久馬が香澄たちを連れていったのは、巡査の交番所だった。
「仕事中にすまんな。いてくれてよかったよ」
久馬の呼びだしに応じて現れたのは、彼とさほど年齢の変わらない青年だった。久馬よりわずかに背は低いが、がっしりとした体つきで、巡査の制服と腰のサーベルがよく似合っている。
「おまえから訪ねてくるとはめずらしいな」
帽子の庇に軽く手を触れて挨拶した彼に案内されたのは、簡素な机と椅子があるだけの部屋だった。香澄は勧められた硬い椅子に、先ほど助けた少女と並んで座った。
青年は香澄たちの向かい、久馬の隣の椅子を引いて腰をおろした。やさしく落ち着いた眼差しを向けられた香澄は、なんとなくどこかで見た顔のような気がして、内心首をかしげる。初対面のはずなので気のせいだろうけれど。
愛想笑いを浮かべた香澄に、久馬が青年を紹介する。
「こいつは松野勝之進。見ての通り巡査だ。俺の母方の従兄でな」
「あ、だから……」
香澄は思わずつぶやいて、久馬と勝之進の顔を見比べた。
「どこかで見たような気がしたんです」
眼差しの雰囲気は違うが、久馬と目元がよく似ているのだ。口元はあまり似ていないので、笑うと感じは違うけれど。
「よく言われるんだよ」
勝之進はほほえんで、香澄と先ほど若者たちに絡まれていた少女を順に手で示す。
「こちらのお嬢さん方は?」
「こいつは俺の職場で働いている井上香澄。こちらは……」
まだ目元を赤くしている少女が、小さく名乗る。
「三羽美幸です」
美幸は半ば隠れるようにして、香澄の袖に縋りついたままだ。相手が巡査でも、男性が怖いのかもしれない。
そんな美幸の代わりに久馬が説明する。
「この近くで素行のよろしくない餓鬼どもに絡まれていたところを助けたんだ」
久馬の言葉に勝之進の表情がわずかにくもった。それを見逃す久馬ではない。
「警邏が足りていないんじゃないのか? そのとき、かんざしまで盗まれているんだぞ」
ぐっと唇を引き結んだ勝之進をさらに追及する。
「心当たりがあるようだな?」
勝之進は諦めたように溜息をつくと、部屋の外に漏れるのを恐れるように声をひそめて答えた。
「――とある華族の子息とその取り巻きだ」
「おおかたこれまでも、届けがあっても手がだせなかったといったところか」
「うむ」
忌々しげに肯定した勝之進は、落ち着かなさげに帽子を被り直す。
彼自身、それをよしとは思っていないようだが、どうすることもできないのだろう。相手は華族。彼は一介の巡査だ。けれど美幸は怖い目に遭い、大事な母親のかんざしまで盗られたのだ。そんなときこそ、警察の出番ではないのだろうか。
香澄は我慢できずに勝之進へ詰め寄る。
「それじゃあ、泣き寝入りしろってことですか!? 美幸さんはお母様の形見のかんざしを盗られているんですよ!?」
「それは気の毒に思うが」
歯切れ悪く応じる彼に、久馬が鼻を鳴らす。
「組織の下っ端というのは、感情だけで動けるものではないのさ」
「ぐう」
勝之進は反論することなく、ただ呻いた。久馬は身を乗りだして、小声で従兄に問いかける。
「その餓鬼、名はなんという?」
久馬の問いかけに、勝之進は不審げに眉を寄せた。
「何をするつもりだ」
「今後のために聞いておくだけだ」
彼の言葉を信じたわけではないだろうが、美幸を助けることができない後ろめたさもあったのか、しばし間を置いてから勝之進はその名を口にした。
「高梨実篤だ」
「高梨……。そうか」
名前を聞きだせただけで満足したのか、久馬は思いのほかあっさりとうなずく。対して勝之進は不安そうに彼の表情をうかがった。
「手をだすなよ」
勝之進は久馬の裏稼業について教えられてはいないだろう。けれど久馬がなにがしかよくないことを考えていると察したようだ。
「華族に恨みを買うような馬鹿な真似はせんよ」
久馬は軽く笑ってそう言ったが、香澄にはとても信じられなかった。絶対に何か悪いことを考えているに違いない。そういう顔をしている。
久馬は立ちあがると帽子を被り、「帰るぞ」と短く言って部屋を出ようとした。香澄たちもそれに続こうとしたが、背を向けた久馬を勝之進が呼び止める。
「なあ、久馬!」
「なんだ?」
「その、だな」
呼び止めたものの、戸惑いげに言葉を途切れさせる。
「高梨家のことか?」
