「なぁ、おまえさ。昨日の艶煙の芝居、どうだった?」
芝居見物に行った翌日、新聞社の机で郵便物の仕分けをしていた香澄は、久馬に声をかけられて手をとめた。久馬は自席で、片手に妖怪の本、もう一方の手に筆を持って顔をしかめている。
「どうって、なんだかこう、すっきりしない終わり方で、まだもやもやしてますけど」
「怖かったか?」
「そうですねぇ」
香澄は毎朝櫛に残される黒髪をつかんで恐怖に打ちふるえていた役者の演技を思いだす。
髪は手に絡みついて離れないときがある。自分の髪ならばうっとうしいだけだが、他人の髪だったらどうだろうか。髪の毛というだけでも気味悪く感じるというのに、自分を恨んでいる女の髪だ。
暗闇に支配される夜にそれで首を絞められた挙げ句に、日が昇って明るくなってまでも、それが夢や幻ではなかったのだと訴えるように黒髪が残されている。まるで髪自体が怨念であり、絡みついてくるように感じられるのではないだろうか。
小物としては手の込んだものではないが、恐怖への効果は抜群だ。
「髪の毛ってところが怖いですし、気味が悪いですよ」
久馬は本をぱらぱらとめくりながら、紙に『髪鬼』と書きつけている。
「昨日の芝居見物の話ですか?」
横から弥太郎が問いかけてきたので、香澄はこくりとうなずいた。
「気味の悪い怪談物だったんです」
「艶煙さんの芝居ですもんね」
彼はさもありなんと香澄に同意すると、久馬へ得意げに話しだす。
「久馬さん。女の子と出かけるのに縁魔座の芝居は駄目です。あそこはいつも妖怪だ怨霊だって話でしょう? もっと女の子が好きそうな演目じゃないと」
「おまえが言っても説得力はないが」
他事を考えている様子で視線を机に向けたまま、筆の頭でこめかみを掻きながら応じた久馬に、弥太郎はばたりと机に伏せた。
「どうせ私は久馬さんみたいにもてませんよ!」
「じゃあ、夜中に女の幽霊が訪ねてくるってのはどうだ?」
「そんなの嫌に決まってるじゃないですか。私がもてたいのは生身の女性です!」
がばりと顔をあげてきっぱりと宣言した弥太郎へ、久馬が憐れみのこもった視線を向ける。そしてそのまま顎で香澄を示した。
「だからおまえはもてないんじゃないのか?」
その生身の女性の前で宣言してしまう間抜けさ……いや、正直さが彼のもてない要因だと久馬は言いたいのだろう。
なんとも情けない表情を弥太郎に向けられて、香澄は愛想笑いを浮かべた。否定できない。
久馬は溜息をつくと立ちあがり、帽子を手にとる。
「またサロンですか?」
「外出だ」
すっかりまたサロンで昼寝かと思っていた香澄は、ひょいと眉をあげてしまった。
「その顔」
久馬に指摘されて慌てて両手で顔を隠す。
「おまえは少し、本音を隠す努力をしろ」
そう言い残して出て行った久馬の背中を、香澄は思いっきり舌をだして見送った。
かんざしを取り返すと美幸に約束してから三日後、香澄は久馬と共に以前も来たことのある蕎麦屋にいた。もちろん仲間である艶煙も合流している。
艶煙は畳に腰をおろすなり、香澄へ話しかける。
「いやぁ、香澄さんが芝居を見に来てくださるなんて、あたしはうれしくて涙が出そうでしたよ」
あまりに嬉しそうな顔をするので、まさか芝居ではなかろうかと疑ってしまう。
「私が行く必要なんてありましたか? 役者崩れなんて言って、人気者だったじゃないですか」
「あたしは香澄さんが見にきてくれたことが嬉しいんですよぅ」
ご機嫌とりではなく本心から喜んでいてくれるのならば香澄としても嬉しいし、あんなに人気だった艶煙に言われれば悪い気もしなかった。
「それに?をついたつもりはありません。小屋掛け芝居の役者は常打ち小屋の役者に比べたら役者崩れみたいなもんなんですよ」
芝居のうまさでは引けを取らなかったように思えたが、一般的な見方ではそう言われてしまうものなのだろうか。
「なんてね。あたしは役者なんて大見得切って言うほどのもんじゃないってだけです」
「いきですね」
人気におごることなくさらりと言ってみせた艶煙が、少しだけ格好よく見えた。
話が一区切りついたところで、久馬が向かいに座った艶煙に問いかける。
「高梨実篤については調べがついたのか」
「はい、もちろん。かつては大名、今は華族様の子息で、一九歳。以前の中屋敷で暮らしているようです」
この三日間で調べはついているらしく、艶煙は煙管に火をつけながらすらすらと答えた。
中屋敷というのは、江戸にあった大名の屋敷のうち、城から二番目に近いもののことだ。最も近い屋敷を上屋敷、その他を下屋敷と呼ぶ。国元へ帰った藩主も多く、手放され、現在は空き家となっている屋敷も多々ある。
艶煙は煙管の煙をくゆらせながら喉を鳴らして笑った。
「そりゃもうなかなかのうつけらしく、ご当主も手を焼いておられるようです。何を言っても馬の耳に念仏だとか」
「お気の毒なことだ」
さほど気の毒に思ってもいない口調で久馬が言うと、もっともだと同意するように艶煙もうなずいた。
「女中に手をつけるは盗みを働くは。ご家令が、毎度毎度金で話をつけに行っているそうです」
