな?」
「と、とにかく掛け軸を買ってもらわないといけないと思って……」
もごもごと言い訳した香澄にもう一度深く溜息をついた久馬が、音を立てて卓を叩く。
「だからってな! 浅田屋の主人の女好きも、これまで何人も泣かされてきたことも知っていて、そのうえで奉公しようとか、馬鹿以外、なんて言えばいいんだ? 大馬鹿か?」
「…………っ!」
ぐっと言葉に詰まった香澄は、悔しまぎれに子どものような反論をする。
「ば、馬鹿とか、言うほうが馬鹿なんですからね!」
「なんだと!?」
大人げなく反応して腰をあげかけた久馬と香澄の間で、艶煙が両手を挙げた。
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて」
その仲裁に香澄は唇をとがらせ、久馬は鼻を鳴らし、ひとまず口を閉じる。努力を認めてもらえずにむくれる香澄に、艶煙は目を細めて笑った。
「香澄さん。これでも久馬さんはあなたのことを心配しているんですよ」
「え……?」
想像もしていなかった言葉に、香澄は驚いて久馬を見た。すると彼はばつが悪そうに視線をそらして短く吐き捨てる。
「よけいなことを言うな」
どうやら本当に、香澄の身を案じてくれていたようだ。それならばそれで、もっと言い方があるだろうとは思ったが、こことは大人しく折れることにする。
「あ……りがとうございます。ごめんなさい」
実際、香澄自身、女中奉公を決めたことは少々早まったと思っているのだ。浅田屋のお内儀が「また後日」と言ってくれたのだから、一度相談しに戻ってくるべきだったのだ。
「とにかく、女中奉公すると約束してしまったのですから、仕方がありません。香澄さんは全力で、浅田屋のご主人から逃げてください。あたしたちもできるだけ早く仕掛けをすすめます。とっとと終わらせて辞めさせてあげますからね」
「はい!」
香澄はこれでもかとばかりに深くうなずく。
「まあ、この跳ねっ返りだ。浅田屋のほうから願い下げかもしれないけどな」
「な……んですって!」
またよけいなことを言ってくれる久馬に、香澄は卓に身を乗りだしかける。
「ほら、久馬さん。香澄さんが可愛いからって、からかっちゃいけませんよ」
ふたたび喧嘩になりそうになったところに、艶煙が愉快そうに割って入った。
「とにかく香澄さん。お父上にちゃんと許可をもらってくるんですよ」
「う。はい。わかりました」
「おまえのような娘を持ったお父上は、それはそれは苦労人なのだろうな」
香澄はぎろりと久馬をにらみ、けれど今度は何も言わずに、「ふん!」と彼から顔を背けた。
その晩、香澄は早速浅田屋へ戻ることになった。
父に、桜野が奉公していた店を手伝いに行くと言ったところ、放任主義の彼に反対されることはなかった。むしろよい社会勉強だと思っているようだった。
明治となって世の中が変わったとはいえ、娘はよい家へ嫁ぐことこそ大事とする家長が多いというのに、娘に社会勉強を勧める彼は香澄から見ても変わり者である。女中仕事はもちろん、嫁入り修行のひとつではあるのだけれど。
さておき、浅田屋の敷居をまたぎ、案内された女中部屋で荷物を片付けていた香澄は、今日から住み込みの仲間になるのだろう四十歳ほどの女性に小声で話しかけられて顔をあげた。
「あんたが新しい子かい?」
「はい。香澄です。よろしくお願いします」
正座をし、ぺこりと頭をさげて挨拶すると、彼女はじりじりと近づいてきて、さらに声をひそめる。
「いくつなの?」
「一六です」
彼女は意味ありげにじろじろと香澄を見た。今日はそんなふうに観察されてばかりいるような気がする。
「そうだろうねぇ」
「あの?」
もっともらしくうなずく女に、香澄は先をうながした。すると彼女は膝ですり寄り、なおいっそう小さな声で香澄に耳打ちする。
「うちの旦那様は若い子がお好きだから、気をつけなよ」
耳をそばだてていたのか、部屋にいた別の女性も心配そうに話に加わってくる。
「そうそう、あんたの前に辞めた子もねぇ、旦那様にちょっかいだされて困ってたから」
「は……あ」
香澄は少々怖じ気づいた。浅田屋の主人の女好きは、この店の奉公人で知らない者はないようだ。
――これは、そうとうなんじゃないの?
香澄は乾いた笑みを浮かべ、久馬を見返すためとはいえ、自ら貞操を危機にさらすことになった己の軽率さを呪った。
しかし、後の祭りだった。