明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業


「食事を終えたら今日も出かける」

「いつもの辺りへ?」

「ああ。そうだ」

 着替えて朝食を終えた実篤は、呼びだした取り巻きたちと合流すると、屋敷を後にした。虐げることのできる相手を探して町を歩く。

 ここ数日、道行く人々の中に庶民の女が増えていた。取り巻きの話によれば、九段の招魂社に芝居小屋が掛かっているらしく、そのためだろうという。

 小屋掛け芝居など華族が見るようなものではない。だが人の集まるところには、実篤の嗜虐心をあおるような者――つまり彼よりも無力で貧しい者も集まる。

「今日も芝居はやっているのか?」

「さあ、どうでしょう。確認してきましょうか?」

「いや、べつに構わん」

 芝居自体に興味はないのだ。また虐げる相手を探すために、わざわざ九段の急坂を上ってまで招魂社に行く気もない。坂の下をふらつくか、場所を変えるか決めたいだけだった。

 すると取り巻きの一人が、思いだしたように口を開く。

「なんでも女の妄執ものだそうですよ。気味が悪いと聞きますが、何故だか評判だそうです」

「ふん。女など……」

「たしか、『髪鬼』という妖怪になった女の話だとか」

 実篤の背筋を冷たいものが走り、全身に鳥肌が立った。脳裏に、絡まりあった黒髪がよぎる。

「髪……!? 髪の毛のことか!?」

 足を止め身を乗りだした実篤の剣幕に驚いたのか、芝居の内容を説明した青年は、わずかに身を引きながら答える。

「は、はい。その、女の恨みが宿った髪が妖怪になったとか、そういう話だと、うちの若い者が話してましたが」

「…………」

 この五日間の出来事が一瞬にして頭の中で繰り返され、冷や汗が流れ落ちる。

 まさか本当に、髪を残していく妖怪がいるとでもいうのか?

「ど、どうかしましたか?」

「……なんでもない」

 ひんやりと張りつくシャツの不快感に顔をしかめ、実篤はふたたび歩き始める。

 早く。早く忘れてしまいたい。

 あんな髪を残していくなど、ただの……。

 誰かの悪戯? そんなことをする者が屋敷にいるだろうか?

 では仕返しか? いや、仕返しに来られる者など──来る者など、いるはずがない。

 それならば……?

 考えはまとまらず、歩みが速くなる。そんな彼に声をかける者があった。

「そこを行かれる若君」

 実篤はびくりとして立ち止まり、声の主へ目を向けた。それは道ばたに店をだしている占い師だった。茶渋色の頭巾に丸い眼鏡をかけている。ほっと息をつき、気を落ち着かせる。自分は華族である高梨家の子息だ。一体、何を恐れているのかと。

 占い師は手元で筮竹をさばきながら、細い目を笑みのような形にして実篤を見つめていた。

 実篤は「ふん」と鼻を鳴らす。妖怪同様、占いなど旧時代の遺物である。これぞ嫌がらせには格好の相手だ。

「占術師か。俺は占いなど信じんぞ」

「まぁ、そうおっしゃらず、話だけでもお聞きください」

 西洋から新しいものが入ってくるこの時代、占いはすでに古くさい時代後れのものだ。明治政府が暦や星の運行に従って政に口をだしていた陰陽寮を廃し、政から卜占を排除したのを見てもそれは明らかである。

 実篤は占い師の卓に歩み寄り、取り巻きの一人へ財布をだすよう顎をしゃくった。

「今時占いだけでは食っていけまい。金が欲しいのなら……」

「いえいえ、若君。お代は不要にございます。私がお伝えしたいことはただひとつ」

 占い師はついと手をあげると、実篤の顔を指さす。

「死相が出ておりますよ」

 実篤の頬から血の気が引いた。

「な、なにを言っている! 死……っ」

「最近、おなごに恨みを買うようなことをした覚えはございませんか?」

「ない! そんなこと、あるはずが……」

「では、おなごのものを、たとえば着物や帯、櫛やかんざしなどを手にされたことは?」

 ぐっと実篤は口をつぐんだ。

 即座に思いだせるものといえば、平民の娘から取りあげた珊瑚のかんざしくらいだ。身の丈に合わぬものを身につけていたので、立場を思い知らせてやろうと軽い気持ちで声をかけ、取りあげたものだ。それを覚えていたのは、楽しみを邪魔されたからだ。

