翌日、多恵の呼びかけに応じて店にやってきたのは、山伏装束の男だった。
「こちらが掛け軸を見てくださる修験者の先生です」
「……っ!」
香澄は男を見て、あげそうになった声をすんでの所で呑み込んだ。その修験者、立派な髭をたくわえているが、細い狐目にいやというほど見覚えがある。
艶煙だ。
「よろしくお願いします」
頭をさげた浅田屋夫婦に大仰にうなずいた彼は、件の掛け軸のある部屋に案内されていった。香澄も黙ってその後に続く。
部屋に入り、床の間の前で足を止めた修験者――艶煙は、自分で用意した画を、もっともらしく時間をかけて検分する。そっと手を伸ばし、恨めしげな眼差しの女に触れ、やさしくその顔を撫でて手を離す。
そして、硬い表情でふり返った。
「この画は……」
神妙な顔つきでつぶやいて、部屋にそろった浅田屋夫妻と香澄を順に見やる。
「この掛け軸は、どこで手に入れられたのですか?」
「この娘が、私に買い取って欲しいと言って持ってきたのです」
源助の言葉に艶煙は香澄に目を向ける。
「あなたは、どちらで?」
「えっと……。それは父のものだったんです。何度かお金に換えようとしていたのを見ていたので、もしかしたら、価値のあるものなのかもしれないと思って。こちらの旦那様が画がお好きだと聞いて、買っていただけないかと思って持ってきたんです」
「なるほど」
久馬が考えたらしい設定を香澄が口にすると、彼は深くうなずいた。
香澄には彼が何をどうしようとしているのかはわからなかったが、画が変化したのが彼の策略であることは確信した。
これが吉蔵の依頼、『浅田屋の主人をこらしめる』ための仕掛けなのだろう。
「彼女のお父上が手放せなかったのもわかります」
「どういうことでしょうか?」
不安そうな源助に、艶煙は暗い声音で語る。
「この画に描かれている娘は、かつて奉公先の主人にひどい暴行を受けていたようです。嫁に行けぬ身体にされたというのに、主人は安い金でカタをつけた。その後もあまり幸せな生活を送れなかったようですな。そのせいで、この画は男にだけ祟るのです」
「な……」
源助は言葉を詰まらせて、その場に立ちすくむ。それがまるで彼自身のことを語られているかのようだったからだろう。
実際、彼を題材にしてでっちあげられた話なのだろうが。
「彼女のお父上が、生きている間には手放せなかったのもそのためでしょう。この画は持ち主が死ぬまで離れぬ、手放せば不幸に見舞われるような代物です」
「なんと……」
すっかり騙されている源助は、血の気の引いた顔で艶煙にすがる。
「これはどうすでばいいのでしょうか?」
「画が日に日に変わっていったということは……」
艶煙は思案げに言葉を切り、ちらりと彼を見やった。
「ご主人。何か女性に恨まれるようなことはおありでしょうか?」
「い、いや、そんなことは、まさか……」
しどろもどろになりながら否定する彼の額に玉のような汗がふきだす。自覚はあるようだ。
うんうんと艶煙はうなずく。
「そうでしょうとも。浅田屋さんほどの大店のご主人が、まさか女性の恨みをかうようなことをなさるとも思えません。しかし、これは持ち主が女性に不実を働くようなことがあれば、呪います」
「の、呪う!?」
さらりと口にされた言葉を繰り返した源助の声は裏返っていた。けれど艶煙はまったく意に介した様子なく続ける。
「はい。身を慎んでおられるご主人のような方でしたら、もちろんなんの心配もいりません。死ぬまでこの掛け軸を大事にすればよいだけのことです」
「こ、こんなものを、手元に置き続けなければいけないというのか!?」
身を慎んでいない彼としては手元に置いておきたくはないだろう。
怒鳴る源助に対して、艶煙は飄々と応じる。
「手放してもかまいませんが、その後のことは私には保証できません。この画の娘は、そうとう男を恨んでいるようですからな」
源助は恐怖にか、それとも怒りにか、ぶるぶるとふるえた。
掛け軸を手元に置いておけば若い娘に手をだせない。かといって手放せば不幸に見舞われるかもしれない。どちらをとっても彼にとっては不都合なのだ。
突然源助が香澄をふり返った。
「なんというものを持ち込んでくれたんだ……!」
「わ、私は……」
今にも殴りかかってきそうな勢いで踏みだした源助に香澄は後じさる。
「おまえのような娘は雇っていられない! この店から出ていけ!」
「喝ァッ!」
源助の怒鳴り声と同時に、艶煙の声が響いた。
源助だけでなく、香澄も驚いて息を呑んだ。
艶煙は厳しい表情を浮かべ、固まってしまった源助に語りかける。