「いや……」
どうやら高梨実篤についての話ではないらしい。
何か言いにくそうに口ごもる従兄を見て、久馬は首をかしげた。
「どうした。らしくないな」
「…………」
話そうか話すまいかしばし悩んでいたが、香澄たちを見て、今この場で話すべきではないと考えたのか、彼は結局首を左右にふり、力なく続けた。
「またいずれ、話しに行く」
そして何事もなかったかのように笑うと、久馬の肩を叩いた。
「頼むから高梨家に手をだすようなことはしないでくれよ」
「安心しろ。昔、袖の下を持ってきたことがある家だ。脅しの材料なら十分ある」
「おまえ……!」
「わかった、わかった。おまえが教えたとは誰にも言わぬよ」
「おい!」
久馬は焦る勝之進に愉快げに笑う。そして、
「じゃあ、またな」
手をあげて勝之進へ別れを告げた彼に続き、香澄は美幸の背中に手を添えて、交番所を後にした。
「ひどくないですか!?」
交番所を出た香澄は、先ほどの出来事について落ち着いて話すため、美幸も誘って三人で小料理屋にやってきていた。そして煮物と焼き魚の皿を前にして、向かいに座った久馬へ力強く訴える。久馬は焼き魚の身をほじっているが、香澄は怒りが収まらずに空腹を満たす気にもならなかった。
「美幸さんはかんざしを盗られたんですよ! つまり泥棒じゃないですか! それなのに警察が何もしてくれないなんて!」
「平民が手をだせる相手じゃないんだ。仕方ないだろうが」
「でも、納得できません。お母様の形見なのに」
くっと香澄は唇を噛んだ。
悔しい。とにかく悔しかった。
自分が美幸の立場だったら、門前払いを食らうことがわかっていても、高梨家に乗り込むくらいのことはきっとしただろう。
当事者の美幸はといえば、まだ目元は少し赤いが、落ち着きを取り戻した様子だった。けれど彼女の膳も箸がつけられていない。
香澄の隣で、美幸は申し訳なさそうに頭をさげた。
「ありがとうございます、香澄さん。私のためにそんなに怒ってくださって」
「だって……」
香澄はうつむいて、膝の上で拳を握った。
「私のお母様も、子どものときに亡くなったから……」
だから、母の思い出というものにこだわってしまうのだ。
「とにかくおまえは飯を食え。腹が減ると機嫌も悪くなるもんだ」
「別にお腹が減ってるから怒ってるわけじゃありません」
「あんみつもつけてやるから」
「それ、久馬さんが食べたいだけでしょ!」
久馬はひらりと手をふって店の女中を呼ぶと、あんみつを三皿注文した。美幸が慌てた様子で、ぺこりと頭をさげる。
「私の分まで、ごめんなさい」
「気にしなくてもいい。あんたが無事だったお祝いだ」
ちらりと笑った彼に、美幸が頬を染めた。
なんだか今日は、こんな反応をする女性ばかりを見ている気がする。けれど久馬に驚きも照れもないところを見ると、見惚れられることなど慣れているのだろう。人生に一度くらい男性に見惚れられたいものだ。しかし十人並みを自負する香澄にそんな機会を想像することはできなかった。
「どうした、不細工な顔して」
「もともとこういう顔ですよ」
むぅと膨れた香澄は、箸を手にして彼に問いかける。
「美幸さんのかんざしですけど、なんとかして取り返せませんか? ほら、久馬さんの悪知恵で」
久馬ならば例の裏稼業の方法で、かんざしを取り返せるのではないかと思う。本来、香澄が頼むべきことではないだろうが、美幸は久馬が裏でこそこそ悪さをしていることを知らないのだ。ここは自分が一肌脱ぐしかない。
「おまえ、俺のやる気を削ごうとしてるだろう」
味噌汁を一口すすった久馬は、改めて美幸へ目を向けた。
「失礼なことを訊くが、盗られたかんざしは値の張るものだったのか?」
「値段のことはわかりませんが、珊瑚のかんざしですから、安くはなかったと」
「それならば、捨てることはないかもしれない。捨てられてさえなければ、取り返すこともできるかもな」
たしかにかんざしそのものが捨てられ、なくなってしまっていては、取り返しようがない。
食事を終え、煙草をくわえた久馬は、しばし視線を宙にとめて考え込む。香澄たちが後ればせながら料理に手をつけつつ待っていると、彼は煙草の火を灰皿で揉み消してから口を開いた。
「お嬢さん、二度と髪に挿して歩けなくなってもいいかい?」