 だがあれは、平民でありながら高価そうなかんざしを挿していた女のほうが悪い。それにもう、あのかんざしは手元にないのだ。取り巻きの一人が女に贈りものを考えていると耳にしたので、くれてやってしまった。

「実篤さん……」

 怯えたように呼びかけてきたのが、まさにその一人だ。すっかり占い師の言葉を信じてしまっているのか、顔色が悪い。

「そうとうな怨念がこもったものだったのでしょうなぁ」

 しみじみとつぶやいた占い師は、ふと視線をさげ、実篤の肩に目を向ける。

「ほら、ごらんなさいませ」

 肩に触れた手が離れ、何かが実篤の鼻先へ突きつけられる。

「女の念が絡みついておりますよ」

 そう言った占い師の指先には、長い黒髪が一筋つままれていた。


 日陽新聞社のサロンへおりていき、室内を見渡した香澄は、長椅子の肘掛けからひょっこりと飛びだしている脚を見つけて歩み寄った。

「久馬さんっ!」

「なんだよ」

 探し当てた久馬は、眠そうな顔の下半分を、胸に置いていた帽子で隠す。

「また怠けてるんですか!?」

 久馬はちょっと目を離すと、すぐにサロンでごろごろし始める。しかも何かと言い訳をして、自らを正当化しようとするので質が悪い。

「何を言っている。こうしてサロンで会話を盗み聞きするのも、大事なネタ探しのひとつ……痛っ!」

 香澄はぴしゃりと久馬の額を打った。

「寝てたじゃないですか」

 にらみつけて言えば、久馬は額を撫でながら起きあがった。サロンに集まった面々が、そんな光景にやんやと騒ぐ。

「おお、手厳しいな、香澄ちゃん」

「すっかり尻に敷かれているようじゃないか、内藤君」

「香澄ちゃん、がんがん働かせてやれよ!」

「はい! がんばります!」

 味方を得た香澄が力強くうなずけば、久馬が呻いた。

「がんばらんでいい。そしてけしかけんでください」

 溜息をついた久馬は、立ちあがると大きく伸びをした。

「それで、どうした?」

「まだ寝ぼけてるんですか? 出かけるんでしょう?」

 香澄は久馬の腕をつかんでぐいぐいと引っ張り、彼を新聞社のサロンから連れだした。日差しの強くなってきた中、お遣い用の菓子箱を片手に日傘を差して街を歩く。

「艶煙さんばっかり働かせて、久馬さんもちゃんと働いてください」

「最近、ずいぶん艶煙の肩を持つじゃないか」

「肩を持っているんじゃないです。事実です」

 香澄たちは、ちょうど一週間前にも訪れた、九段の辺りへ向かっている。今日も実篤がその周辺をうろついていると艶煙から報せが入ったからだ。

「妖怪の本ばっかり読んでるくせに」

 久馬の机の上にはいつだって妖怪関係の本が積まれているのを思いだして言えば、彼は顔をしかめた。

「俺が妖怪好きみたいに言うな」

「違ったんですか?」

「妖怪が好きなのは艶煙だ。俺は別に、こんなことをしていなければ、妖怪の本なんざ縁がなかっただろうよ」

「裏稼業のために、新聞社にまで持ち込んでるんですか?」

「俺は妖怪の記事を書いてるんだから、そういった本が机に置いてあるくらいがちょうどいいんだ。一石二鳥だろ」

「…………」

 それはそうなのだが。

 彼はどうして妖怪の記事を書くような仕事を選んだのだろうか。日陽新聞社の記事はたしかに誰でも読みやすい内容と文章になっているが、その記事すべてが政治経済に関わらない記事というわけでもなければ、妖怪の記事でもない。

