久馬に触れないように距離を取ろうとした香澄は、壁が蓆であることを忘れて手を伸ばした。想像と違った感触に驚いて手を引いたが、傾いた体勢を立て直すことはできない。
「きゃ……」
よろめいた香澄は、しかし帯に回された腕に支えられて事なきを得た。周囲が何故かどよめく。
まつげの長さまで確認できるほど間近に久馬の顔を見て、香澄はさすがに慌てた。顔立ちだけは整っていると認めざるを得ない。そういえば先日、幼馴染の桜野に会いに行ったとき、彼女も久馬の顔を褒めていたことを思いだす。いやもちろん、助けてもらったことへの礼も口にしていたけれど。
「気をつけろよ」
久馬はさりげなく手を離すと、周囲の客に押されないように胸で香澄をかばった。
「え……っと?」
「どうした?」
どぎまぎしているのは香澄だけで、久馬の表情はいつもとなんら変わらない。彼にとってこれは珍しい状況でもなんでもないのだろう。
彼はきっとどんな相手にも――それが香澄のようなお転婆であっても、やさしいのだ。
「……ありがとうございます」
何やらもやもやとしたものを感じながらも香澄は小さく礼を言って、舞台に目を向けた。ちょうど拍子木が鳴らされ、緞帳があがっていく。
動揺を押し殺し、香澄は芝居に集中することにした。
まず舞台に現れたのは、一組の男女だった。男は助次郎、女は松だ。
話は、松が病で死ぬ場面から始まった。
松はかつて町の誰よりも黒髪が美しいと褒めちぎられた娘だった。嫁いでからは、夫である助次郎に贈られた櫛で髪を梳き、彼に褒められることに喜びを感じていた。しかし病を得て長く床についた彼女の髪からは艶が失われ、白いものが混じるようになっていた。
息を引き取ろうとする妻・松へ、助次郎は二世の契りを交わし、後添えを迎えることはしないと約束する。けれど松の死後、助次郎は若く美しい妻を迎え、彼女に心を移してしまった。松は新しい妻を追いだすためにあの世から戻り、毎夜彼女の夢を訪ね、終いには取り殺してしまう。
香澄は胸の前でぎゅっと手を握った。これから松と彼女に恨まれた助次郎がどうなってしまうのか気になって、舞台から目が離せない。
新しい妻を殺した松は毎夜、今度は助次郎の前に現れるようになる。そして艶やかな黒髪で首をしめ、彼の不義理を責め続ける。悪夢のような夜が明けると毎朝、助次郎の首には女の黒髪が絡みついていた。
あまりの恐怖に見る間に痩せていった助次郎の元に、彼の友人が訪ねてくる。刀を差しているところを見ると、武士のようだ。なかなかの男ぶりである。
友人役の役者が舞台に登場したとたん、客席からは女性の黄色い声が飛んだ。縁魔座の人気役者らしい。
助次郎の友人は、『髪鬼』なる妖怪となってしまった女を切り捨てようとする。
その派手な立ち回りに、やはり女性客からは悲鳴にも近い歓声があがった。香澄が思わずびくりと肩を跳ねさせるほどの声だ。とはいえ涼しげな目元の男前で、胸がざわつくような妙な色気のある役者なので、それくらい人気があっても不思議ではない。
そして髪鬼と対決した友人は、松が求めているのは、助次郎が彼女との約束を守ることだけであると知る。それは松が助次郎を深く深く愛しているためなのだと。
けなげにも夫との二世の契りを求める松を哀れに思った友人は、彼女を手厚く弔うように助次郎へ勧める。二世を誓った仲の女をこれ以上苦しめてはならぬと言う友人の言葉に心を打たれた松は、夫がそうしてくれるならば、二度と彼の前に現れたりはしないと誓う。しかし恐怖に駆られた助次郎はかたくなにそれを拒み、結局怒り狂った松によって祟り殺されてしまった。
迫力ある松の演技に、香澄は息を呑んだ。女の情念は恐ろしい。けれどそれは彼女を裏切った夫のせいだ。
彼らを憐れんだ友人は、ふたりを夫婦として弔い、櫛を供養しようと決める。去っていこうとする彼は、肩に女の髪が一筋、未練を残すように絡みついているのに気がつき、それをつまんで風に乗せる。そして苦く笑うと、今度こそ舞台から姿を消した。
──と、拍子木が打ち鳴らされ、緞帳が下がり、なんとも言えない後味の悪さを残して物語は終わった。
ずいぶんと、救いのない話だ。
怪談話がしたくなる夏の暑さにはまだ早く、少々肌寒くなった気がして、香澄は腕をこすった。その腕に松の髪が絡みついていやしないかと不安になる。
久馬はどうだったのだろうか。
ちらりと隣をうかがった瞬間、女性の悲鳴が芝居小屋を囲う蓆を揺るがし、驚いた香澄は久馬の胸に飛びついた。ふたたび緞帳があがったのだ。
「えんさま──っ!」
かけられる声に舞台で応じているのは、友人を演じた役者だ。鼻筋の通った、いかにも若い娘に好まれそうな顔だちをしている。
しているのだが。
えんさま?
芝居をしていない白く塗られたその顔を、なんだかどこかで見たような気がする。
「……あのぅ、久馬さん」
香澄は、周囲の女性たちの甲高い声に顔をしかめて耳を押さえている久馬のベストをつまんで引いた。久馬が香澄を見おろす。
「あの役者さん、どこかで見たことがあるんですけどぉ……」
まさか……。まさかである。
「艶煙じゃないか」
「ですよね! ──って、えぇ!?」
「どう見たって艶煙だろ」
いつもの三倍はきらめいて見える艶煙の姿に、香澄は頭を抱えた。
おひねりを受け取る艶煙は、笑うとやはり目が細くて、普段の顔が見え隠れする。化粧で化けるのは女だけではないようだ。
艶煙がついと視線を香澄に向けた。同時に、彼に群がっていた女性たちのまなざしが香澄に集中する。彼女たちの瞳が、一瞬にして懐疑と羨望、そして嫉妬に彩られる。
あの小娘は誰だ。
艶様に目を向けてもらえるなんて、うらやましい。
けれどそれはすぐに逸らされた。ひらりと久馬が片手をあげたからだ。
「よう、艶煙。相変わらず満員御礼でけっこうじゃないか」
「久馬さん、来てくださって嬉しいですよ」
声をかけた久馬に艶煙が流し目で答えると、周囲の女性たちはほぅと溜息をもらす。
「今日はお友達がこられていたのね」
「いつもより素敵だったのはそのせいよ」
などとひそひそと言葉を交わす者もいれば、
「久馬さんも相変わらず格好いい方だわ」
と、久馬に対して秋波を送る者もあった。
どうやら艶煙は香澄が思う以上の人気者で、久馬はその友人として知られているようだ。一般的に見て、久馬の端整な顔立ちと洋装を着こなすすらりとした体躯は、いい男に分類されるのだろう。
とはいえ二人ともそんな視線に気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか、お構いなく話し続ける。
「これからご一緒にお食事でもいかがですか?」
「いや、今日は艶様贔屓のお嬢さんがたに譲るよ」
そんな二人のやり取りに、女性たちがきゃあきゃあと声をあげた。香澄としては、久馬は譲ったのではなく、面倒ごとを回避しただけのようにも思えるのだが。
久馬の陰に隠れた香澄は、心の中で「役者崩れなんて、嘘つき」とつぶやいた。