「え……?」
「大事な形見として、部屋でながめることしかできなくなっても、かまわないか?」
久馬の再度の問いかけに、その言葉の意味を理解して、美幸の表情が輝く。
「はい! 手元に戻るなら、それだけで……!」
「あの場でかんざしを取り返さなかった俺も悪いしな」
「ありがとうございます!」
ふたたび泣きだしそうになりながらも礼を言う美幸に住所を訊き、その日はひとまず解散となった。
「ひどくないですか!?」
交番所を出た香澄は、先ほどの出来事について落ち着いて話すため、美幸も誘って三人で小料理屋にやってきていた。そして煮物と焼き魚の皿を前にして、向かいに座った久馬へ力強く訴える。久馬は焼き魚の身をほじっているが、香澄は怒りが収まらずに空腹を満たす気にもならなかった。
「美幸さんはかんざしを盗られたんですよ! つまり泥棒じゃないですか! それなのに警察が何もしてくれないなんて!」
「平民が手をだせる相手じゃないんだ。仕方ないだろうが」
「でも、納得できません。お母様の形見なのに」
くっと香澄は唇を噛んだ。
悔しい。とにかく悔しかった。
自分が美幸の立場だったら、門前払いを食らうことがわかっていても、高梨家に乗り込むくらいのことはきっとしただろう。
当事者の美幸はといえば、まだ目元は少し赤いが、落ち着きを取り戻した様子だった。けれど彼女の膳も箸がつけられていない。
香澄の隣で、美幸は申し訳なさそうに頭をさげた。
「ありがとうございます、香澄さん。私のためにそんなに怒ってくださって」
「だって……」
香澄はうつむいて、膝の上で拳を握った。
「私のお母様も、子どものときに亡くなったから……」
だから、母の思い出というものにこだわってしまうのだ。
「とにかくおまえは飯を食え。腹が減ると機嫌も悪くなるもんだ」
「別にお腹が減ってるから怒ってるわけじゃありません」
「あんみつもつけてやるから」
「それ、久馬さんが食べたいだけでしょ!」
久馬はひらりと手をふって店の女中を呼ぶと、あんみつを三皿注文した。美幸が慌てた様子で、ぺこりと頭をさげる。
「私の分まで、ごめんなさい」
「気にしなくてもいい。あんたが無事だったお祝いだ」
ちらりと笑った彼に、美幸が頬を染めた。
なんだか今日は、こんな反応をする女性ばかりを見ている気がする。けれど久馬に驚きも照れもないところを見ると、見惚れられることなど慣れているのだろう。人生に一度くらい男性に見惚れられたいものだ。しかし十人並みを自負する香澄にそんな機会を想像することはできなかった。
「どうした、不細工な顔して」
「もともとこういう顔ですよ」
むぅと膨れた香澄は、箸を手にして彼に問いかける。
「美幸さんのかんざしですけど、なんとかして取り返せませんか? ほら、久馬さんの悪知恵で」
久馬ならば例の裏稼業の方法で、かんざしを取り返せるのではないかと思う。本来、香澄が頼むべきことではないだろうが、美幸は久馬が裏でこそこそ悪さをしていることを知らないのだ。ここは自分が一肌脱ぐしかない。
「おまえ、俺のやる気を削ごうとしてるだろう」
味噌汁を一口すすった久馬は、改めて美幸へ目を向けた。
「失礼なことを訊くが、盗られたかんざしは値の張るものだったのか?」
「値段のことはわかりませんが、珊瑚のかんざしですから、安くはなかったと」
「それならば、捨てることはないかもしれない。捨てられてさえなければ、取り返すこともできるかもな」
たしかにかんざしそのものが捨てられ、なくなってしまっていては、取り返しようがない。
食事を終え、煙草をくわえた久馬は、しばし視線を宙にとめて考え込む。香澄たちが後ればせながら料理に手をつけつつ待っていると、彼は煙草の火を灰皿で揉み消してから口を開いた。
「お嬢さん、二度と髪に挿して歩けなくなってもいいかい?」
「え……?」
「大事な形見として、部屋でながめることしかできなくなっても、かまわないか?」
久馬の再度の問いかけに、その言葉の意味を理解して、美幸の表情が輝く。
「はい! 手元に戻るなら、それだけで……!」
「あの場でかんざしを取り返さなかった俺も悪いしな」
「ありがとうございます!」
ふたたび泣きだしそうになりながらも礼を言う美幸に住所を訊き、その日はひとまず解散となった。