 普段から妖怪記事を書いていれば、裏稼業に都合がいいからなのか。

「久馬さんって、こっちの仕事のために新聞社で働いているんですか?」

 久馬はひょいと眉をあげた。

「それとも、新聞社で働いていたから妖怪を記事にするって思いついたんですか?」

「日陽新聞社に入ったのは、内村さんに誘われたからだ」

「え、お知り合いだったんですか?」

 内村はたしか、傘張り浪人だったと言っていたが。

「戊辰の役の後、役宅から出て家を探しているときに知り合ったんだ。内村さんはちょうど一旗揚げようと、借金を頼んで回っているところだった」

「聞いちゃいけない話じゃないですよね?」

「今はそこそこ成功してるんだからいいんじゃないか。借金も返し切ったらしいし」

「へぇ」

 小さな新聞社だが、手広く商売をしていない分、商売敵も多い中で堅実に稼いでいるようだ。

「新聞というものにも興味があったし、あの人の熱意に、江戸のころに付き合いのあった大店を紹介してやったんだ。それで『薩長の政治に物申してやろう』と意気投合して、一緒に働くことになったわけだ」

「待ってください。どうしてそれで、妖怪記事を書くことになったんですか」

 まったく話が繋がっていない気がするのは気のせいではないはずだ。

「それはな……」

 言いかけた久馬が口を閉ざした。香澄は久馬の視線を追う。

「来ましたね」

 行く手から数人の青年たちが歩いてくるのに気がついて、香澄は久馬へささやいた。久馬の話の肝心な部分は聞けなかったが、それはまた次の機会だ。今はこれからする小芝居のほうが大事だった。

 やってくる一団の中心にいるのは高梨実篤だ。洋装の仕立てのよさから、遠目にもひときわ家柄がよいことがうかがえる。けれどいかんせん、彼は中身に問題がある。

「大根役者なりに頑張ってくださいよ」

 妙に落ち着いている様子の久馬に、香澄はこっそりと訴えた。どれほど下手なのか知らないが、美幸のためにもここで失敗するわけにはいかないのだ。

「ふん。自分の役なら任せておけ」

「それもそうですね」

 言われてみれば、自分自身を演じるのに、演技力は不要かもしれない。

 近づいてくる若者たちは、何やら話をして盛りあがっているが、その中央を歩く実篤は会話に加わることもせず、わずかにうつむいて歩いている。心なしか表情も暗いように見えた。そういえばすでに艶煙が一芝居打っているのだ。どうやら多少はこたえているらしい。

 一団の中の一人が久馬に気がついた。

「貴様! この間の!」

 先日、久馬によって無様にも地面に転がされた青年だ。彼の叫びに、他の若者たちも色めきたつ。

「いつかは油断したが、今日はそうはいかんぞ!」

「女連れとは軟弱な奴め」

「女の前で恥をかかせてやる」

 負けを潔く認めるか、恥をかかされたと受けとるか、世間的にそのどちらが男らしいと受け止められるのか知らないが、ともかく若者たちは後者であり、香澄が好むのは前者である。

 久馬は彼らをあおるように、ふふんと鼻で笑う。芝居ではない。いつもの彼だ。

「かかってこいよ。相手になってやろう」

「おのれ!」

 余裕の体を崩さない久馬に、苛立ちを隠すことなく若者たちが飛びかかった。しかし、ふりあげた拳は軽くいなされ、体勢を崩したところで肩を押されたり足をかけられたりして、次々と地面に転がされる。久馬のほうはたいして大きな動きをしているわけではないのに、ころりころりと不思議なことだ。

 腕をひねられ背中を押された一人が、情けない姿で香澄の足下へ転がってきた。

「きゃぁぁっ!」

 当初の予定どおりで驚きはしなかったものの、香澄はやや大袈裟に悲鳴をあげると、手にしていた菓子箱を落とした。風呂敷の角をつかんだまま箱だけを落とせば、地面に落ちた菓子箱から蓋がはずれる。

 そして。

「うわぁぁっ!」

 鼻先に落ちたものを見た若者が、這いずるようにして香澄の前から逃げた。

「いやぁぁっ!」

 香澄も本気で悲鳴をあげて、風呂敷を投げ捨てて後じさる。

 箱を落として叫べとは言われていたが、箱の中から何が出てくるかまでは知らされていなかったのだ。けれど少し考えてみれば、たやすくわかっただろう。

「お、お菓子が……」

 香澄と若者の間に落ちたのは、長い黒髪だった。