「おなごをしいたげてはなりません。ほら、ごらんなさい。掛け軸の娘が……」
つい、と。彼の指先が掛け軸を差ししめす。
全員の視線を女の姿に集めた彼は、厳しい表情を浮かべ、そしておごそかに、
「――目を光らせている」
と、続けた。
「ひぃ……っ!」
源助は腰を抜かしてその場にへたり込む。
香澄も掛け軸の女の眼差しを見て悲鳴をあげそうになった。
恨めしそうな目が、きらりと光ったのだ。
からくりのある画だと知っている香澄さえ驚いたのだ。何も知らず、かつ心にやましいことのある源助の恐怖はいかばかりだろう。
彼は掛け軸から目をそらし、両手を大きくふった。
「わかった! わかった、もうしない! この掛け軸も大事にする! だから堪忍しておくれ!」
悲鳴じみた声で叫んだ彼を見て、多恵がわずかにほほえんでいるのに香澄は気づいた。
もしかしたらこれは吉蔵ではなく、彼女からの依頼だったのかもしれない。
そう気づいた香澄は、目を光らせる掛け軸よりも、生ける女のほうがよほど恐ろしいのではないかと思った。
主人と一悶着あったような店には居づらいだろうと、多恵が計らってくれたおかげで、めでたく浅田屋を辞めて早三日。蕎麦屋の座敷で香澄は久馬と艶煙の二人と向き合って座っていた。
吉蔵に依頼されたとおり、首尾よく浅田屋の主人にお灸を据えることができた。香澄が売り込んだ掛け軸がそのために利用されたのは理解しているが、どんな仕掛けがあったのかは、今もわからないままだ。
食べ終わった蕎麦の器を脇によけ、香澄は艶煙に訊ねる。
「どういうことだったんです?」
「はい?」
さっそく食後の煙管に火を入れようとしていた艶煙が、ひょいと首をかしげる。
「だから、どうして画が変わったんですか?」
真剣に訊ねる香澄に対して、久馬がくっと喉を鳴らして笑った。箱から煙草を取りだしながら、あきれたように口を開く。
「あんなもの、毎日すり替えていたに決まっているだろう?」
「すり替えるって……」
毎日少しずつ違う画に取り替えていけば、たしかにじわじわ変化していくように感じるかもしれない。だが香澄が持っていったのは一幅だ。もちろん浅田屋の主人に売り渡してから一度も手を触れていない。
ということは。
「協力者がいたってことですか? 吉蔵さんとか?」
「いいや。どの部屋にでも自由に入ることができる人だ」
「まさか」
そんな者は多くはない。その中でも一番あり得そうなのは。
「多恵様?」
「そのとおり」
久馬は燐寸をすって煙草に火をつけると、美味そうに煙を吐いて続ける。
「お内儀が旦那への恨みを込めて、毎日毎日掛け軸を変えていたのさ」
香澄はあの美しい多恵が暗い笑みを浮かべて掛け軸を交換する様を思い浮かべた。
「そのほうが怖い」
やはり生きている女の情念のほうが、恨めしげに見つめてきた画の中の女よりも恐ろしく思える。我慢の限界を超えた妻に包丁で刺されなかっただけでも、浅田屋の主人は幸運だったのかもしれない。
掛け軸に隠されたお内儀の想いに想像をめぐらせていた香澄は、もうひとつ気になることを思いだす。
「あ、それなら、最後に目が光ったのは?」
「雲母ですよ」
艶煙が煙管の先を小さくふった。
「雲母?」
「きらきら光る石です。それをすりつぶして粉にしたものを、画を見るふりをしてちょいとつけておいたのです。香澄さんも旦那さんも、気味悪がって画をまじまじと見たりしなかったでしょう? けれど、あえて指摘したことでそこに目が行き、突然目を光らせたように見えただけですよ」
つまり、横井也有の句『化物の正体見たり枯れ尾花』と同じだ。恐れが強すぎて、ただの石粉の輝きが女の目の光に見えたのだろう。艶煙がそこに注意を向けさせたから、よけいに。
久馬はくわえ煙草で愉快げに笑いながら、上着のポケットから紙を一枚取りだした。彼の勤める新聞社の小新聞だ。
「まぁ、これで、浅田屋の主人もしばらくは身を慎むだろうさ」
差しだされたそれを受け取り、香澄はそこに躍る見出しを読みあげる。
「浅田屋の生ける幽霊画?」
どうやら、あの掛け軸についての記事らしい。
「呉服商浅田屋源助方に持ち込まれた掛け軸の娘、日に日に姿を変え陰惨な幽霊となり。拝み屋いわく、奉公先の主人から手ひどい仕打ちを受けた娘の描かれた掛け軸、男のみを祟り、一度手にすれば死ぬまで離れぬものだが、おなごに無体を強いねばなんら恐れるものではないとのこと。浅田屋の主人がなんの不安もなく手元に置けるのは、彼が清廉潔白であるがゆえであろう」
つらつらと記事を音読した香澄は、目をすがめて久馬を見た。