「まったく、都合の悪いことは金で始末をつけようとするところは、昔から変わっていないんだな」
久馬の言葉に香澄は目をまたたく。
「昔、高梨家からの賄賂を受けとったって本当だったんですか?」
「ああ」
すっかり勝之進に対する冗談だと思っていたのだが、事実だったらしい。
美幸のかんざしについても、高梨家に乗り込めば、金で解決されることになったのかもしれない。母親の形見は金で買えるものではないのに。
主人の命令であれば仕方のないことなのかもしれないが、実篤のために話をつけに行くという家令も家令だ。高梨家の人々は、そんなことを想像することもできなくなっているのだろうか。
なんでも金で話がつくと思っているからこそ、実篤は増長するのだろうに。
「それで、高梨家の協力者には会えたんだな?」
上着の内ポケットを探りながら訊ねた久馬に、艶煙は煙を吐きながらうなずく。
「久馬さんが間を取り持ってくださったので、滞りなく」
「協力者?」
香澄は彼らの会話に首をかしげた。
協力者とはつまり、浅田屋で幽霊画を差し替えていたお内儀の多恵のような立場の誰かのことだろう。
「もしかして、昔の賄賂の件でその人を脅して協力させたとか?」
「おまえな。話し合いは至極平和的に終了したぞ」
「話し合いって、久馬さんが?」
依頼人や協力者など、人と接する役目は艶煙が担っていると思っていた香澄が素直に驚くと、久馬が目をすがめた。
「おまえは俺がこの三日間、何をしていたと思ってるんだ」
「……艶煙さんだけを働かせて、妖怪の本を枕に、昼寝していたのかと」
これまでの彼の職場での行動を思い起こして正直に答えると、艶煙が吹きだした。
「久馬さん、本当に信用がないですねぇ」
「おまえらな」
恨みがましい目つきで、久馬は何やら書き付けた紙を卓の上に置き、ぱしぱしと叩いた。
「俺だってこの筋書きのために、協力者と連絡をとったり調べ物をしたりしていたんだ!」
その紙を覗いてみれば、実篤からかんざしを取り戻すための役割が事細かに書き記されている。どうやら香澄の見ていないところで、久馬はしっかり働いていたらしい。
「だからその不細工な顔をやめろ」
隠しきれなかった驚きが顔に出ていたようだ。一応感心も少しだけしていたのだけれど、そちらに関しては気づいてもらえなかった。
「だからもともとこういう顔なんです」
ごしごしと手の甲で頬をこすってから、香澄は彼に問いかける。
「それで、美幸さんのかんざしは取り返せそうなんですか?」
「かんざしが無事ならな。あとはこの台本に書いたとおりだ」
香澄は自分の役目を探して、久馬に似合わぬ流麗な文字を目で追った。
誰が何をするのか、必要な物をどこで調達するのか、疑問を差しはさむことができないほどきっちりと計画は立てられている。普段の怠けた様子からは想像できない几帳面ぶりだ。
蕎麦が運ばれてくるまで一服するつもりなのか、煙草の箱を取りだした久馬に香澄は呼びかける。
「久馬さん」
「なんだ?」
「私の勘違いじゃなければ、久馬さんの役割が少なくないですか?」
「それがどうした」
協力者と共に仕掛けをするのは艶煙。仕掛けに必要なものをそろえるのも艶煙。
香澄の役目も多くはないが、久馬の役割も同じくらいに少ない。
やっぱり怠け者なのではないかと思っていると、艶煙がさも気の毒そうに口を開く。
「香澄さん。久馬さんは吃驚仰天の大根役者なんです。できるだけ芝居には関わらせないほうがうまくいくんですよ」
そういえば、以前もそんなことを言っていたか。
だが、そんなに下手くそならば逆に見てみたい気もする。本当に下手だったら、指を差して笑ってやるのだ。けれど美幸のかんざしを取り返すことのほうが優先事項である。残念すぎる。
「今回は我慢します」
本音を隠してうなずくと、久馬が横目で香澄をうかがった。
「おまえ、指を差して笑いものにする気だろ?」
「どうしてわかったんですか!?」
心の声はもらしていないはずなのだが、と、香澄が胸に手を当てると、久馬が頭痛を耐えるように額を押さえた。
かまをかけられたようだ。うっかり肯定してしまった。
久馬は盛大な溜息をつくと、燐寸で煙草に火をつける。
「筋書きを考えるのが俺の役目だ。とやかく言うな」
ぴしゃりと香澄の文句を封じた久馬へ、艶煙が背筋を伸ばして胸を張る。
「久馬さんが新聞社のサロンで惰眠をむさぼっている間に、この艶煙、実篤様を追い詰めてみせましょう」
「艶様、格好いい」
香澄がぱちぱちと手をたたきながら合いの手を入れると、調子に乗った艶煙が身体をくねらせる。
「もっと褒めてくださっていいんですよぅ」
二人で盛りあがっているところへ、注文した蕎麦が運ばれてきた。
「さっさと食って、さっさと行け!」
久馬に叱られた艶煙が首をすくめる。香澄がそれを真似てみせると、久馬はますます不機嫌になった。
そんな彼の様子が子どものようでおかしくて、そして少しだけ可愛らしくて、香澄は艶煙と顔を見合わせて笑ってしまった。