明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業



 真夜中のこと、高梨実篤はふと目を覚ました。

 衣擦れの音が聞こえる。

 雨戸が閉(た)てられ、暗闇となった廊下と寝所を隔てる障子が、何故かぼんやりと明るい。

 こんな時刻に、一体誰がやってきたというのだろうか。訪ねてくる者に心当たりはない。

 彼は起きあがると、障子の向こうへ声をかけた。

「村(むら)中(なか)か?」

 もしかしたら家令の老人が、火急の用でやってきたのかもしれぬと思ったのだ。しかし返事はなく、衣擦れの音だけがゆっくりと近づいてくる。

 気味が悪い。

「何者だ」

 誰何する声がわずかにふるえた。

 衣擦れの音が止まり、明かりだけが障子の向こうでゆらゆらと揺れる。

「何者だ!? 人を呼ぶぞ!」

 実篤は布団から出てじりじりと障子から遠ざかると、床の間に飾られた刀を手にした。生まれてこの方抜いたことはないが、威嚇には十分だろう。もし相手が屈強な賊であったら、人を呼んで戦わせればよいだけのことだ。

 ふと明かりが動き、人影が障子に映った。細い身体に長い髪を垂らしている。

「なんだ、女か」

 ほっと息をついてつぶやいたと同時に、ふつりと明かりが消えた。周囲は一瞬にして暗闇に支配される。

「おいっ!」

 部屋の隅で小さくなったまま声をかけるが、返る声もなければ、衣擦れの音さえも聞こえない。誰かがまだそこにいるのか、いないのかもわからなかった。

 長い時間――いや、もしかしたらほんの短い時間だったのかもしれない――実篤は動けないままに見えない障子をにらみつけていた。そしてやっと気持ちを奮い立たせ、けれども立ちあがることはできず、這いずって障子に近づく。

 しっかりと刀を抱えたまま、恐る恐る手を伸ばし、障子を開けた。左右を確認し、安堵の息をつく。

 誰もいない。

 もしや、ただ寝ぼけただけだったのだろうか。

 こんなことを話せば、村中であれば「正しい生活を送れていないからでございましょう」と小言のひとつも言いそうだ。

 ともあれ人を呼ばなくてよかった。怖い夢でも見たのだろうと、嗤われるところだった。

 怯えた自分を笑い、実篤は布団へ戻ろうとした。しかしその指先に何かが触れる。細い、糸のような。それにしては手触りはすべらかで。

「あ……?」

 そろりと床に手を這わせ、彼はそれを――その束をつかんだ。

「う……、うわぁぁぁっ!」

 自分のつかんだものの正体に思い至った彼は、それを投げ捨てた。けれどしっとりと湿ったそれは、指に絡まってなかなか離れてくれない。

「くそ! なんなんだ!」

 ふり回した手を寝間着の裾でこする。

 床に落ちたのは、艶やかで長い、女の髪だった。

 それからというもの、毎日深更となると、実篤の寝所へ何かがひたひたと近づいてくるようになった。ゆらゆらと揺れる淡い明かりは気味が悪いほどにゆっくりと近づいてきて、髪の長い女のような姿を障子に映しだす。

 これでもう、五日目だ。

 今夜も気配に気づいた実篤は、掛布を頭からかぶった。

 それは、何を言うでもない。何をするでもない。

 ただやってきては、実篤の寝所の前に黒髪だけを残していく。

 初日こそ障子を開けた。けれどそこに髪が残されている以外何もないことを確認してからは、明かりが去っていき、朝日が昇るのを掛布にもぐって待つようになった。

 何もしない。目的がわからない。だから余計に気味が悪い。

 今夜もそれは部屋の前までやってくると、実篤の気配をうかがうようにしばしの間その場にとどまっていたが、結局障子を開けることなく去っていった。けれどきっと黒髪だけは、やってきた証し立てをするように残されているのだろう。

 気配が遠のいても部屋から出ることはできなかった。薄い障子一枚隔てた向こう側が、まるで異界のように思える。

 明けないのではないかと不安になるほど長く感じる夜を、浅い眠りで乗り切り、雨戸の隙間から日が差し込んだのを確認してから、実篤はやっと布団を出た。恐る恐る障子に近づき、そっと開く。

 寝室の前の廊下に、女の黒髪が一房、蛇のようなうねりを描いて落ちている。

「……っ!」

 実篤は障子を開けたその姿のまま硬直し、息を呑んだ。

 黙して語らず、けれど何かを訴えるように髪だけが残されている。

 触れていない黒髪が体に貼りついてはがれないような、そんな気持ち悪さに支配される。足元から背筋へと、恐怖が這い上ってくる。

 実篤は黒髪から目を逸らした。

「誰かあれ!」

 呼べば、すぐに家令と女中がやってきた。五日目のことともなれば、彼らの顔に驚きはない。初めこそ悲鳴をあげた中年の女中は、今朝は朝日が昇るとともに呼びだされたことに面倒くさそうな顔をしている。髪ごとき、と思っているのかもしれない。

「どうされました?」

 すでにお仕着せを身につけた家令の村中が実篤に問いかけている間に、女中が雨戸をあけた。朝日が差し込み、黒髪の全容が明らかになる。

 一房の髪。長く櫛を通していないのか、絡まりあっているのがさらに不気味だ。

「これを片づけろ」

 廊下から目をそらし、実篤は命じた。家令は溜息をつくと、女中へ目配せする。

「これでもう五日目ですな」

 彼は、黒髪を手ぬぐいで包むようにして拾いあげる女中を見ながら言った。

「昨夜も見回りをさせましたが、何者も現れなかったと報告がありました。まさか、物の怪の類いでは……」

 髪が残されるようになって二日目に、村中へは屋敷の見張りをするように命じてあった。真面目な彼は実篤の命令に従い、夜間の警護を置いたらしいのだが、怪しい人影を見たという報告はこれまでになかった。では一体誰が髪を置いているというのだろうか。毎夜たしかに不審な明かりが近づいてくるというのに。

「物の怪など……」

 いるはずがないと思いながらも、いないとはっきり言い切ることができない。物の怪でないならば一体、何が起こっているのか問われても答えに困る。

 もしや誰かが、悪戯の仕返しにやってきたのだろうか。面白半分に平民をからかったことは多々ある。しかし高梨家の跡継ぎである自分に仕返しをできる者などいるはずがない。そもそも、屋敷までやってくるような者には、この家令の老人が金を渡しているはずだ。夜中に忍び込んで実篤の寝首をかくよりも、誰だって黙って金を受けとることを選ぶだろう。

 金さえあれば何をしても許される。世の中はそういうものなのだ。

 こうして悶々と考え込んでいても答えは出ず、気はふさぐばかりである。

 気味の悪い出来事など忘れてしまうためには、気晴らしが必要だ。弱い者が怯え、許しを請う姿を見れば、気も晴れるだろう。

 実篤はいつもの取り巻きを連れて出かけることに決めた。