「なんですか、この記事。清廉潔白な浅田屋のご主人って」
これほど嘘くさい記事もない。彼の女好きを知っているのは浅田屋の奉公人だけではないだろうに。
あえてそんな書き方をしたのであろう久馬は、人の悪い笑みを浮かべている。
「誰もそんなことは思ってないだろうな。だが、そう笑われていることを知りながら気づかないふりをするのも辛かろうよ」
「意地悪ですね」
「これまで泣き寝入りしてきた娘さん方の敵討ちさ」
ふふんと鼻を鳴らした久馬を、艶煙が横目でながめてほほえむ。
「ふふ。久馬さんは女性におやさしいですから」
香澄は彼の言葉に久馬をまじまじと見た。自分への対応にはそのやさしさが感じられない気がする。
「どこが?」
「うるさい、小娘」
久馬は犬でも追い払うようにしっしと手をふった。やはりやさしさが足りない。
むぅと膨れた香澄に、煙管の灰を吹いた艶煙が改めて向き合う。
「さて。今回はご協力ありがとうございました。これで我々が詐欺師だという疑いも晴れたことですし、よかったよかった」
そう言った彼は、香澄の前に小銭を置いた。十銭硬貨が三枚だ。一週間ばかりの働きに対する報酬にしては少々多い。
「お金を……もらっているんですか?」
依頼人から高額の報酬を受け取っているのかと思って訊ねれば、艶煙は首を左右にふった。
「いいえ。今回は掛け軸のお金をいただいたくらいですが、あれも絵師にほとんど渡してしまいましたしね。ですからいくらも差しあげられませんけれど。それは口止め料ということで」
口止め料などもらわなくとも、誰かに話すつもりはない。それよりも、彼らが報酬も得ないでどうしてこんなことをしているのかが気になった。
「お金にならないのに、どうして?」
「あたしは芝居の醍醐味を味わえますし、久馬さんは記事が書ける。損はしてないですよ」
そう言われればそうかもしれないが、もし彼らがしていることが世の中に知られれば、好意的には受け容れられないのではないだろうか。
「でも……もしバレたら、損、ですよね?」
「バラすつもりなら」
すっと艶煙が懐に手を入れる。冗談めかして笑っているが、まさか匕首でも忍ばせているのではないかと思わせる仕草だ。ぶすりと刺されてはたまらないので、香澄は慌てて両手をふった。
「そういうことじゃなくて」
どうしてそこまでして誰かのために人を騙すのか。それが知りたいだけだ。
香澄がそう訊ねる前に、艶煙は察したように口を開いた。
「世の中にはね、妖怪や怪異現象のせいにすればうまくいくことがあるんですよ。桜野さんのように、伯父の顔をつぶせない、けれど店は辞めたい。浅田屋のお内儀のように、旦那をこらしめたいけれど、夫婦仲を壊したいわけではない、とね。だからそれをなんとかするために知恵を貸す。妖怪や怪異現象を利用すれば、誰も悪者にならなくていいでしょう? それだけのことです」
香澄は黙って煙草を吹かしている久馬に目を向ける。
「あなたも?」
人助けを好んでするような男には見えない。むしろ冷たくつき放すような印象さえある。
――けれど。
「……俺も、救われた一人だからさ」
彼は香澄を見ることなく、ささやきに近い声で答えた。
恩返し、のようなものなのかもしれない。
意地が悪くて、嫌味で、女性に優しいと言われているのに香澄には冷たい彼に、一体何があったのだろうか?
口止め料を受け取り、ここを立ち去れば、彼らとの繋がりは消える。
「私……」
人を騙す。
正しいこととは思えないが、誰かを救えるならば悪いことではないのかもしれない。彼らを手伝い続けていれば、彼らがこんな《裏稼業》を続けている気持ちも理解できるようになるのだろうか。
騙された一人として、それを知りたかった。
香澄は口止め料を押し戻し、身を乗りだして二人に訴える。
「私。手伝います。手伝わせてください」
「はぁ?」
目をむいた久馬が煙草を落としそうになりながら声をあげる。
「おまえまさか、俺を見返すためにとか言うんじゃないだろうな?」
「えっと、それは八割くらいですよ?」
「けっこうでかいな」
「でも、女手があるほうが都合がいいでしょう?」
女にしかできない役目もきっとあるはずだ。だから彼らの役に立つことができるに違いない。
久馬とは対照的に、艶煙は楽しげに笑っている。
「それはいい。そうしましょう」
「ふざけんな、艶煙」
もう少し説得しなければならないようだったが、香澄は引くつもりはなかった。
久馬を見返すため、いや、彼らの心の在処を知るために。
久馬には迷惑だろう決心を固め、香澄は彼の攻略を開始した。