力士と火消の頭、そして与力は『江戸の三男』と呼ばれ、いきでいなせな色男の代表だったのだ。
洋装を身にまとう久馬から髷に半裃姿で出仕する姿など想像もつかないが、十年も前ならば、着流しに羽織姿で町を歩いていたのだろうか。さらに町人言葉を話すとは。
久馬が手にしていた筆を硯に投げだした。ふたたび手持ちぶさたに綴じ本をぺらぺらとめくりだす。
「だが、しょせんは不浄役人さ」
「不浄役人?」
首をかしげて香澄が問うと、背もたれにもたれかかった久馬が、つまらなそうな表情で教えてくれる。
「与力や同心は罪人を捕まえるのが仕事だろ? だから罪人と関わる不浄な者だと呼ばれて、組屋敷の外では侍同士の付き合いはあまりなかった。婚姻も組屋敷内ばかりで繰り返しているうちに、八丁堀はみんな親戚になってたくらいだぞ」
「どうして不浄なんですか。立派なお仕事なのに」
罪人を捕らえる仕事は危険を伴う。それこそ武士らしい仕事に思えるのだが。
「妬みだよ、妬み」
そう言ったのは内村だった。
「与力の俸禄は、貧乏旗本よりもよっぽど多かったんだ。その上、大名や町の金持ちから『揉めごとが起こったときには便宜を図ってくれ』と付け届けが贈られるだろ? 懐は温かかっただろうなぁ。羨ましいことだ」
なるほど。与力は役得の多い役目だったのだ。
それは香澄の父が務めていた奥右筆も同じだった。政の中枢で多くの秘密を握っていた父の元には、様々な理由で付け届けがきたものだった。
香澄の父は、いつも半分ほどしか受け取らなかった。あまりにも大きな額を受け取っては政が乱れ、かといってすべてを受け取らずにいれば恨みを買う。そこの見極めが難しいのだとぼやいていたのを、おぼろげに覚えている。
「俺は傘を貼ったこともあるぞ。本職に褒められてたからな!」
「胸張って言うことじゃないでしょうが」
堂々と告白した内村に、久馬があきれたように目をすがめた。
仕官先がなかったり、仕官していても禄の少なかった者は、内職をしなければ生活が立ちゆかなかったらしいが、おそらく内村はそうだったのだろう。
「つまり、久馬さんってお金持ちなんですか?」
「江戸のころはそこそこな」
洋装に煙草、燐寸を見ても、貧乏ではなさそうだけれど。
「久馬さんのお父上はお元気なんですか?」
「戊辰の役のころに死んだよ」
あっさりと告げられた言葉に、香澄は慌てて謝罪した。
「すみません……」
どうも自分には、訊かなくていいことを訊いてしまう悪い癖がある。たとえそれが十年近くも前のこととはいえ、口にすることで思いだしてしまう記憶もあるだろう。香澄が母のことについて訊ねられるたび、恋しくなるのと同じように。
久馬はめくっていた本を、机の端に積みあげられている書物に重ねた。その本の山は、表紙に『妖怪』なんたらと書かれたものばかりである。新聞記事を書くのに必要なのか、それとも裏稼業のためのものなのか。
そんなことを考えていると、久馬が上着をつかんで立ちあがった。
「お出かけですか? それとも昼寝?」
「おまえは俺をなんだと思ってるんだ。取材だよ、取材」
「めずらしい……!」
香澄は両手で口元を覆い、あからさまに驚いてみせた。
「その顔やめろ。よけいに不細工だぞ」
「それこそよけいなお世話ですー」
子どものような言い合いをしながら久馬は帽子を手にする。そして香澄に背を向けたが、すぐにふり返った。
「おまえ、明日休みだろ? 暇か?」
「ええ、まあ。それが何か?」
「艶煙がおまえを芝居に連れてこいとうるさいんだ。行きたいか?」
久馬の裏稼業仲間である芝浦艶煙は役者崩れを自称していた。ということは、田舎の小さな芝居小屋か何かだろうか。
「どこまで行くんですか?」
「そう遠くはない。行くなら明日、下のサロンで十時に待ってろ」
「はぁ」
香澄は曖昧にうなずいて、一方的に告げて取材に出ていく久馬の背中を見送った。
ここ数日の観察で、艶煙がかなり頻繁に新聞社のサロンに顔をだしていることには気づいている。そして普段何をしているのか、少し気になっていたのだ。役者崩れで生活していくのは難しいのではないだろうかと、よけいな心配をしていたくらいだ。
さておき、その謎も明日には解けそうだ。
どんな芝居が見られるのだろうかと考えつつ、掃除をしようと足を踏みだしかけた香澄だったが、その耳に思いがけない言葉が飛び込んできた。
「久馬の奴も、女の子を遊びに誘うなら、もっと洒落た言い方もあるだろうに」
「へ?」
内村の言葉に、香澄は目をぱちくりさせる。
「いやいや、久馬さんはあれで硬いところのある人ですからね。逢い引きなんてできないんですよ」
「逢い引……!?」
弥太郎の言葉に思わず声が裏返る。
「な、ななな、何言ってるんですか! ち、違いますよ! た、ただ艶煙さんのお芝居を観にいくだけでしょう!?」
「ははは。香澄ちゃんも初心だなぁ」
「なかなかお似合いじゃないか」
内村が愉快そうに笑い、社長が意味ありげにうなずいた。
「ぜ、絶対に、違いますからね!」
からかわれて、なんだか行きづらくなってしまった。
香澄は熱くなった頬を押さえ、明日の朝は誰にも見つからないようにこっそりと、サロンの隅で久馬を待とうと決めた。
艶煙が役者を務める一座は、ここ最近、招魂社に小屋を掛けているらしい。
新聞社のサロンの片隅で久馬と合流した香澄は、九段と呼ばれる急坂の上にある招魂社の、大きな鳥居の前で人力車をおりた。
招魂社とは四年前、戊辰の役の犠牲者を慰霊するために九段上に建立された神社だ。その境内には地所を拝借した見世物や芝居が、たびたび小屋掛けしていると聞く。特に春と秋の例大祭時には、盛り場である浅草奥山かのようなにぎわいだという。しかし今はちょうど祭事のない時期だからか、掛けている小屋は少なく、境内は閑散としていた。
香澄たちはまずは本殿に参り、それから艶煙がいるらしい芝居小屋へ向かった。
「ここだ」
久馬に案内された小屋は『縁(えん)魔(ま)座(ざ)』と銘打たれていた。組み合わせた柱に蓆をかけただけの簡素な作りの小屋である。
久馬は呼び込みの男に軽く手をあげた。相手も表情を緩めたところを見ると、顔見知りのようだった。きっと彼は何度か艶煙の芝居に足を運んでいるのだろう。
久馬に木戸銭を払ってもらい中に入ると、さすがに舞台こそあったが客席はなかった。どうやら立ち見らしい。
最前列の端に陣取った香澄は周囲を見渡した。客はまだまばらだが、女性が多い気がする。
「小さな芝居小屋なんですね」
香澄がこれまでに行ったことがあるのは、大芝居と呼ばれる政府公認の芝居小屋だった。客席も広く、桟敷席だけでなく二階の座敷席まであり、ゆうに百人は入れたのではないだろうか。けれどこの縁魔座の客席は十数人も入れば互いに肩が触れあい、二十人も入れば窮屈、さらに増えれば押しだされてしまいそうだった。
「小屋掛け芝居ってのは、常打ちの大芝居に比べて安い分、設備は簡素なんだよ」
そう言って久馬は、舞台を隠している幕を指さす。
「ほら、あの幕も引幕じゃなくて緞帳だろう? だから小屋掛け芝居の役者は緞帳役者なんて揶揄されることもあるが、設備に金をかけてない分は芸でおぎなう必要があるもんだから、芸達者な役者も多いんだ」
「へぇ」
「安くていいものが見られるってんで、人も集まるのさ」
確かに以前見た芝居は、舞台が回ったりして仕掛けが大掛かりだった。役者の芸ももちろんだが、仕掛け自体もめずらしくてなかなか楽しかった。
「演目はなんですか?」
芝居小屋ならば表に大きく演目の看板が出ていそうなものだが、縁魔座はそうではなかった。満員になる前から満員御礼の立て札は出ていたけれど……。
「縁魔座は怪異譚を好んで演るもんだから、大々的に宣伝はしない」
「怪異……」
「奴らしいだろ?」
こくりと香澄はうなずく。これで艶煙が突然心中物でも演じていたら、真面目に芝居を楽しめなかったかもしれない。
「でも、神社で怪異譚なんて演じて、怒られないんですか?」
「怨霊を鎮めてその強い力で国を守ってもらおうというのは、御霊信仰といって神道に昔からあるものだ。崇徳天皇を祀る白峰神宮や菅原道真を祀る天神社なんかが有名だろう? だから恨み辛みの怪異譚を演じること自体に問題はないんだろうさ」
崇徳天皇も菅原道真も、どちらも有名な怨霊であり神である。そう言われてみればそういうものなのだろう。許可が出て小屋を掛けているのだから、問題がないことはたしかなのだ。
開演時刻が近づくにつれ客が増え、しだいに窮屈になってきた。隣同士が肩を寄せ合わなければならないくらいだ。周囲からひそひそと聞こえてくるのが女性の声ばかりだと思っていたが、実際、やたらと女性客が多かった。ついでに妙に視線も感じるのだが、それは香澄ではなく、久馬に向けられているようだった。女性客の中に一人、長身の男が紛れ込んでいては目立つのも当然だ。
外見もどちらかと言えば目立つほうだし。